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掌編小説

この寒いのに

作者: タマネギ

路地の角にある洋服屋の店主が、

店の前の水溜りを避けながら、

立て看板を店の中に入れている。

女は、洋服屋の店主が、

店のシャッターを下ろすのを見て、

部屋から外に出た。


もう冬も近いというのに、

風は生温く、寂れた海沿いの町には、

生臭い潮の匂いが漂っている。

雨も降っていたらしく、濡れた路面には、

落ち葉がへばりついていた。


ゆっくりと眠ってください。

女には、本気でそう思ったのかどうか、

わからなかった。

ただ、男はもう目覚めることはない。

女は薬を使って、男を眠らせたことを

はっきりと覚えていた。


男が部屋で横たわっている。

自分は裸足で町をさ迷っている。

どこへ行く当てもないままに、

冷たい足で夜をさ迷っている。

履いてきたサンダルのヒールが、

歩道のレンガに引っかかってしまった。

女は、サンダルを脱ぎ、裸足になった。


どれくらいの時間がたったのだろう。

音もなく、交差点を通り抜けて、

黒塗りのセダンが一台、女の傍らに停まった。

女が、自分の運命をさらけ出して、

男を眠らせると、必ず現れる車だった。

それがまた現れただけだ。

後部座席から降りてきた影は女に言った。


「やっと見つけた……

こんなところで何をしているんだ。

早く、戻るんだ。次の男が待っている」


「ははははははっ

もう、起きなくてもいいわよ。

私は、男を眠らせる。

私は、男を眠らせる。

私は、男を眠らせる……」


女はその場に座り込み、

同じ言葉を繰り返していた。

白いワンピースが泥にまみれて、

浮浪者のようになっている。

迎えに来た影は、マントを被り、

男なのか女なのかもわからない。


「さあ、行こう。

おまえにはまだまだ働いてもらうぞ」


迎えにきた影が女の腕を掴んだ。


「あっ、ああああっ、いやああああ」


我に返った女は、声を上げ、

血が滲んだ素足を踏ん張って抗った。


「どうしたんだ。おまえが望んだことだろう」


「いやっ、いやっ……許して。

あの人にもう一度逢わせてくれるって

あなたたちが言うから……」


「わかっている。後、少しだ。

後少し、男の悲しみを忘れさせることが

できたら、おまえの望みは叶えられる」


影はマントの中に女を抱え込んで言った。、


「あっ、いや、いやっ、許して」


女の声が、誰も通らない道を滑ってゆく。


「お前は、ありのままのお前でいいんだぞ。

自由になれ。お前の苦しみから、自由になれ。

あと少しのことだ。

その美しい顔や体が役に立つんだ。

どうしようもない悲しみを持っている男が、

待っているんだ。


誰にもその悲しみを打ち明けられずに、

ただ、息をしているだけのな……

おまえは、その悲しみから男を救うためにしか、

生きられないんだ。

そうするしか、苦しむ恋人を、

悲しみに埋まる地獄から救い出せないんだ。

さあ、行くぞ」


「いや、いやああああ、もういやああ」


女は影に抱きかかえられて、

黒塗りのセダンの中に消えた。

街灯の光が、闇に吸い込まれてゆく。

いつしか、生温い風は凍える風になり、

生臭い匂いはもう漂わなかった。


交差点の信号が青になった。

セダンはゆっくりと動き出し、

まだ明けない夜に、溶けていった。


故郷に別れを告げ、町に出た女は、

心優しい恋人に回り逢い、夢を見た。

けれども、現実は夢を剥ぎ、女を傷つけた。

恋人は、仕事に疲れてビルから飛び降りた。

女と逢ったその後で。

女の体には、男の熱がまだ残っていた。


女は、恋人の悲しみを呪った。

打ち明けてもらえなかった悲しみが、

恋人を連れ去ったのだから。

何があったのだろう。

自分は何の役にも立てなかったのか。

夜毎の女の問いに、

声をかけたのが、影達だった。


夜が明けて日が射してきた。

洋服屋の店主は、いつもの時間に

シャッターを開けて、立て看板を

引っ張り出した。

晴れ渡る空から吹く風が、

道にへばりついた落ち葉を剥がしてゆく。

店主が、ふと空を見上げた……あれっ

向かいのアパートの窓が開いていた。

この寒いのに……

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