日々短譚 「飽きた」
僕は都市伝説や不思議な話の類が好きだ。大好きというほどではないがテレビなんかで特番が組まれているとつい見てしまうほどには好きだ。
ある休日インターネットでとある記事を見つけた。異世界に行く方法という物だ。方法としては至って簡単。まず5センチ四方の正方形の白い紙の中央になるべく大きな六芒星を描きその中央に「飽きた」と書き込む。その際、飽きたという文字を赤字で書くとなお良い。紙を手に持ったまま床に就く。朝目が覚めると紙自体がなくなっており起きた先は異世界という物だ。実にお手軽である。書いた紙を枕の下に置くなどの諸説あるが大まかな流れとしてはこんなものである。この一連の手順を行う上で大事なことは実際に今の生活に飽き飽きしていることだと書かれていた。
寝ている最中に目が覚めたという人間の投稿では枕元に黒い影のような人影が立っていたとの声もあった。真偽のほどは定かではないが面白そうだとは思う。
そもそもこの世界に飽きたという人間を異世界に連れていってくれるとはどんな慈善事業だろうか。しかも異世界に飛ばされるというのも別世界の自分(自分という表現を使っていいのか不明ではあるが)と入れ替わるという物である。強制的に世界の移動をさせられる別世界の自分としてはいい迷惑である。また、飽きたというのが日本語表記なのに対して対応をしてもらえるという事は並行世界移動担当者は日本語圏内ということになる。どういうシステムの元で異世界への移動が行われるのだろうか。そこは気になるところである。無駄に世界の移動に人員が割かれる訳がない。何事にも人件費が掛かってしまう。それを賄う為に世界の移動によるメリットが発生する筈だ。あるいは移動を行う側の趣味、飽きた人を飽きさせないために誰かが行っている慈善事業という可能性もあるがこの問題に関してはいくら考えたところで答えはでない。そもそも都市伝説である所以はその現象が起こるか否かが不確かなのだ。
この答えを確かめるためには実際にやってみるのが一番である。実際この世に生を受けて20と数年、同じことの繰り返しに飽き飽きしていた節もある。ここは人身御供よろしく自らの手で試してみるのも良いだろう。
そうと決まってからは早かった。夕方早くにシャワーを浴びてお気に入りの映画を見ながら少し良いチーズと安物のクラッカーを食べながらとっておきのフォア・ローゼスのブラックラベルを開けた。イエローラベルと違い香りが高く僕の現世界最後の晩餐に相応しい味だった。人によっては安上がりだと思うかもしれないが僕にはそれくらいでちょうどよかった。
映画を観終わり、煙草に火を点ける。一服し落ち着いたところで用意した紙に六芒星と「飽きた」の文字を書き込んだ。もちろん「飽きた」は赤文字で記入した。あとは寝るだけだ。僕は歯を磨き、布団へと潜り込んだ。アルコールがめぐり静かに意識が沈んでいく。その日は珍しく夢をみた。
夢で僕は朝日で目を覚まし飛び起きた。起きた瞬間遅刻を確信した。しかし腹が減っている。どうしよかと悩んでいると食欲をそそるカレーの匂いが漂ってくる。窓を開けるとアパートの一階の僕の部屋の向かいの家の朝食であろうカレーライスが二膳窓際に置かれていた。空腹に負けた僕はその内の一膳に手を付けた。大変美味しく、丁寧に福神漬けも乗っていた。あっと言う間に平らげたが空腹が収まってから人様の朝食に手を付けてしまったことを激しく後悔し食器は洗って窓際の元あったところへと戻した。
いよいよ時間がまずいので僕は手早く身支度を済ませて家を出た。最寄りの駅が電車に乗り、少しして思い出した。普段自転車通勤であるのに何故僕は電車に乗ってしまったのだろうか。焦って上司に遅れる旨連絡しようと思ったが電車に乗ってしまっている為電話を掛けることが出来ない。どうしたものかと外の景色に目を向けると高校時代に実家から高校の最寄駅へと向かう路線だった。職場とは正反対の方向である。今日は月曜日だから体育の授業があるのだ。しかし僕は体操服を持っていない。誰かに借りることが出来ない体操服を忘れたというのは死活問題である。その上学校は禁煙である。一日禁煙に耐えられる自信がない。焦りのせいか汗が止まらない。
そこで目が覚めた。ここまで夢の内容を覚えている夢は何時振りだろうか。布団の中で大きく伸びをして気が付いた。まるで他人の家かの様な匂いがする。慌てて周りを見回すとそこは間違いなく自分の部屋だった。しかし何かが違う様な気がする。
ふと昨晩自分が行ったことを思い出した。布団を退け「飽きた」が書かれた紙を探したが一向に見当たらない。まさかな、と思い僕は開けた筈のフォア・ローゼスの瓶を手に取ってみると未開封のままだった。昨晩僕は結局何もせずに眠ったのだろうか。いや、そんなはずはない。はっきりと覚えている。本当に異世界へと来てしまったのだろうか。はたまた僕自身がおかしくなってしまったのか。なんだかどちらでも良い気がしてきた。きっとなる様になるだろう。なんだか肩の力が抜けてきた。ある種の清々しさすら感じる。どうだろう、いっそ仕事もやめて心機一転いろいろやり直してみるのも悪くはないのではないだろうか。
何の根拠もないが何とかなる、そんな気になった。