甥と叔父
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昨日、旧世界から帰還したアルヴァは、脇目も振らずそのまま自室へと駆けた。
旧世界からの呼び出しがあった次の日には、委員会による聴取があるのだが、その場には出なかった。職務違反である。
目を開けても閉じても光景に大した違いがない。シーツの中でうずくまっている。
本当はもっと眠っていたかった。しかし、眠ろうとすればするほどかえって意識は鮮明になっていく。
ずっと、眠っていたかった。そうすれば、考えなくていい。
今だって信じたいと思う気持ちは本当だ。
思考が加速する。男の言っていた言葉が心の制御に逆らって湧き上がって来る。
自分を馬鹿にしていた連中を見返す。
かつて、自分も同じような思いを抱いていた。そして、それは叶わなかった。
そうでありながら、彼の願いを摘み取ったのは、他ならぬ自分自身。
発現という能力は、即ち、己の能力。自身がかつて代理になるという夢を放棄したのもひとえに、己の能力に依る所。
何者の願いをも叶えられないこの能力に、一体どれほどの価値があるというのだろうか。
それだけならまだいい。無価値なだけならば、まだいい。
ノックの音がする。これまで止まなかった思考が出し抜けに凪ぐ
聴取か、あるいはもう待機の時間が来たのか、ともかく職務だというのは確かだ。他の理由でこの部屋を訪れる者などいない。
構うものか。しばらくすればどこかに行くだろう。
ドアを消滅させてまで勝手に入ってくるような奴はもうこの世界には居ないのだ。
この日は一歩も外へ出る気にはなれなかった。
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目が覚める。
違和感などという表現では不適切。背中の触感が明らかにおかしい。シーツにくるまっていたはずなのに、視覚は光を捉えていた。滲んだ視界でもはっきりとわかるいつもとは違う天井。しかし、目覚めてすぐの脳では、そこから現状を結び付ける事は出来ない。
右手がベッドからはみ出て側面に触れる。ひんやりとしている。ベッドではない。
一体ここはどこなんだ?
わずかながらも次第に機能し始めた脳に従い、仰向けになった体を起こそうと、右側を下に半身になった所で顔に何かが触れる。そして、それが何かはわからないまま、視覚が底の知れない闇を捉えた。
その瞬間、アルヴァはそのままの状態で反射的に首をひねり、肩越しに背中側を見渡す。同時に血流が加速するような感覚を全身に覚える。それまでぼんやりとしていた意識が一気に覚醒した。
自分は今、白い部屋に居る。恐らくは寝ている間に何者かにここまで運ばれた。
「目が覚めたようだな」
即座に体を起こす。無防備な姿を晒すのに強い抵抗がある。
声だけで分かった。起き抜けに自分をこの部屋を運んだであろう主犯格の挨拶。最悪の寝覚めだった。
どれほどの間眠っていたのかはわからない。だが、この部屋に連れて来られたという事は、今は夜、世界間が繋がる時間帯なのだろう。
椅子に座っていたアドニスは、顔だけをアルヴァの方へ向けて言った。両の手は開かれた厚い冊子を持っていた。アルヴァはそれに見覚えがある。
守衛が毎日書き記している日誌。
という事は、一昨日と昨日の内容については目を通したのだろう。もっとも、日誌を見るまでもなく報告は来ているはずだ。
しかし、だからどうしたというのだろうか。
正面、先程自分の顔が触れた手すりの脚の方へ向き直る。叔父に背を向けて、胡坐をかいている。挨拶は無視した。
彼の無音の"ご挨拶"にも反応乏しく、国王はすぐさま顔を戻し、再び日誌を読む。
守衛の姿が見当たらない。席を外させたのだろうか。別に何でもいいが。
ノックの音を思い出す。施錠していたドアを消滅させて入って来たのだろう。そんな横暴をはたらかせた原因は自分とはいえ、そういった理由ではなく怒る気にはならない。
ジャンヌとの――彼女が居なくなった今となっては――良い思い出が最悪の形で上書きされたような気もしたが、それすらも今のアルヴァには届かなかった。
旧世界の人間に裏切られたとは感じていない。心の深層の域でも理解はできていると思う。
ただただ、悲しかった。それだけ、それが全てだった。
国王が沈黙を破る。何か機を見計らっていたとかそういった風ではないが、どれほどかの無音があった。
「お前がバックれている間、ずっと旧世界の人間はお前を呼んでいた。夜が明けるまでずっとだ」
それもわかる気がした。願いを拒否した瞬間の男の表情、その後の振る舞いを見れば。
アルヴァは無言でそれを聞く。
国王は日誌を机の上に置くと、自分に背を向けているアルヴァに向き直って、続ける。
「だからといってお前にあれを使わせるのは酷な話だとは思う」
無言。アルヴァは、手すり越しに広がる底の知れない闇を睨む。
「しかし、気にする事は無い。機密保持というのは、情報を漏らすのを防ぐためのものであって、召喚者に憑素を中てるのは代理達が勝手にやっている事だ」
歴代の被召喚士代理は、旧世界人を嫌う者が多かった。なので、なるべく呼び出されないように、旧世界人に対して、ある策を施す。
ひとたび召喚の技法を習得した旧世界人が、己の願いを叶えさせるまで何度も召喚を行う、しかし、ルール上、それを無視するわけにはいかない。というのならば、簡単な話である。彼らから召喚についての記憶を奪えばいい。
そんな一見荒唐無稽な芸当を容易に可能たらしめる能力を、現世界人は有する。
憑素だ。
憑素は、物体を発現させるのに用いられるだけでなく、現世界人が旧世界人の記憶を飛ばすのにも用いられる。
急性憑素中毒症の二つ目の症状。召喚や現世界についての記憶だけを選択的に忘却させる事が出来る。この世界の人間は”収奪"と呼んでいる。
被召喚士代理達は、こうして十二分以上の機密の保持に腐心している。
国王が言うように、記憶を奪うかどうかは代理次第である。本来ならば旧世界人には一切の危害を加える事を許していないが、召喚の儀式が拡散しすぎると両世界に混乱が起こる可能性がある。だから、召喚者が自分達の”恩人”の子孫でないとわかった場合、その使用は黙認せざるを得ない。
そんな中、アルヴァは収奪を用いなかった。
最初からそのような選択肢は彼の中には存在しえない。
「でも、どのみち俺は昨日重大な職務違反を犯したんだ」
しかし、それには触れられたくなかった。是が非でも会話を進める。
「……クビにしろよ」
この世界の誰しもが一度は思い焦がれるであろう役職を、何でもないもののように差し出そうとする。言葉は唯々(ただただ)水が高い所から低い所へ流れるように、自然と零れ落ちた。
「俺より優秀な人材なんて探す間でもなく見つかるだろ」
旧世界に触れるきっかけを自分に与えたジャンヌの事が脳裏をよぎる。
彼女がどういった意図で自分に副代理などという新職を与えたのか。それはわからない。ただ、結果として今の自分がいる。
もういいだろう。
こうする他には自分にはもうどうしようもない。旧世界人と触れ合う事でこんな気持ちになるのならば、こんな役職など今すぐ放棄してやる。
未来の事は誰にもわからない。役職を続ける事で、もしかすると今後、色々なものが好転する可能性だってある。しかし、今の気持ちがその可能性を求めようとしない。
「当然だ」
自身の能力を否定されたにもかかわらず安堵すら覚える。これで終わりだ。免職されれば王宮に居る理由もなくなる。
それこそが本来そうなるべき生活だったのだ。為るがままに日々を漂って行く。大きな感情の起伏もない。そんな事を考えたいつかの夜を思い出す。
「だがお前には任期は全うしてもらう」
肩越しに国王の方を向く。彼の口から出た言葉はアルヴァの予想を覆すものであり、その意図がアルヴァにはわからない。
「この部屋は初代国王ウイリアム・ロバート・ウッドマンがこの世界に来て初めて発現させたものだそうだ」
一呼吸置いた後に唐突に語り始める。アルヴァは国王の言葉に反応するようにして今自分が居る建造物に目を遣る。
壁から足場に至るまでその全てが一様に白い。一瞬ならば白磁を思わせる事もあるだろうが、そんなものが建材として用いられる事がないというのと、少し見れば明らかに別の何かであるという事がわかる。均質さの程度が全く異なる。僅かな凹凸もなければ、微細なムラすら確認できない。
微かな照明は、薄暗いながらも最奥部まで光を届けている。それと同時に在る、一歩踏み出せばそのまま飲み込まれそうな深く濃い底なしの闇が、この部屋の床面積の殆どを占めている。
「どうしてこんなものを造ったかわかるか?」
アルヴァの回答を期待しない問いかけ。それが証拠に、国王はさして間を置かずに続ける。
「燭台はこちら側にしか設けられていない。これだけでは向こう側まで十分な光は届かず、落ちればどうなるとも知れない闇底の上の足場を渡るには甚だ心許ない。その足場は狭く、二列で歩くのは困難だ。そして、それを超えた先には、この扉だ」
これだけの情報を与えられれば、次に国王が言うであろう内容はアルヴァにもわかる。言を返せば、そう言われるまでその事には気がつかなかった。
「訪れた者を歓迎する為のものとはない考えられない」
概ね思った通りだ。だが、随分と踏みとどまった表現ではないだろうかと思う。
祖先達はきっと、この世界にやって来る者を、恐れていたのだろう。
不十分な照明は、進行を遅らせるために。二列では進めない狭い足場は、一人ずつ相手をできるようにするため。
そして、足場を渡りきったとしても、その間に外側から重い扉を閉められれば、これを開けるのに更に時間がかかる。
その扉を開けた先には大勢の現世界人が待ち構えているだろう。
いかな大勢でやってこようとも対応し得るような策が、幾重にも施されている。
「我が祖先たちは、我々が今居るこの世界と接触する事で、旧世界人とは似て非なる存在となった。そして、どこでそれを知ったのかは不明だが、その秘法を求め黄金の夜明け団内の多くの派閥は彼らを狙う。ウッドマン派は他とは違い、得た知識を用いてどうこうしようというつもりはなく、ただ世界を識る事のみが目的だった。自分達が得た知識が悪事に用いられる事を善しとしない。だから他の派閥には伝えなかったのだろうな」
自分に対して話し掛けているのに、独り言を傍から聞いているような心地。
叔父は、尚も続ける。
「派閥の手は次第に苛烈になって行く。都市部を追われた祖先は北へ向かい、その先にある"名もなき村"で匿ってもらうことになった。しかしそれも束の間の事。村内から密告者が出たのだ」
これ以上この世界の人間と関わっていく事は不可能。そう考えた彼らがとった行動は。
「祖先達が"この世界に来た"というのは厳密には正しくない」
「逃げて来た」
「……」
アルヴァは思わず言葉を漏らしていた。そして、後に訪れた無言が、自分の発言への賛同なのだろうと思った。
「この世界の人間が旧世界人を嫌う理由の根源に、そういった過去がある」
国王は言葉を切る。
「旧世界人をよく思わない者はもちろん先代の国王にも居た。しかし、それでも我が王室では、『今、この世界で我々がこうしていられるのは、彼ら一部の旧世界人の協力あってこそのもの。それを自覚し、国民の代表として彼らの子孫に感謝の意を伝えるのはとてもとても大事な事。そして、彼らと再び友好な関係を築きなさい』と徹底的に教えられている。だから、たとえ望まぬ結果になろうとも、その度に『次こそは』という希望を蘇らせる事が出来る」
自分達を追いやったのが旧世界人ならば、たとえ一時でも自分達に手を差し伸べてくれたのもまた、旧世界人なのだ。
「中には、彼らの子孫に限らず、旧世界の人間全てと友好な関係を築きたいと考える者も居た」
そう言って、アルヴァを観察する。取り立てて何か反応を示した風は見せない。
「そして、被召喚士代理制度が始まった」
王室外の者が旧世界人と接触した結果、身勝手な願いを執拗かつ一方的に押しつけられるばかり。彼らが旧世界人を益々嫌いになるというのも無理はないだろう。
国王も皆までは言わなかった。
「『伴侶よ、古き盟友よ』か」
光源に背を向けていても、些かながら部屋を照らす音は聞こえる。彼が口を噤んだのだと強く意識される。
「皮肉なものだな」
王は言う。
「この制度も今や大きな過渡期にあるのだろう」
そう続けた。その言葉からは、彼にしては珍しく本音が見え透いているようにアルヴァには思われた。
現状を嘆いている。そんな本音が。
そして、それは恐らく旧世界人に対してのみならず、現世界人に対しても向けられているのだろうという印象を強く受け取った事に、アルヴァは不可解なものを覚えた。
「旧世界の人間が一昨日出会ったような者ばかりではないという事はお前もよく知っているだろう。確かに、一時的に気落ちする事もあるだろうが」
文法的には次に何を言おうとしているのかはわかるが、文法的にしかわからない。
「――任期中に友好的な人物に出会えると良いな」
前に自室で会話した時と同じ疑問。旧世界人を文字通り人とも思わないような人間が、一体何を言っているのだろうか。
アルヴァは叔父と向かい合う形に座りなおす。彼の表情を見逃さないために。
「……俺が惨めな思いをしてるのをそうやって見てるのはそんなに楽しいのかよ?」
叔父が一体何を考えているのか、それを見極めたい。否、正しくは眼前の男が自分の敵か味方かを見極めたい。
「そんなつもりはない」
言葉では何とでも言える。
こちらを向いた事に少なからずの反応は見せたように思うが、喋る頃にはその余韻は完全に霧消していた。
これだけのやり取りでは彼を咀嚼する事はできない。もっと会話をする必要がある。
「たまたまお前を呼んだ者がああだっただけの話だろう。そっちの世界での他の人間も同じかどうかなど私にはわからん」
叔父が続ける。こちらも言葉面だけを信用するわけにはいかない。
「それに」
アルヴァは無言で続きを促す。
「お前の父には期待していた」
瞬間。唐突に感情が沸く。
直後。それに呼応するように、体内を巡る血の流れが変わるような、体温が上昇するような感覚を捉えた。
「旧世界の人間を人間と思わないお前が」
自身の爆発的に増殖していく感情を内に押し留めるよう努めながら言葉を紡いだ。
「一体何を期待してたって言うんだ?」
言葉は遅く、しかし一言一言が、重たい。
「……好きで人間扱いしなかったわけでもない」
相対的、あるいは絶対的に、叔父の言葉は弱く感じられた。
「お前」
反射的に立ち上がり、掴みかかろうとした。「会話をする必要がある」などと考えていた事も忘却せしめる程に我を忘れ、瞬間的に怒りが噴出しそうになる。
彼が何を考えているかなど、もうどうでもいい。自分の家族を弄びながら、悪びれる事もなくこんな事を言い放ったこの男が許せない。
しかし、掴みかかろうとしただけだった。
叔父は微動だにしない。その姿は確かに沈着そのもののように見えた。椅子に座ったまま、視界はアルヴァの形相を正面に捉える。
決して国王の眼力に委縮した訳ではない。ただ、絶対にこの男には勝てない。たとえこの世界で最も強い者に負かされたのだとしても、もうあの日のような惨めな思いはしたくない。
だからといって、この怒りが収まるわけでもない。
許しはしないが、返り討ちに遭うのは避けたい。結果、アルヴァはただ、彼を睨みつける事しかできなかった。
当然、そんなものに国王が動じるはずがない。
「親父の最期の言葉、覚えてないわけじゃないだろ。お前はそれでもそんな事が言えるのかよ」
激情が巣食う中、それを押し殺した呻くような声で問う。
しかし、叔父は何も答えない。また、表情からは彼の感情の機微を捉える事はできなかった。
視線を交錯させたまま時が流れた。部屋を照らす明かりも燃料の燃える音もアルヴァには届かない。
叔父が、不意に視線を逸らす。
「仕事だ。行け」
彼の言葉にアルヴァが振り向く。
その先には、微かに歪な像を結ぶ二つの世界の境界が、奇妙な現実感を伴って存在している。
それは、知らぬ間に現れた。
しかし、アルヴァはそこへは向かわず、再び叔父を睨みつける。
「何をしている。行け」
アルヴァに対して、珍しく高圧的な態度。
「与えられた職務も全うできぬ人間の発言にどれほどの価値があるというのだ。行って来い。話はそれからだ」
数秒経った後、アルヴァは踵を返す。背を向ける直前まで国王を睨みつけた。
そして、世界の継ぎ目へ向かって細い足場を歩く。
「オジキ」
「何だ」
足場を渡り切ってすぐの所で立ち止まると、振り向かずに、問う。
「現行世界暦(現歴)九五年。当時の政権下での最後の立法、”この世界の人間の定義に関する法律”この法律を考えた人間の意見を聞かせてくれ」
「あの法律が無事成立を迎えて良かった。今でもそう思っている」
叔父は、即答した。過去の決定に些かの悔悟も抱いていないという事は瞭然としている。
「――そうか」
矛盾している。
しかし、口には出ない。代わりに、嘲笑するような、シニカルな笑みを浮かべる。その表情もすぐに消えた。
「”俺も”、――お前を許しはしねえ」
肩越しにそう吐き捨てると、叔父の反応も待たず頭を正面へ向け直す。
眼前には、向こうの世界への入り口。
先日の事がまだ後を引いているのだと、はっきりと意識させられた。そして、昨日も呼び出しがあった。再び彼と会う事になる可能性は高い。
しかし、半ば勢いに任せるようにして、アルヴァは境界を越えた。