御礼
夕暮れ時。
コンコン、と戸を叩く音に、ヒスイは玄関へ向かった。
父が仕事から帰ったかとも思ったが、彼はノックなどしない。
ではジェイドだろうか。
その可能性も薄い。
彼は今頃、酒場の開店準備に追われているだろうから。
それに猫がいない今、彼がこの家に来る理由は無かった。
他に心当たりも無いが、ヒスイは戸を開ける。
そこには奇妙な生き物がいた。
ヒスイの腰程の大きさの、直立した猫である。
その顔がふさふさとした灰色と白の毛に覆われた猫である事に間違いは無いが、首から下は焦げ茶の三つ揃えを着て、頭にはシルクハットを被り、杖を持っていた。
肩には何やら大きな袋を担いでいる。
ヒスイが不審げな目を向けていると、猫は袋を置いてシルクハットを取り、人間の様に丁寧にお辞儀した。
「ヒスイ様ですね」
子供の様に高い声で、猫はその口から人間の言葉を発する。
「お初にお目にかかります。私はケット・シーの一族の者でございす。名乗る事は許されておりませんので、名前はご容赦ください。この度は我が同胞を救ってくださり、名前まで授けていただき、大変感謝しております。付きましては、お礼の品を献上に参りました。こちらでございます」
袋をヒスイの前に置き直して、ケット・シーと名乗る猫はもう一度お辞儀をした。
ヒスイは首を傾げ、やたらと丁寧な物言いを噛み砕いて、ようやく飲み込む。
「えっと、もしかして、ナイトの知り合い?」
「左様でございますとも。我が同胞、ナイトより言付かって参りました」
ケット・シーは目を細めると、袋の中身をチラリと見せた。
「こちらは、ナイトが森で初めて捕えた獲物なのです。ナイトはヒスイ様に、この初めての獲物を届けたいと、私に託したのです」
「そうなんだ。でも、何でナイトが直接来ないの?」
「ヒスイ様が、森から出るなと仰ったからでございますよ」
そう言えば、別れ際に泣きながら、そんな事を口走った気がする。
素直な黒猫は、ヒスイのその言葉をしっかり守っているらしい。
「そっか、ありがとう。ナイトにもありがとうって伝えてね。とても嬉しいわ」
ヒスイの表情から嬉しいと言う感情は読み取れなかったが、ケット・シーは頷いた。
「承知いたしました。必ずお伝えします。それから」
ケット・シーはコートのポケットを探って何かを取り出し、ヒスイの手を取ってそれを握らせる。
その手はやはり毛で覆われて肉球のある、猫のものであった。
「私からもお礼の品を。つまらぬ物ですが、何かの役には立ちましょう」
手の中を覗いて、ヒスイはギョッとする。
「これ、銀貨じゃない! こんな高価な物、受け取れないわ」
「いえいえ、代わりにお聞きしたい事もありますので、そのお代とでもお思いください」
「聞きたい事って?」
不服そうなヒスイにうんうんと頷いて、ケット・シーは言った。
「私共は、英雄のご神木の根元を集会所の一つとして使っていました。しかし半年程前に、そのご神木が行方不明になってしまったのです」
英雄の神木とは、遥か昔に邪神を滅ぼした英雄が、今際の際にその力を封じた剣の事である。
剣は大地に刺さると、大樹に姿を変えたと言われている。
時が来れば、神木となった剣は自ら持ち主を選んで英雄の力を与え、その者が勇者となって、再び蔓延った邪悪を討ち倒す。
そう言い伝えられている。
しかし今となっては、その神木がどこにあるのかさえ、誰も知らなかった。
魔法に生活が支えられ、魔力を持つ動物が出没するこの世界であっても、それはただの伝説に過ぎないとされているのだ。
ヒスイ自身、そんな木が本当にあるなどとは、思いもしていなかった。
しかし、目の前の魔物はその根元を集会所にしていたと言う。
あまつさえ、その木が行方不明になったと。
「それで、私に聞きたい事って?」
ケット・シーはシルクハットを胸の前に置いて、声をひそめる。
「実は、そのご神木の気配が、ヒスイ様の周辺にございます」
「え?」
「もしかすると、ヒスイ様なら何かご存知かと思いまして」
そう言われても、ヒスイには心当たりの見当も付かなかった。
ヒスイの眉が、申し訳無さそうに八の字を描く。
「ごめんね、分からないわ。だからこれは返すわね」
ヒスイは銀貨の載った手をケット・シーに差し出すが、ケット・シーは首を振った。
「それは、もうあなた様の物です。お答えいただき感謝いたします。では、私はこれで」
再び深くお辞儀をすると、ケット・シーはシルクハットを被って踵を返す。
と同時に、その姿は煙の様に掻き消えた。
しばらく何もいなくなった空間を眺めて固まっていたヒスイだが、やがておもむろに足元の袋を拾って中身を確認すると、息を吐いて玄関を閉める。
閉めてから、ヒスイはある事を思い出して振り向いた。
「もしかして、ご神木って」