召喚者と被召喚者
葉桜が終わり、地に落ちた花びらすらも人の目から失せてしばらくが経った頃。
次第に昼が長くなるのを感じる季節にあるも、日はとうに暮れ、街灯が自身の存在を煌々と証明する時間。
そこはよくある閑静な住宅街。どこにでもある一軒屋。その一室。
生活感を漂わせながらも、隅々まで掃除の行き届いた部屋。
そこには今、看過しようがない非日常が巣食っている。
その部屋の全ての窓という窓には隙間なく段ボールが嵌め込まれ、街灯などの人工的照明そして、月の光は、概ね、部屋の中には届かない。
この部屋で唯一の光源であるろうそくの炎は、時折揺らめくも真っ直ぐ穏やかに燃える。
線香の煙が部屋全体に充満し、薄暗い部屋に一様でない半透明の白を漂わせている。
部屋の中央付近には、立方体に近い形のダンボールを二つ積んで作られた祭壇。その各辺にそれぞれ置かれたマッチ箱、水の入ったグラス、扇、パン。
床にはいくつもの燭台と、それらを繋ぐようにして、あるいは何かの規則に従って引かれた白線。
魔法円。
無意識に触れた胸元。鈍い痛みが襲う。数日前に父から受けた暴力の証。
現在の彼女の生活においては決して珍しい事ではない。出会い頭の事だった。たとえ単なる言いがかりだったとしても、理由があるならばそれはまだましな方である。
痛みに目を固く閉じたが、それも一瞬の事。小中小陽は読み終えたノートをその場に置くと、魔法円を横切り、祭壇の前に立った。
自室を非日常たらしめている数々の装飾。これらは、小陽が父の部屋から持ち帰った一冊のノートに則って設えられた。そのノートには室内の装飾のみならず、必要な道具、儀式を行うのに適した時間帯や場所等々、召喚の儀式に必要なものは全て――異常な程に神経質な文字で――記されていた。
↑↑
今から二日前のこと。
夜。小陽は、父の部屋の前に置かれている食器を片付けに来た。その去り際、声がする。いつもは絶対に聞く事のないような声のトーン。父の声質とは明らかに異なる。ならばその声の主は一体誰か。中の様子を知りたいという欲求が沸き起こる。
しかし、裏腹に小陽は立ち止まり、逡巡する。
かつて、父の人格が変わってしまって間もない頃。食事が出来たので声を掛けようと少しドアを開けた、たったそれだけの行為が父の逆鱗に触れた事があった。それ以来、今のようにドアの前に食事を置く事にしている。
ドアは開けられずも、その場からも離れられない。そんな、天秤が釣り合うような停滞は、先程とは大きく異なる、戸惑いや焦りといったものを含んだような父の声、それが引き金となり、その均衡は一挙に瓦解した。
中に居る何者かとのやりとりでこちらには気付かないだろうという打算的な思考も後押しした。意識の奥底に、その何者かに希望を見出したのかもしれない。
小陽は、細心の注意と明確な意志を混在させた両の手で、そっと、父の部屋のドアを開けた。
中を除くと、父がものすごい剣幕で怒鳴っている。「お前も俺を馬鹿にするのか」確かにそう、聞き取る事が出来た。そして、父の怒声に呼応するようにして別の、――まだ声の変わり切らない、高くも低くもない――大きな声が上がる。
不意の事に小陽は危うく声を漏らす所だった。口を塞いで息を殺し、声の方を見遣る。
その先に何者かの存在が確認できる。
それは明らかに異常だった。
数時間前、食事を持って来た時には、父以外に誰かが居る風な気配はなかった。また、自分は台所で食事をしていたが、部屋の位置関係上、誰かが入って来たならば気付くだろう。
では、一体どこからやって来たのだろうか。
ともかく、その人物を具に確認しようとしたが、ろうそくの明かりだけではそれも叶わなかった。身長は自分よりも二回り程は高いだろう。確認できたのはせいぜいその程度だった。
更に目を凝らしてその人物をどうにか捉えようとしていたのも束の間、父が声を上げながら"その人物"にしがみ付く。しかし、あっさりと振り解かれて、段ボールの様なものなどが雑然と置かれてある辺りに倒れ込んだ。
小陽はそれをただ呆然と見ていた。父と対峙している人物を確認しようとしていたのも忘れて。
呆然と。
自分はこの光景を見て何を思っているのだろうか。何を思えばいいのだろうか。
様々な感情が互いに互いを干渉し合い、その総体として在る、それらとは全く別の感情。
この感情には名前がない。
自分の思いがどこにも向かわない。向かえない。
どれほどの時間が流れたのかは定かではない。ただ、本来の目的を思い出した頃には、全てが終わっていた。
先程まで父と諍い(いさか)を起こした人物は、いつのまにかこの部屋から居なくなっていた。
何かを考えようにも、途中でなぜかプツリと思考が途切れてしまう。こうしている間も、父はこの部屋から居なくなった人物に怒声を浴びせ続けている。
そのまましばらくぼんやりと父を眺めていたが、これ以上何があるというような気配はなく、早くこの場を去りたいと思った。
小陽は細心の注意を払ってドアを閉める。もっとも、ドアを閉じる音に気付かれるような気配は全くなかったのだが。
↑
昨日。扉の向こうの人物の出現から一夜明けた日。
学校から帰って来た小陽は、すぐに夕食を作って、父の分を部屋の前まで持って行く。
登校前に彼女が作り置きしておいた分と取り換えた。食べ残しはあるが、いつもに比べてかなり多く食べている。トレイ中にばら撒かれた食べこぼしもいつもより多い。
"何とかしてくれ"そんな事を言っていたと思う。今日も昨日の人物と会ってその"何とか"を願うのだろうか。そんな事を考えた。
自分の食事・後片付けを済まし、昨日より四、五分早めに父の部屋へ向かう。あの人物が再び現れるのならたぶん昨日と同じ時間帯だろう。決して根拠のあるものではなかったが、彼女はそう考えた。
この日は、何者かが家の中へ入って来ていないか注意していた。もちろん何者も外からは入って来なかった。
忍び足でドアの前まで近付いて行った。不躾に投げ出されたトレイの上の、珍しく全て空になった食器をごく短い時間で確認し終えるや否や、片方の耳をドアに近付けて中の様子を伺った。
何か喋っているのは聞こえるが、誰かと会話しているような風ではない。少し早く来過ぎたのだろうか。
不意に父の声が途切れる。小陽は生唾を飲んでその後に訪れるであろう出来事を待った。
父が再び何かを喋った。彼女は待つ。
尚も父は続ける。抑揚や言葉の長さから、先程から同じ言葉を繰り返しているのではないかと思われた。
しばらく聞いていると、その文言は次第に強く発せられるようになる。
その過程で"友よ"という言葉だけは、朧気ながらにも聞き取る事が出来た。
友。
その言葉を反芻するも束の間、父が大声で叫ぶ。
カチャ。
食器どうしがぶつかり、音が鳴った。父の絶叫に反射的に体をびくつかせ、置きっ放しのトレイに意図せず触れてしまっていた。
小陽の体は硬直した。今の音で気づかれたかもしれない。
彼女はすぐさまトレイを持ち上げると、足音に注意しつつも早足でその場を後にした。父の部屋には目もくれず。
↓↓↓
翌日。つまり、今日。
その昼下がり。
朝食の食器を片づけに父の部屋の前まで来たのだが、料理には一切手が付けられていないどころか、どうもトレイが動いた様子すらない。
それを確認したのと、次の動作に移るとの間に、数瞬の間もなかった。
一昨日以上にためらいを感じさせず、一昨日以上の覚悟でもって扉を開け、その中に入って行った。
↓
そして、現在に到る。
日が沈み、数時間ほど経過している。
父の部屋から持ち出した、戦利品とも呼ぶべき一冊のノート。
ただ、彼女の覚悟に反して、部屋に入り、ノートを見つけてから部屋を後にするまで、これといった危険はなかった。
一昨日、父の部屋に居た、"友"と呼ばれていた人物。ノートによると、彼は魔法使いで、呼び出した者の願いを叶えてくれるという。
そんなものを真に受け、こうして部屋を整えた。こんなオカルトにさえ、彼女は切実だった。
願いは既に決まっている。
胸元の痣を、左手で、今度は意図的に触る。触れた箇所が当然に痛みを返す。
もうこんな痛みを味わうのはたくさんだ。
父の願いが受け入れられなかった理由はわからない。
だが、多くの子供達が、当たり前のように享受している極々(ごくごく)平凡なもの。自分が願うのはそんな些細なもので、願いが叶って誰かが迷惑を被るようなものではない。
きっと、叶えてもらえる。
右手には果物ナイフ。
他にも懐と流通の問題で、ノートに書いてあったが用意できなかった物品が幾つかあった。それらはより安価なもの、または家にあるもので代用した。たとえ昨日何事もなく出入りできたからといって、必要な道具の調達の為にもう一度父の部屋へ入ろうとは思えなかった。
長らく続いたこの生活、この痛みから解放されるかもしれない。そんな希望に後押しされ、小陽は儀式を開始した。
――――えーっと……。こっちの次は、こっち……?
動作がかなり覚束ない。儀式の手順は実際に予行演習も行って全て覚えたが、いざ本番――即ち、"魔法使い"を呼び出し、願いを叶えてもらう――となると、緊張して色々なものを忘れそうになる。その度に動作が不自然に止まる。
「――――……? あっ、違ッ。……――……――――……」
発音もかなり怪しい。
「――――」
「――――――」
「――――」
「…………」
どうにも心許ない所作ながらも、儀式を進めていくうちに、小陽は自分の存在が曖昧になったような心地を得た。
それは、例えば薄暗い室内、ろうそくの炎の爆ぜる音、香の匂い、痣に触れた肌着の触感、口の中に微かに在る錆びた鉄の味。そういった情報を得た自分が一体何者なのか。精神がどこかへ遊離し、肉体が得る感覚だけで繋がっているような、感情の高揚と沈滞を同時かつ不可分に感じるような、浮遊感。
不確かな精神状態のままに、小陽は召喚の言葉を唱える。
「友よ、さいはての地の、めい友よ」
これまで経験した事のない現象。自身の感覚、ひいて、自身の存在すら不明瞭な中では、あれほど完璧に覚えたはずの言葉すら胡乱である。
「かくたりを超え」
隔たりだった。ノートには常用漢字の読み方までは記されていなかった。
「今この場所にて……旧交を、温めようではない、か」
直後、何かが床にぶつかる音がした。
魔法円の中心をやや外した辺りに、何者かがうつ伏せに横たわっていた。
↓
「うわああっ!!」
強かに顔面を打ち付けてすぐの大声は徒に頭に響く。
自分が聞いた事のある、歴代代理の旧世界人についての数少ない話の中で、"自分が召喚しておいていざ我々が現れると、かなりの確率で召喚者は驚く"というのを思い出した。
ギリギリまで叔父と悶着があったばかりで、次の瞬間には顔面を強打し、終いに歴代代理の話などを思い出してしまったとあれば、益々機嫌が悪くなる。
ともかく、まず体を起こす。ずっと床と向き合ったままでいても詮が無い。
部屋の雰囲気が明らかに違うし、甲高い悲鳴からもわかるように、召喚者は一昨日の男ではない。
自分を呼び出した者は身体つきから察するに、自分と同年代の少女と思われる。その彼女は、尻餅をついたまま大きく目を見開いてこちらを凝視している。
ただ凝視しているだけで、視線にそれ以上のものがあるかどうかは、どうも疑わしい。
「――――という人物を知っているか?」
想像通りの無反応。
「おい!」
「ぃッ!?」
眼前の少女は男の声に身を震わせる。その三秒程度の後に我に返った。
それを見届けてから再び問うた。
「――――という人物――」
「家族になって」
「……は?」
自分の質問を遮られた男は、理解を得ないという反応を見せた。
実の所、代理に就任して以来旧世界人にどういった願いを告げられるか想像しない日のなかったアルヴァだが、その願いは全く想像だにしなかった。
加えて、そんな願いを抱く目の前の少女は必死そのもので、理解は更に遠ざかる。
「家族になって」
対して彼女は同じ言葉を繰り返すのみだった。欠片も話が見えてこない。
「家族って何だよ」
二、三の疑問が混在しているが、自分が最も気になっている箇所を問う。
「う~ん……」
――悩むなよ。お前の願いだろ。
心中吐き捨てる。やはり要領を得ない。
「親はどうしたんだよ」
「二人とも、もう家族じゃない。……多分」
彼女の発言が気になりはしたが、これでは一向に話が進む気配がない。願いを叶えるのは良しとしても、長居するのは余り喜ばしくない。
「何か欲しい物はないのか?」
「何もいらない。ねぇ、お願い。家族になって」
その言葉の意味もわからぬまま、執拗に同じ願いを繰り返す小陽。
父が壊れ、母が居なくなるその前までは、確かに彼女たちは家族と呼べる関係だった。そんな満たされた環境の中では”家族とは何か”などという命題に向き合う必要がなかった。今そこにある関係こそが、他ならぬ家族なのだから。
それが、いつの頃からか現在の関係に堕ちた。
当たり前のようにありふれていると思っているものほど、失った時にそれが一体何だったのか、思い出せなくなる。
決して眼前の男をからかっているのではない。彼女は真剣に家族というものに向き合い、また、それを満たす何かを渇望していた。
しかし、それは眼前の男には届かない。
眼前の男、アルヴァは、叔父の事や唐突に全身を打ったせいでただでさえ気が立っているのに、聞き分けのない彼女の様に更に神経を逆なでされるようだった。
怒りは、忘れさせてしまう。彼の中に強く根付いていたはずの、旧世界人の願いを叶えようという気概は、急激に萎え始めた。
そもそも、彼女の願いをどれだけ慮った所で、自分に家族になれというのは、どのみち叶えられない類の願いである。
「そうか、わかったよ」
どうにか平静を保って、静かに告げる。
「叶えてくれるの!?」
家族というものが何たるかもわからぬまま、ただ現状を変えたかった小陽。
「無理だ」
そんな彼女への答えは残酷なものだった。
「え? ……どうして?」
声が震えている。願いが叶うとばかり思っていた小陽は、虚を突かれたように狼狽える。
「俺たちの持ってる能力なんて大したものじゃないんだ」
旧世界人への思いをどうにか維持し、穏やかな口調を意識して、諭すように説明する。
「それに、俺にだって帰らなければならない場所はある」
嘘だった。彼女が居なくなった今、そんな場所はもうどこにもなかった。
「じゃあ僕もついてく」
彼女の言葉に強く動揺した。
「駄目だ」
先程までとは対照的に、強く、強く拒んだ。
そういった願いならば、絶対に叶えるつもりはない。
旧世界人と現世界人が一緒に暮らすなど、不可能。
たとえ、お互いがどれほどそれを望んだとしても。
「どうして?」
しかし、眼前の少女は食い下がらず、尚も尋ねる。
「それは……だな……」
明確な理由はあるのだが、口には出したくなかった。
少女はアルヴァの言葉を待つ。
どう説明すべきかと最後の理性が思考を巡らすが、すぐに待ちきれなくなった小陽が喋り出す。
「ねぇ、僕もついて行っちゃダメなの? どうしたら連れて行ってくれるの? ねえ? 僕も一緒に行きたいよぉ。お願い連れて行って」
「うるっせぇんだよ!! 駄目なもんは駄目なんだ!!」
最後の理性とやらも決して忍耐強いわけではない。怒りに飲み込まれて怒鳴り声を上げる。彼女は驚きに全身を強張らせた。
「……そういう事だから。じゃあな」
彼女の様で我を顧みる。感情を沈め、アルヴァは静かに告げた。
どうにもばつは悪いが、それで自身の行動を改めるつもりもない。絆される事無く踵を返し、魔法円の中心へ歩いて行く。
「嫌ぁ! 待ってぇ!」
彼が世界の狭間をくぐろうとする直前、怒号に身を竦めていたはずの小陽は反射的に駆け出し、彼の右腕にしがみ付いた。
「おい! やめろ! 離せ!!」
「お願いぃ!」
振り解こうとするも、小陽は頑なにその手を離そうとしない。彼女の体格からは想像もできないような力でしがみ付いて離さない。
この日常に溺れる者が掴んだ、藁よりも不確かな希望。掌から零れ落ちようとも、みすみすそれを手放す事はどうしてもできなかった。
「お願い! 僕も連れてっ、行ってよぉ!」
しがみ付いた腕に何度も振り払われそうになりながら懇願する。
「離せっ!!」
彼女を振り払おうとして、不意に体勢が崩れた。
「!?」
たたらを踏む間もなく体が傾ぐ。
アルヴァの血の気が引く。
その先には、旧世界と現世界を繋ぐ、境界。
しかし、意識とは裏腹に、如何様にも抗う事も出来ず、小陽共々(ともども)魔法円の中心に倒れ込んだ。
↓
アルヴァは酷く動揺した。
不可抗力とはいえ、旧世界人を現世界に連れて来てしまった。
一瞬本気でそう考えたが、よくよく周りを見渡すと、先程と景色は変わらず、自分達はまだこの世界に居るという事がわかった。
ありあわせの道具に拙い(つたない)所作や文言という不完全な儀式のせいで、境界の位置が魔法円の中心からズレてしまっていたと考えられるのだが、彼がそれに思い至る事は無かった。
安堵を覚える事すら忘れ、小陽の胸ぐらを掴みあげると、乱暴に顔前に引き寄せた。
「何のつもりだてめえ!!」
決して国王本に対して発散することのできなかったこれまでの鬱憤が重なり、これまで以上の大声で怒鳴りつける。
対して。小陽は反応しない。
「聞いてんのかよ!! おい!!」
苛立ちあるいは怒り紛れに掴んだ手で前後に乱暴に揺する。
「おぃ……」
アルヴァはやおらその手を止めた。
違和感はすぐに訪れ、怒りは急激に減退した。
彼女の首は、まるで重力に恭順を示すかのように傾ぎ、瞳はどこかを向いている。こんな間近で凄まれれば少しぐらいは体も強張るだろうに、全く反応がないどころか、脱力し切っている。そのせいで、明らかに軽い部類になるはずの体は、片腕で支えるのには意外なまでの労を要した。
呼吸はしている。体が近いので心拍も確認できる。当然脈もあるのだろう。
しかし。
彼女が生存していると認めるには、圧倒的に何かが欠如していた。
その欠如が強烈な違和感となってアルヴァを襲う。
彼女の遍歴など、彼が知るはずもない。それでも、彼女の過ごしてきた日々が正常ではないという事など、今の彼女を見れば明らかだった。
涙が零れていない。
最後の希望は潰えた。真偽など知る由もないが、そう感じられた。
絶望などという言葉で捉えるには不足している。
諦めている。それも、最後の段階にあるのではないか。
そう思い至ったアルヴァは、こんな自分とそうそう変わらないような年齢の彼女が、なぜこれほどまで追い詰められているのかと疑問を抱く。
そして。ふと、それを視界に捉えた
瞬間、彼はそこから目が離せなくなった。
最初、それが一体何なのか理解できなかった。理解したくなかったのかもしれない。
自分の手に引っ張られた衣服の隙間から覗く、眩暈を覚えそうな程に鮮やかな青。それが、体中に広がっている。白い肌に強烈なコントラストとして映え、薄暗い室内でも確認できる。
痣。
「……おい」
その余りの現状に、そんな言葉一つ放つだけでも覚束ない。
停止する思考の中、対照的に唯一、ある理解に到る。
希望を奪ったのは、自分。またしても。そんなつもりなんてないのに、またしても。
そこでようやく、自分より強い国王への怒りを彼女で発散している自分に気付いた。
怒りの減退で出来た心の隙間に、そんな思いが急激に流れ込んでくる。
彼女の衣服を掴んでいた手を静かに解く。そのままだと頽れそうで、そっと、両の手で彼女を支えた。
両肩に触れた手には、柔らかな感触が返ってくる。しかし、同時に、ほんの少しでも力を入れれば容易く壊れてしまいそうな、そんな危うさを孕んでいた。
彼女はうなだれたまま、少しも動かない。
彼は何をするでもなく、ただただ彼女を支えていた。
それ以外に一体、何をすればいいのだろうか。
答えが出ない。
眼前の少女が我に返るまでには時間を要した。その間、アルヴァは放心したまま、何もできなかった。
↓
「……? ッ!?」
「ゥッ!?」
顔を上げた小陽は驚きと共に硬直した。五十センチもない距離に、ほぼ初対面の男の顔がある。
釘付けとはこの事だろう。彼女は驚愕に大きく目を見開き、アルヴァから目を離せないでいる。
掴みっぱなしだった手に彼女の体が強張る感覚がはっきりと伝わる。
恐らく正しい反応だろう。なぜかアルヴァは安堵を覚えた。
すると、彼女の驚愕に訝しげな表情が混ざった。
その様子を見て自分の表情が少し緩んでいた事を理解し、何とも言えない気恥ずかしさを得た。
目が覚めたら何者かに両肩を掴まれていて、そいつが唐突に表情を綻ばせれば、普通は訝しがるに決まっている。
「あぁ……、すまん」
そう言って表情を整えると、彼女の肩から両手を離した。
彼女は真っ直ぐにこちらを見つめ、彼が何か喋り出すのをじっと待っている。その様子はとても切実で、願いを諦め切れていないというのが強く伝わってくる。
対するアルヴァは、まず、彼女と向かい合ったまま、距離を取った。
彼女の表情に翳りがさす。しかし、今度は彼を追おうとはしなかった。覚悟よりも諦めの気持ちが勝る。
そんな面持ちで、アルヴァの言動を待った。
「叶えてやるよ」
彼女の表情が疑問符を浮かべる。諦めたはずの、予想しなかった答え。信じられない。
「叶えてやるよ……。お前の願い」
願いが叶ったはずなのにどうしてそんな表情をしているのか。アルヴァは思い違いの余地を与えないように繰り返した。
「うん」
そんな彼に、彼女は静かに頷いた。
俯き加減の彼女は、何の疑いもなく生きていると認める事が出来る笑顔だった。