食卓にて
ヒスイが猫と遊び、ジェイドが食事の支度をしているところに、父親が帰って来た。
「お、今日も良い匂いがしてるな」
「父さんお帰り」
ヒスイと猫に続いてやって来たジェイドに、彼は顔を綻ばせる。
「お前さんがジェイドだな。ようやく顔を見る事が出来たよ」
この一週間、彼は仕事で昼間はおらず、ジェイドは店を開ける為夕方前には帰り、二人は全く会う機会が無かったのである。
「何度もお邪魔しているのに、ご挨拶が遅くなってしまい、すみません」
「気にしないでくれ。ここの所飯が旨くて、毎日帰るのが楽しみだったんだ」
丁寧にお辞儀をしたジェイドに、彼は右手を差し出した。
「リチャードだ。宜しくな」
聞き覚えのあるその名前に、ジェイドは片眉を上げる。
しかしすぐに微笑みを作ると、リチャードの手を握った。
「ジェイドです。宜しくお願いします」
「どうだ。顔を合わせた記念に、一緒に酒でも」
「お気持ちは嬉しいのですが、今日はこの後、出掛けなくてはいけないので」
「そうか」
リチャードは猫を見遣る。
「今夜、行くのか」
「はい」
ジェイドに視線を戻し、リチャードは言った。
「それじゃあ、話し相手になって貰って良いかな」
「それなら、喜んで」
蚊帳の外に出されたヒスイは、猫と視線を合わせて肩を竦める。
「二階で遊んでようか、ナイト」
連れ立って階段を上って行く一人と一匹を、目を細めて見送ってから、リチャードは食卓に向かった。
テーブルの上は、既に酒と食事の用意が整っている。
「酒場をやってるんだったか、流石に手際が良いな」
「ありがとうございます」
リチャードはジェイドに座る様促し、二人は差し向かいに座った。
ワインを一杯煽って人心地着いたリチャードは、皿に盛られたソーセージを一つ摘むと、ジェイドに向き直る。
「まずは礼を言うよ。この一週間、猫だけでなく、娘の面倒までしっかり見てくれた。感謝している、ありがとう」
「いえ。どこの馬の骨とも分からぬ男が家に上がり込んで、さぞかしご心配だったでしょう」
「まあ、初めはな。でも、毎日旨い飯が出迎えてくれたし、娘が一人でいるより家の中が綺麗になった。こりゃ、給料を支払わなきゃならんな」
「私が拾った猫を、魔物と知ってからも世話して貰ったのですから、それ位は当然です」
「義理堅いな。流石はアン様の騎士だ」
リチャードは、もう一つソーセージを摘んだ。
「お前さんの作ってくれる飯は、本当に旨い。明日からも作りに来て貰いたい位だ」
「では、是非一度うちの店にいらしてください。ご馳走しますので」
リチャードは軽く笑い声を立てる。
「じゃあ、今度顔を出すよ」
一旦笑顔を引っ込めると、リチャードは机の上に置かれたジェイドの左手をちらりと見た。
「お前さん、結婚してるのかい?」
その視線の先に指輪がある事に気付き、ジェイドはその手を机の下に隠す。
「いいえ」
「そうか」
リチャードは、ワインのボトルに手を伸ばした。
木製の器にワインを注ぎながら、ふとおかしそうに口端を上げる。
眉間の皺を深くするジェイドに、リチャードは更に表情を緩めた。
「いや、済まない。それはヒスイの仕業だろう」
「え?」
「隷属の魔法だ」
ジェイドは目を見張る。
これは側から見れば、何の変哲も無い唯の指輪である筈だ。
「どうして、それを」
「実は俺も昔、同じ魔法を掛けられたんだ」
驚きの表情のまま固まるジェイドに、リチャードは続ける。
「もう二十年前だ。俺も今じゃこんなナリだが、昔はそこそこだったんだよ。結婚を迫られて、返事を渋ったら真っ正面からその魔法を放ちやがった。眩しかったな、あれは」
ヒスイの他にも、隷属の魔法を人間に向けて放つ輩がいたとは驚きだ。
しかもこちらは偶然ではなく、わざとらしい。
ジェイドは、指輪を外す手掛かりがそこから得られるかも知れないと、身を乗り出した。
「その女性は、今」
言い掛けて、ジェイドはリチャードがどこか寂しげな目をしている事に気付く。
「亡くなったよ、半年前に」
リチャードは、自分の左手をひらひらと振って見せた。
その太い薬指には、煙の様に白く濁り輝きを失った石の指輪が、肉に半分埋もれながら存在を主張している。
「元は綺麗な無色透明だったんだ。女房が亡くなった時に割れなかったのが、せめてもの救いだな」
辛そうに、でも愛しげに指輪を見つめるリチャードに、ジェイドは返す言葉を見付けられなかった。
「俺がこの魔法を掛けられた時、女房はもう三十だった。子供を産むのが遅かったせいで、体調が戻らなくてな。子育てもろくに出来ず、結局娘が嫁に行く姿も見ずに逝っちまった。俺がもっと早く結婚してやってれば、若い内に子供が産めて、今も元気でいたかも知れないのにな」
ジェイドは、ヒスイが聖女になるのを全力で拒否した理由に、ようやく合点が行く。
聖女になると、母親の様に結婚が遅くなる。
つまり、高齢で子供を産む事になる。
高齢出産はリスクが高い。
それが原因でもし命を落とせば、夫と子供に寂しい思いをさせる。
今の自分の様に。
ヒスイは、それが嫌だったのだろう。
視線を落とすジェイドに、リチャードは一つ瞬きをした。
「悪いな、初対面の相手にこんな話をしちまって」
「いえ」
一度口をつぐんだジェイドは、やがて顔を上げる。
そして、呟く様に言った。
「でも、あなたの奥様は、幸せだったと思います」
「どうしてそう思う?」
「あなたや娘さんに、とても愛されている様ですから」
目の前の男の妻は、自分の身体がままならなくて悩んでいたかも知れない。
夫に心配を掛ける事を、娘に構ってやれない事を、心苦しく思っていたかも知れない。
けれど、遺された人がこんなに思ってくれているのだ。
きっと、彼女は幸せだったろう。
「優しいんだな、お前さんは」
目を細めたリチャードは、ワインをもう一杯煽る。
そして、ジェイドが思いも寄らない事を口にした。
「指輪のよしみだ。お前さん、娘と結婚してくれないか」
「は?」
ジェイドの声が裏返った。
「あの、酔っ払ってますか?」
「いや、飲んではいるが酔っ払ってはいないぞ」
リチャードは居住まいを正す。
「騎士と言えば手堅い仕事だ。自分の店を持てる程の、料理の腕前と経営手腕もある。家事も一通り出来る。その上、人の心に寄り添う事も出来る。完璧じゃないか」
「はあ」
そう言われると満更でもないが、それとこれとは話が別だ。
アンと言い、目の前のヒスイの父親と言い、どうして安直に指輪と結婚とを結び付けるのか。
これは隷属の魔法であって、愛を誓う魔法ではない。
「娘じゃ不満か?」
「それは」
ジェイドは目を泳がせた。
娘を愛する父親に向かって、はい不満ですなどと言える筈も無い。
尚、不満を言える程、ヒスイとジェイドは深い関係でもなかった。
「もしかして、他に恋人がいるか?」
「いませんが」
「娘の事が嫌いか?」
「そんな事は無いです。素直な人だと思います」
「じゃあ、問題無いな」
「いやいや、彼女の気持ちはどうなるんですか」
リチャードは含み笑いを浮かべる。
「娘が良いと言えば良いんだな」
否定しようとして、からかわれていた事に気付く。
額を押さえたジェイドを、リチャードはニヤニヤしながら眺めていた。
「お前さん、意外とウブだな」
ジェイドの顔が赤くなる。
そこに、ヒスイが猫と降りて来た。
「お腹空いたー。私もご飯食べて良い?」
こちらを見て何故か驚いているジェイドと、嫌に楽しそうな父親を見比べて、ヒスイは首を傾げる。
「どうしたの、二人共」
「いえ、何でもありません」
ジェイドは慌てた様に立ち上がって、ヒスイと猫の食事の支度を始めた。
リチャードは別に、と言って、付け合わせに盛られた芋を頬張る。
「何なの」
呟いたヒスイは、しかし料理の匂いに思考を放棄して食卓に着いた。