ジャズの音は初恋の
イメージ曲はアート・ブレイキーの「Moanin」です。
電車ががたん、ごとんと揺れる。
あやかはそのスピードを上げて追い越していく景色を、ぼうっとして見つめていた。読もうと思ってカバンにいれた文庫本にも手を付けられない。ただ、扉のそばに立ち電車に揺られている。
電車の中で単語帳を開くなんて、めんどうだと思う。英語の先生は『暇な時間があるなら勉強しろ』って言ったけど、そんなので覚えられるわけがないとあやかは思っていた。本当のところ、あやか何もしたくなかった。ただ無気力に灰色の景色を見つめるだけ。高校に通い始めた頃は、この景色も面白いと思ったものだったけれど、いまでは建物の窓も電柱も目を閉じていても見えるくらいに覚えていた。
景色はすうっと速度を緩めて、一回がくんと揺れると、すべてが止まった。すぐに扉が開き、人がなだれ込んでくる。大抵は黒いスーツ姿の会社員か、同じ高校の生徒だ。となりの乗客だって同じ制服をきてる、と目だけ横にやると、その姿にあやかは戸惑った。
となりの男子生徒の顔には見覚えがある。ああ、確かにそうだ。同じクラス、しかも隣の席。たしか、松本くんだったかな。
席替えをしたのはほんの数日前で、席が隣とはいえ松本くんとそれらしい会話はしたことがなかった。昨日落ちた消しゴムを拾ってもらったくらい。あやかは何をすべきが分からない。友達ならば、気楽に声をかけるだろう。おはよう、それだけ言えば済む。知らない人だったら、無視すればいい。でも隣の松本くんは友達というほど親しくないし、けれども他人というほどお互いを知らないわけじゃない。
電車が走り出す。
松本くんはイヤホンを耳に入れて、音楽プレイヤーをいじっている。こちらには目もくれない。曲のタイトルは英語ばかりだと、あやかの位置からでもわかった。
挨拶するにはもう遅いな、とあやかは顔を同級生から背けた。気まずい。移動しようと思ったが、今この場所から離れてしまえば、不自然だし、松本くんはこっちに気づいてしまうかもしれない。馬鹿、最初から挨拶していれば良かったのに。
ちらっと見ると、松本くんは微笑を浮かべている。きっと松本くんは気づかないだろう、だって音楽に集中してるみたいだし。リズムに合わせて指がカバンの上で叩かれている。
どんな音楽をきいているんだろう、あやかはふとそう思った。大人しそうな松本くんは流行りのロックとかダンスミュージックは聴かなさそう。もっとお洒落で洗練されていて……。
そう思いを巡らせたのもつかの間、松本くんがこちらを向き、油断していたあやかの目線と交差する。片方の耳からイヤホンを取って、松本くんはあやかの顔を見た。
「……おはよう」
あやかは気まずさから逃れるために、それだけ言った。
「おはよう」
松本くんもオウム返しに言う。
「松本くん、この電車乗ってるなんて知らなかった」
「いつもは一本後ろ。今日は早く来たんだ」
「ふうん。今日って国語あったっけ? 何時間目?」
「四時間目」
気まずい沈黙が二人の間に流れた。目線を少し下にずらすと、耳から垂れる黒いコードがあった。
「それ、何きいてるの?」
あやかは思わず尋ねた。
松本くんはもう片方のイヤホンも取り、黙ったまま音楽プレイヤーの画面を見せた。ディスプレイにはアルファベットが乱立していて、英語の苦手なあやかは何一つ知らないのだが、分からないとはっきり言いうのは恥ずかしいので理解したふりをして頷いた。
「なんかかっこいいじゃん」
英語の曲を普段から聞いている人はかっこいい。素直にそう思った。ジャケットは白黒写真で、何かを見つめる黒人男性が斜めに写っている。その顔は笑っているわけでも悲しんでいるわけでもなく、まるであやかが日々思う鬱々とした感情を代弁しているようにも見えた。
「水野さん、ジャズとか好き?」
「これ、ジャズ?」
あやかにとってジャズはおしゃれなカフェで流れている印象しかない。それで、美人のお姉さんたちがクリームの乗った飲み物を飲んでいるか、もしくはかっこいい中年のマスターがコーヒーを入れているか。サクソフォンとか、ウッドベースとか、個々の楽器は知っているけれど詳しい曲や演奏家はさっぱりだ。おまけになんだか格式高くて、手軽に聞けるものじゃない。
「聴く?」
松本くんはイヤホンを差し出した。ここまでされると断れず、受け取るしかない。初めに尋ねてしまったのが悪かった。仕方なく、耳に突っ込んでみる。
「右と左が逆だと思うよ」
松本くんが音楽プレイヤーのボタンに手をかけて言った。あやかは赤くなって、すぐに左右を入れ替える。
古い録音の音がした。掠れて、もわっとして、遠くから聞こえてくるような。白黒写真とか、レコードとか、そんなアナログな時代。ピアノと金管楽器が同じメロディを繰り返している。
わかんない。あやかはそう言いたくなった。きっと凄いのだろうけど、音楽に疎いわたしには分からないよ。お礼を言ってイヤホンを返してしまおうという考えがさっと脳裏をかすめた。
だが松本くんを見ると、何かに期待しているような表情をしていて、素直に返せなかった。ぎこちなく、あかりは耳にイヤホンを突っ込むふりをして乗り越えた。
そのとき、ぱっと白黒の音楽に色がついた。一瞬全ての音が停止したあと、トランペットが金色の光と共に現れる。その高い、歌うような旋律を奏でて白黒の世界に色を加えていった。ドラムとベースは力強く、だが全体を乱すことのない秩序を持ってリズムを刻み、ピアノは柔らかい和音で包み込む。
それは、灰色の心までも色づけるほどの鮮やかさだった。
「これ、好きかも」
あやかには、まだわからなかった。それが音楽的にどう説明されるかなんて、どんなテクニックがあるのか、どのミュージシャンが演奏しているのか。だがそれは気にならなかったのだ。リズムと旋律の心地よさ。抑圧からの解放。それだけあれば良かった。
松本くんはまるで自分が褒められたようにはにかんで、うつむいた。素直で飾りっ気のない笑みとトランペットの甲高い音が絡まり合うと、あやかは初めて松本くんと会ったような錯覚を覚えた。彼はこんな表情をした人だったのか、と。
きっとジャズを褒めることは松本くんを褒めることと同じなのだ。彼の心の一部がジャズの旋律でできている。彼の生活の一部がトランペットとピアノ、ウッドベースとドラムで構成されている。
あやかは頬に熱を感じ、赤面した顔をそむけた。『これ、好きかも』と言うのは『松本くんが好きかも』と告白するのと同じことではないのか? いや、そんなはずはない。好きなのは、この圧迫からの解放であって、松本くんじゃない。
でも、結局どうでもよくなった。好きなのが音楽でも、松本くんでも。
ディスプレイに映った男性は、もう憂鬱そうには見えなかった。
二人は顔を背けたまま電車に揺られた。会話はない。黒いコードでつながったイヤホンとプレイヤーだけが、二人を繋いでいた。
時間はあっという間に過ぎる。気が付くと、電車は駅についていた。
「ありがとう」
急いで松本くんの手にイヤホンを押し込むと、床に置いたカバンをよいしょ、と肩に背負う。人の流れに押し出され、やっとのことで電車から出ると、松本くんは傍にいなかった。黒い頭が人ごみの中に紛れているのが見えた。
急げば間に合うかな、と思ったけれどすぐに松本くんは二人の男子につかまってしまった。三人で楽しそうに歩いている。なんだか寂しい気がした。友人の真紀ちゃんもすぐに彼女を見つけて、「おはよう」と肩を叩いた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
「さっきさ、隣にいたの松本くんだよね。そんな仲いいなんて知らなかった」
「偶然だよ、それに仲もよくないし」見られていたことが急に恥ずかしくなって、あやかは誤魔化した。
真紀ちゃんはくすくす笑った。
「でもさ、結構かっこいいじゃん。あっ、もしかして、そういうことなの? ねえ、そうなの?」
「やめてよ、真紀ちゃん!」あやかは赤面した。「たまたまなんだから、本当に」
わたしが好きなのは、松本くんのジャズなんだ。松本くんじゃない。彼女はそう言おうと思ったが、やめた。音楽を聴いたことを話してしまえば、真紀ちゃんはもっとからかうだろうから。
もっと言えば、否定するのが嫌だった。
あやかは改札を通って、家から一番近いCDショップはどこだったか考えた。真紀ちゃんなら知っているかもしれない。早くあのアルバムを調べなきゃ。あの解放感を、もう一度聴きたいから。
外はもう灰色ではなかった。