料理教室
『マンティコアは不味い!? そんなあなたの先入観を払拭します! 焼いて美味しい、煮て美味しいマンティコア! 今回は、そんなマンティコア料理の入門編です。魔物料理研究家でもある講師ジェイド・グリーンが、無駄の出ない捌き方から肉の味を損なわない味付けの方法まで、親切丁寧に教えます!』
そんな宣伝文句が書かれた紙を握り締め、少女は石畳の道の上を駆けていた。
その足が地を離れる度に、肩より少し長い髪の毛がふわりと揺れる。
太陽の光の様に明るい色をした、緩い癖毛だ。
彼女の翡翠色に輝く瞳は長い睫毛に縁取られ、上がり気味のまなじりは見る者に勝気な印象を与える。
少し低めの鼻は、ともすれば高圧的に見える容貌に愛嬌を付け足し、ふっくらとした薔薇色の唇は、軽く開かれ少し荒くなった息を吐き出していた。
白く透き通る肌が、走ったせいか上気している。
その視界に『料理教室→コチラ』の立て看板を捉えて、少女は声を上げた。
「あそこね」
彼女の手の中で皺々になった紙には、簡単な線を描いた地図におおよその場所を示した印しか書かれていない。
どちらを向いても似た建物が建ち並ぶこの街、ダゴニアで、簡単過ぎるその案内図は不親切極まりなかった。
街に移り住んで日の浅い彼女は元より、長くここに住む者にとってもである。
彼女はエプロンのポケットに紙をくしゃりと押し込めると、走ったせいで乱れた髪の毛を手櫛で整え、ドアを勢い良く開け放った。
「こんにちは!」
しかしドアの向こうに広がっていたのは、彼女が思い描いていた様な、大きな作業台がいくつかと流し台と立派な炉にパン焼き窯……などはなく、四人掛けのテーブルと椅子が四組にカウンターが数席と、カウンターの向こうに酒の瓶がいくつも並んだ棚だった。
一番奥のテーブルには赤い髪の男が座っており、その傍には、腰まである烏羽の長髪をゆるく後ろで結んだ男が立っている。
長髪の男が振り返り、その銀色の瞳が少女を捉えた。
「え、えっと、ごめんなさい!」
バタンとドアを閉め、少女は冷や汗を垂らしながらドアの前の立て看板を確認する。
そこには矢張り『料理教室→コチラ』とある。
少女は首を傾げた。
あれはどこからどう見ても料理教室などではない。
まだ子供である彼女には縁のない、所謂酒場である。
「おかしいな。看板はここ、よね」
顎に手をやり、目の前のドアと看板を交互に見ながら、彼女はもう一度おかしいと呟く。
と、そのドアが控えめに開かれた。
隙間から顔を覗かせたのは、先程目の合った長髪の男だ。
二十代半ばだろうか、長身に三つ揃いを着こなす、銀の瞳を切れ長の瞼に収めた美青年だった。
彼は少女を見つめて口を開く。
「君は」
形の良い唇から発せられた、低くはないが落ち着きのある声に、少女は慌てふためいた。
「あっ、あのいやごめんなさい! お料理教室だと思って入っちゃったの。この看板を見て」
立て看板を指差してみたり、綺麗に撫で付けた筈の髪をくしゃくしゃと乱してみたり、忙しない彼女の様子に、男は形の整った眉を寄せて微笑んだ。
「料理教室に来たんですね。こちらで間違っていませんよ、入ってください」
「でも、ここは」
瞬きをする少女に、男はドアを大きく開ける。
「私はジェイド。料理教室の講師にして、この店、バル・キングフィッシャーの店主です」
中に招き入れられた彼女が改めて店内を見回すと、派手な装飾こそ無いが、落ち着いた雰囲気の空間が広がっていた。
「君の名前は?」
「あ、私はヒスイ」
彼女はポケットに突っ込んで皺々になった紙を取り出す。
「これを見て来たの」
「そうでしたか。よろしくお願いします、ヒスイ」
丁寧に頭を下げるジェイドにこちらこそ、と返して、ヒスイはキョロキョロと何かを探す様に視線を廻らせた。
「どうかしましたか?」
「えっと、ここでお料理を教えてくれるの?」
「ああ、ここには料理を教えられる場所はありません。簡単な講義と諸注意をここでして、実践は別の場所でやるんですよ」
それを聞いてヒスイは納得した。
しかし、別の場所とはどこにあるのか。
彼女が疑問を口にする前に、別の声が上がった。
「お、新しい受講者か。あのチラシ、作った甲斐があっただろ、ジェイド」
赤い髪の男だ。
年齢はジェイドと同じ位か。
茶色い瞳の美丈夫で、筋肉質な肉体を見せびらかす様に、袖の無い服を着ている。
その背には、布でぐるぐる巻きにされた、ヒスイの背丈程もありそうな長細い物を背負っていた。
「こんにちは、お嬢さん。俺はジャスパー、お嬢さんと同じ料理教室の受講者だ」
「あなたも?」
ヒスイは眉を寄せる。
彼は酒場にいるのに違和感は無いが、料理教室の受講者と言われると違和感しか無い。
ドアを閉めたジェイドが呆れた様に言った。
「受講者と言う名の居候ですよ。いつもは昼間からここで飲んだくれているか、森へ散歩に出掛けています」
「ちゃんと店の手伝いもしてるだろ。原材料の調達とか」
「そうですね、お陰様で貯蔵庫はパンパンです。必要な物以外で」
「何だよ、折角獲って来てやってるのに」
「はいはい、いつもありがとうございます」
ジャスパーを軽くあしらって、ジェイドは懐中時計を取り出して時間を確認すると、ヒスイに向き直る。
「そろそろ時間ですね。あと一人来るかと思いましたが、今回はこの三人でしょうか」
料理教室と言えば最低でも四、五人か、多ければ十人以上の受講者が集まるかと思っていたヒスイは、その少なさに驚いた。
講師が居候だと言う一人を除くと、受講者は実質ヒスイ一人だ。
先行きが不安になったヒスイが顔を顰めていると、外で馬の啼き声と、石畳にガリガリと何かが削られる音がした。
三人は窓の外に視線を遣る。
豪華な造りの大きな馬車が、通りを塞いで停まっていた。
馬車から降りたのは、一人の若い女性だ。
首元や腰周りには繊細なレースが、裾の広がったスカートには色とりどりの刺繍とビーズがあしらわれた派手なドレスを身に纏っている。
しかし残念な事に、そのウエストはコルセットを嵌めているであろうに樽の様だったし、腕は赤ん坊の脚と見紛う程丸々としていたし、膨らんだ頬はまるで発酵したパン生地の様だった。
ダークブロンドの髪を頭の天辺で一つに纏めた彼女は、窓越しに三人を見付けると、青空の様に明るいブルーの瞳を細めて微笑む。
「外に出ましょう、残りの一人ですよ」
三人は外へ出た。
近寄ると、彼女のドレスの煌びやかさは更に際立って見える。
亜麻布のワンピースの上に濃赤色に染めた羊毛のオーバースカート、綿麻のエプロンと言う地味な格好のヒスイとは大違いだ。
ぽかんと見惚れていたヒスイに、ジェイドが囁く。
「跪礼してください」
見ると、二人共右手を胸に、左手を横へ伸ばしてお辞儀していた。
ヒスイが慌ててスカートの裾を広げて膝を折ると、彼女は福々しく笑う。
「そんな大袈裟な事、しなくても宜しくてよ。お二人も顔をお上げになって。あなた、お名前は?」
視線が自分に向けられていると言うのに、その辺を一度見回して他に該当する者がいないか確認してから、ヒスイは答えた。
「あ、私はヒスイ。です」
「わたくしはアン。あなたもお料理教室の生徒さんですわね、一緒に楽しみましょう」
「は、はあ」
彼女がやんごとなき存在である事は、ジェイドが跪礼を求めた事から明白である。
初めて見る高貴なお方に、ヒスイは困惑した。
しかし他の二人は慣れたものだ。
ジャスパーなど、お辞儀だけはきっちりこなしたものの、アンの肩を叩いて久し振りだな、などと話しかけている。
ジェイドはと言うと、何やら大きな荷物を抱えていた。
アンがジェイドに向かって口を開く。
「遅れてしまったかしら」
「いえ、時間ぴったりです」
「今日はどちらに参りますの?」
「森の南側から少し奥に入ります。その辺りでマンティコアを見掛けたと、ジャスパーが言っていたので。アン様さえ宜しければ、馬車を使わせて頂けると有り難いのですが」
「構いませんわ。女の子も一人増えましたし、馬車の方が楽ですわね」
「ありがとうございます」
会話を聞くともなしに聞いていたヒスイは、ギョッとジェイドを振り返った。
「今、森に入るって言ったの?」
魔物が出るから森に入っては駄目、とは小さな子供が何度も聞かされる言葉だ。
それは伝説でも何でも無く、森へ入って出て来る事の無かった者の話や、森の近くで魔物に出くわした者の話は掃いて捨てる程ある。
その危険な森に、料理教室の食材調達などと言う理由で入ると言うのか。
しかし、ジェイドの反応は冷たいものだ。
「ええ。その紙切れにも書いてあるでしょう」
言われて、ヒスイは跪礼の最中も握り締めていた紙を広げて良く見る。
紙の隅っこには、小さな字で「※食材をあらかじめ用意出来なかった場合、捕獲の為森に入る事があります。」と書いてあった。
「これ……」
確かに見落としていたのはヒスイである。
但し、料理教室があるらしいぞと紙を渡して来たのは、ヒスイの父親であった。
料理教室とだけ聞いて行く気になったヒスイ自身は、殆ど書かれた内容に目を通していない。
頭を抱えたヒスイは、口の中で「父さんの馬鹿」と呟いた。
受講者が少ない訳だ。
扱う食材が魔物のマンティコアだと言う時点で、普通の料理教室ではないと気付くべきだった。
後悔に打ちひしがれていたヒスイに、アンが声を掛ける。
「大丈夫ですわ。ジェイドは魔物料理だけでなく魔物そのものに詳しいですし、倒し方も熟知しています。ジャスパーも森に頻繁に出掛ける酔狂な者です。わたくし達は、馬車の中で待っていれば良いのですから」
情けない下がり眉のヒスイは、アンを疑わしげに見た。
アンはにっこり笑って頷く。
何故かやたらと安心感のあるその顔に、ヒスイの心も少し落ち着いた。
良く考えれば、やんごとなき女性が同行するのだ。
危険があろう筈が無い。
ヒスイは自分に言い聞かせる。
「大丈夫。食べられるんじゃなくて食べるんだから、大丈夫」
拳を握ったヒスイは、アンに頷き返した。
「ありがとう、もう大丈夫」
「良かったですわ」
馬車に荷物を積み込んだジェイドが、ついでに馬のたてがみを撫でてから言う。
「目的地に進みながら、今回の流れを説明します。馬車に乗ってください」
こうしてヒスイは、三人の個性的な人物と森へ出掛ける事になったのであった。