別れ
食後再び自室に戻り、遊び疲れて寝てしまった猫を枕に、自分もウトウトしていたヒスイは、部屋の戸を叩く音に起こされた。
開けると、ジェイドが立っている。
「そろそろ、行きますよ」
頷いてから、彼の様子が明らかに疲れている事に気付いた。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
「何かあったの?」
「何もありませんよ。ほら、あの子を起こしてくれますか」
納得は行かないが、言いたくないのなら仕方が無い。
ヒスイは猫を起こしにかかった。
「ナイト、お外に行くよ。起きてー」
「……」
「ナイトー」
顎を叩いたり耳を引っ張ったり、脇をくすぐってみたりしたが、猫は中々起きてくれない。
ヒスイは奥の手を使った。
「ナイト、ご飯だよ」
飛び起きた猫は、キョロキョロと辺りを見回す。
そしてヒスイを見付けると、グルグル喉を鳴らした。
「起きたね、偉いわ。お外に行こうね」
二人は猫を連れて家を出る。
外は肌寒く、空を見上げると半分程は雲に覆われて、その隙間から三日月が顔を覗かせていた。
ヒスイの家は、街を囲む城壁の東西南北にある門の内、東門に近い場所にある。
東門は魔物が出現する森に面している為、警備は厳重だ。
どう魔物を連れて出て行くのかと聞けば、眠ってもらうと答えが返って来た。
今夜警備に就いているのは、どうやら三人である。
当然、彼等の目は爛々と冴えている様子だ。
「あの三人を、どうやって眠らせるって言うの」
「まあ、見ていてください」
そう言って笑うジェイドの手には、氷の塊が三つ浮いている。
三人の男達目掛けて飛んで行ったそれは、それぞれの頭上で霧の様に砕け、身体に纏わり付いた。
男達は声を上げる事も無く、その場に文字通り凍り付く。
「もう大丈夫ですよ、行きましょう」
「本当に大丈夫なの、あの人達」
「ええ、朝には氷も溶けて目を覚まします」
「それなら、良いけど」
凍った見張りの脇を通りながら、ヒスイはご愁傷様、と呟いた。
街を出た二人と一匹は、森へ向かう。
一時間も歩くと、森の端まで辿り着いた。
鬱蒼とした森は、夜に見るとその不気味さを更に増す。
ヒスイは寒いのか恐ろしいのか分からないまま、自分の腕を抱いた。
「この辺りで良いでしょう」
ジェイドに頷いてからヒスイはその場にしゃがみ、猫を撫でる。
「ナイト、前から言ってたけど、ここで私達とはお別れよ。もう自分でご飯を捕まえられるんだし、一人でも大丈夫よね」
猫は分かっているのかいないのか、喉をグルグル鳴らしてヒスイの頬に頭を擦り付けた。
ヒスイの目に涙が浮かぶ。
「ごめんね。私も本当はずっと一緒にいたいんだけど、魔物は街にいてはいけないの。あなたは森で暮らすべきなのよ。ここには仲間もいるし、あなたならきっと、楽しくやって行けるわ」
ヒスイは猫を抱き締めた。
その目から、とうとう涙が溢れ出る。
「元気でいてね。森から出たり、人を襲ったりしたら駄目よ。後、森で困った人を見掛けたら、助けてあげてね」
猫は、口を開けてモゴモゴ何かを呟いた。
何か喋ったのか、それとも唸り声を上げただけなのか定かでは無いが、ヒスイにはそれが了承の返事に聞こえて目を丸くする。
「良い子ね、ナイト。ちゃんとお返事出来るのね」
ヒスイが更に強く抱き締めると、猫は再び喉を鳴らした。
しばらくそうしていたヒスイは、やおら立ち上がって涙を拭く。
そして森の奥を指差し、猫に向かって眩しい笑顔を見せた。
「行って、ナイト」
猫は一つ瞬きをすると、ヒスイから離れて歩き出した。
ヒスイの言い付け通り、真っ直ぐ森の中へと向かう。
やがて、その姿が木々に隠れて見えなくなると、腕を下ろしたヒスイは俯いて言った。
「元気でね」
ヒスイは顔を歪め、横にあったジェイドの服の裾を掴む。
ジェイドがその髪を撫でてやると、ヒスイは堰を切った様に声を上げた。
目を瞑って、ジェイドの胸に頭を押し付ける。
彼は優しくその肩を抱いてくれた。
嗚咽が収まり、呼吸が落ち着いても、彼はヒスイを自分から引き剥がそうとはしない。
その温かさと心地良さと、妙な胸の高鳴りに、ヒスイは開いた目を再び閉じた。
「あの子、大丈夫かな」
「大丈夫です。魔物は丈夫な生き物ですから」
優しい声がくっ付けたままの頭からも響いて、くすぐったい。
ヒスイは思わず顔を上げた。
そんなヒスイの頬をそっと指で拭って、ジェイドが言う。
「君は、もう大丈夫ですか」
ヒスイが頷くと、その身体がようやく離れた。
それが何故か酷く寂しく感じられて、ヒスイは思わずその手を伸ばす。
服の袖に触れられたジェイドが、こちらを向いた。
暗がりを照らす月の光を受けて、銀の瞳が輝く。
心臓が、掴まれた様に跳ねた。
驚いて、ヒスイはその手を離す。
「どうしました?」
「あ、いや」
狼狽えながら自分の腕を掴んだヒスイは、必死で息を整えた。
「何でもないの」
その答えに一つ瞬きをしたジェイドは、ジャケットを脱いでヒスイの肩に掛ける。
「冷えますね。そろそろ帰りましょう」
踵を返したジェイドの後を、ヒスイは赤い顔で追いかけた。
先を行くジェイドの顔もまた赤かったのだが、彼女の位置からそれは見えない。
月がそんな二人を、静かに照らしていた。
この時、森に返された猫はやがて、牛程の大きさにまで成長する。
大人になった猫は、後に勇者となる人物を助け、勇者の騎士として語り継がれる事になるのだが、それはまた、別のお話。