コカトリス
「あの毛並み、最後にもう一度堪能しておけば良かったです」
口惜しそうに呟いたジェイドに、いつもの席で酒を煽りながら、ジャスパーが呆れ果てた顔をする。
「お前、その話で後悔する所はそこか?」
ジェイドが昼前に出掛けて明け方に戻って来た日から一週間、明らかに彼の様子はおかしかった。
店の営業に支障こそ無かったものの、ぼんやりと何かを考え込んでいたり、窓の外を眺めていたり。
それでいてジェイドは、自分の感情を表に出していないつもりだったらしい。
彼を知らない人間ならば、それで誤魔化せるだろう。
しかし、ほぼ毎日顔を合わせるジャスパーに、それが通用する訳も無い。
ジャスパーは初め、ジェイドがヒスイと遂に結ばれたのかと思った。
彼が彼女に惚れているかは微妙な所だったが、用事も無しに店に来る彼女の方は、本人に自覚こそ無さそうだったものの、彼を意識しているのが手に取る様に分かる。
二人が結ばれたならめでたい事だが、それにしてはジェイドは浮かない顔だった。
そして彼の朝帰り以降、ヒスイは店に姿を現していない。
その理由を酒の肴に問い詰め、あの夜の事を聞き出した結果が、先程のジェイドの台詞である。
「ここが一番重要でしょう」
「そこじゃねえだろ! お嬢さんの肩まで抱いといて、その先は無かったのかよ。チェリーか」
「残念ながら、違いますね」
「なら何で、そんな良い雰囲気になってる男女に何も無えんだよ。言ってみろ」
「考えてもみてください。彼女はまだほんの子供ですよ」
「そう言うけどな、十六はこの国じゃ、もう結婚出来る歳だ。子供だって産めるだろうよ。何の問題がある? しかも父親公認だろ」
そこでジェイドは、ようやく顔を赤くした。
「それは、単にからかわれただけで」
「あーもう!」
ジャスパーは頭を抱えた。
ジェイドは、そんな彼の空になったグラスを酒で満たす。
「そもそも、私は今、魔物以外に興味が持てませんし」
取って付けた様な言い訳に、口をへの字に曲げたジャスパーは、別の可能性に気付いてハッと顔を上げ、マジマジとジェイドを見た。
「まさかとは思うがお前、アンに操を立ててたりするのか」
「は?」
「騎士だもんなあ、盲点だったわ。そうか、でもそりゃ叶わないと思うぞ。大体、彼女には」
「何を言ってるんですか」
酒瓶を少々乱暴にテーブルに置いて、ジェイドは息を吐く。
「彼女とは、ただの雇用関係です。店まで持たせてくれた事に感謝はしていますが、それだけですよ」
「だったら何も問題無いだろ」
「私は、毛が無い動物に興味はありません」
「それ、今言う台詞かよ!」
いきり立つジャスパーに、ジェイドは溜め息で返した。
ジェイドは、ジャスパーがどうして色恋の事でここまで熱くなれるのか、理解出来ない。
見た目は筋肉だるまの癖に、中身はまるで、恋の話題に盛り上がるうら若き女性だ。
確かにあの夜、泣き腫らした瞼から覗く翡翠色の瞳が月に煌めいたのを見て、自分の中にある何らかの感情が動いたのは事実だ。
その煌めきがいつまでも、頭に残って離れないのも認めよう。
しかし、相手はまだ、花の美しさが生存競争によるものだと知りもしない、幼気な少女である。
自分の気持ちを満たす為だけに、それを穢す事が出来るのは、本能剥き出しのただの獣だ。
「もう、その話はやめにしましょう」
酒瓶に蓋をしたジェイドを、ジャスパーは口を尖らせて見上げた。
「そんな事じゃ、横からヒョイと誰かに持ってかれちまうぞ」
不快そうに眉を寄せたジェイドが口を開くと同時に、店のドアが開いた。
入って来た人物を見て、ジェイドは分かりやすく動きを止める。
ジャスパーは、眉を跳ね上げてそちらに手を振った。
「よう、お嬢さん」
ヒスイは、何か言いたげにジェイドの姿をチラリと確認したが、結局何も告げずジャスパーに笑顔を向ける。
「こんにちは」
「久し振りだな。どうしてた?」
「どうもしないわ。元気よ」
どうもしないにしては、態度がぎこちない。
どうやらこちらも、あの夜に何か思う事があった様である。
「で、今日はどうしたんだ?」
「実は、こんな物を貰ったのよ」
ヒスイは、肩に担いでいた大きな袋をジャスパーの座る隣のテーブルに置いた。
「これ、多分魔物だと思うんだけど。家で捌く訳にも行かないし、そもそも私達が食べられるかどうかも分からないから、ここに持って来たの」
袋の中から現れたのは、鶏の尻尾に蛇がくっ付いた生き物だ。
と言っても、蛇が鶏に噛み付いている訳ではない。
鶏の尻に蛇の尾が生えているのである。
テーブルを囲んだジェイドとジャスパーは、顔を見合わせた。
「コカトリスですね」
「だな」
「コカトリス?」
「魔物ですよ。尻尾には毒がありますが、身は鶏と同様に美味しく食べられます。どこでこれを?」
ヒスイは困った様に眉を寄せながら答える。
「ケット・シーって言う、二本足で歩く猫がうちに来て、置いてったの」
「ケット・シー! ケット・シーが来たんですか!」
何故か突然目を輝かせるジェイドに、ヒスイは若干後退りながら頷いた。
「そのケット・シーは今どこに!」
「もう帰ったわよ。これを私に預けてすぐ」
それを聞いた途端、ジェイドは肩を落とす。
「そうですか」
「何よ、ケット・シーに何か用事でもあったの?」
「いいえ。ケット・シーは、普通の猫の振りをしてその辺に沢山いると言われていますが、人間に本性を見せる事は滅多に無いんですよ。是非とも、その毛に触りたかったです」
ヒスイは反応に困って首を傾げた。
放っとけと言って、ジャスパーは改めてコカトリスを眺める。
「そのケット・シーが、何でまたお嬢さんにこんな物を?」
「ナイトが、森で初めて捕まえた獲物なんだって。ナイトは、私に森から出ちゃ駄目って言われてるから、代わりにケット・シーが持って来たって言ってたわよ」
ナイトって誰だと問おうとして、ジャスパーは先程ジェイドから聞いた話の中に、その名前が出た事を思い出した。
一週間で掌大から羊程の大きさになった黒猫だ。
「あの子も森で無事にやっているみたいで、安心はしたのよ。でも、頑張って獲った物をくれなくても、お礼だけ言付けてくれれば良かったのに」
魔物で無くても、猫が飼い主に小動物や昆虫を獲って来て渡す行動は、しばしば見られる。
黒猫にとっては、お礼の意味を込めた獲物だったのだろうが、ヒスイには有り難迷惑であったに違いない。
「まあ、折角そいつが持って来てくれたんだ。捌いて美味しくいただこうじゃねえか」
ジャスパーがそう言って笑うと、ヒスイも笑顔で頷いた。
ジェイドが、コカトリスを袋ごと掴む。
「では、お預かりしますね。明日には、部位毎に分けて渡せる様にしておきます」
ヒスイは、ジェイドと目が合うと慌てて逸らした。
「あ、ありがとう」
頬を染めた彼女に気付いてか否か、ジェイドは一つ瞬きをして奥のドアに消えた。
そんな二人の様子を、ニヤニヤと眺めていたジャスパーである。
「面白い事になって来た」
「何か言った?」
「いや、何も」
首を振ったジャスパーに、ヒスイは訝しげな目を向ける。
そしてその背に括り付けられた物に目を留め、言った。
「そう言えば。それは、何?」
布にぐるぐる巻かれた大きくて細長い物体は、今日も彼の背中にある。
「ケット・シーが、もう一つ言ってた事があるの」
彼女は既に、ジャスパーが背負う物に何らかの着想を得ている様だ。
「英雄のご神木が行方不明になったんですって。私の近くに気配があるけど、心当たりは無いか聞かれたわ。分からないって答えたんだけど、もしかしてジャスパーは何か知ってたりしない?」
「何で俺が?」
「だって、私の近くにあって正体が分からない物って言ったら、それ位だもの」
ヒスイはジャスパーの背中を指差した。
どうやら彼女は、ジャスパーの背中の物が神木そのもの、あるいはその一部ではないかと疑っているらしい。
ジャスパーは背負っていた物を降ろし、先程までコカトリスが載っていたテーブルに置いた。
「これを疑ってるなら、お門違いだと思うぜ」
布を取り去ると、中から木製の彫像が現れる。
足首まである長い髪のニンフが、自分の両肩を抱き、目を閉じている像だった。
ヒスイの背丈とそう変わらない大きさのそれは、容貌の造形は言うに及ばず、髪の毛の束一つ一つまで繊細に表現してある。
並の彫刻家が造ったとはとても思えない、見事な出来だった。
ヒスイは言葉を無くす。
その像は、余りに本物めいていた。
仕舞いには、その目を疑ったのかゴシゴシと擦る始末だ。
そんなヒスイを尻目に、ジャスパーは定位置に戻り酒を煽る。
「森で拾ったんだ。そう言えば、それを拾った日にジェイドと初めて会ったんだったな」
ヒスイは顔を上げた。
「そうなの?」
「ああ、もう半年になる。それからここで厄介になってるんだ」
「え、二人が知り合ったのって最近なの?」
てっきり、二人は旧知の仲だと思っていたヒスイである。
ジャスパーは頷く。
「あいつ、旨い飯を作るだろ。しかも、ここには酒が沢山ある。こんなに良い所は無いさ」
つまり、ジェイドは魔物だけでなく人間も拾っていた訳だ。
しかも、うっかり餌付けしてしまって出て行かなくなり、今に至るらしい。
魔物は百歩譲って動物に括るとしても、人間はどうだろうか。
ヒスイはジャスパーを上から下までしっかり眺めると、これは動物に括って良いなと結論を出して頷いた。
「俺が言うのも何だが、あいつお人好しだよな。にしても戻って来ねえな」
コカトリスを貯蔵庫に運んだだけの筈だが、ジェイドが戻って来る気配は無い。
外を見ると、既に真っ暗だ。
「父さん帰ってるかしら。ご飯の支度しなくちゃ」
立ち上がり、彫像を仕舞いながらジャスパーが言う。
「ジェイド戻って来ねえし、俺が送るよ」
「良いわよ。そんなに遠くないし、お客さんが来たら困るでしょ」
「お客が来て困るのはジェイドだ」
そう言い切ったジャスパーに、ヒスイは笑った。
「ありがとう。それじゃあ、お願いするわね」