代行と副代行
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ドラマと呼べるような出来事など、そうそう起こるものではない。当人以外の誰もが予想していた結果が訪れた。
最終試験が行われ、何の意外も想定外もなく、ジャンヌが最も優秀な成績を修めた。
「わかるまではわからない」が常の彼女は手を抜かない。彼女とたった一つの席を争う者にしてみれば、それは絶望だっただろう。
そして数日後、こちらもまた当たり前のように彼女は被召喚士代理に選ばれた。
アルヴァも無事卒業する事が出来たので、あの日の取り決め通り被召喚士副代理に就任した。
そうして彼女らは卒業を迎えた。
代理になるのは諦めたが、国王に言われるまでもなく卒業だけはしようと決めていた。被召喚士代理というたった一つしかないポストに就くのは困難でも、卒業する事自体はさほど難しい事ではない。だから、卒業さえできなければ落ちこぼれの烙印を捺されたも同然である。
本当は彼自身はそれすらも厭わなかったのだが、そうなれば多分悲しむ、そんな人が居たと思う。
だが、ここからは何の目標も起伏もない生活が始まるのだろう。何の引っ掛かりもなく、ただただ日々を漂って行く。それが良い事とも悪い事とも思わない。どういった意図でジャンヌが自分にこんな仕事に就くよう進言したのかはわからないが、彼女がこちらの世界に帰って来られなくなるというのはやはり考えにくい。
そこから、アルヴァはジャンヌとの事を考えた。彼女と会う事のない生活というのは一体どんなものなのだろうか。
被召喚士代理の彼女は、例年通りその期間が過ぎるまで王宮の一室に居を構える事になったが、副代理である自分はこれまで通り自宅で生活する事となった。最終試験のすぐ後に開かれた副代理に関する細かな打ち合わせで「王宮に住まぬか?」と国王に尋ねられたが断った。彼と同じ場所で生活するなど彼には考えられない。(余りにもあからさまに態度に出ていたのか、それを見た取り巻きが激昂した)
少なくともこの一年間は自分がジャンヌと会う事は無いだろう。二人が出会って間もなくして、アルヴァにとっては学校に行くという事は彼女と会うという事に限りなく同義になっていた。
自分は、そんな日常が失われる事を寂しいなどと思うのだろうか。それとも何も感じないのだろうか。思い出は美化されるのだろうか。それとも風化するのだろうか。
卒業式を終えた日の夜、ベッドの中。そんな事を考えながら知らぬ間に眠りに落ちた。
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その次の日。
「旧世界歴一八九一年。この頃には既にこの世界と接触していた黄金の夜明け団の泡沫派閥の一つであるウッドマン派は、その秘術を狙う最大派閥メイザース派に追われ、スコットランド国境付近の名もなき小さな村に逃げた。ちょっと? 話聞いてる?」
「聞いてるって、うっせえな」
アルヴァとジャンヌは王宮内にある図書館に居る。
おっかない司書は居ないため、勉強する環境としては悪くない。それはジャンヌにとっての事であり、あまり勉強するつもりがなかったアルヴァにはどうでもいい事だった。
ならばなぜ彼がこんな所に居るかと言えば、それは彼女のせいである。
学校に行かなくなったのですっと眠っていた所を、家の中に乱入して来たジャンヌに襲われた。具体的には家の壁が数枚、ベッドとシーツを消滅させられた。
ベッドの高さ分の、寝覚めにはうってつけの自由落下で全身を床に打ち付け、眠気は完全に吹き飛んだ。
「勉強、するわよ」
そう言って横たわっている彼を上半身だけ起こすと、手を取ってそのまま外に連れ出そうとした。
「待て」
落下の衝撃であらゆるものに抗う意志を喪失した彼は、最低限のプライベートだけは保証させて着替えを済ますと、再び手を取られ、彼女の為すがままにここまで連れて来られた。消滅させられた物だけはしっかりと復元させた。
「なんで勉強なんかしなきゃなんねえんだ? 勝手に目が覚めるまでは寝るつもりだったんだが」
そうして今に至る。抗議のタイミングが酷く遅いが構わなかった。せめて言うだけの事は言いたい。
起床して幾らか時間が経ってようやく抗う意志は取り戻したが、帰るという選択肢はなかった。結果、ただ文句を言っているだけになる。
「被召喚士副代理がそんな自堕落な生活しちゃダメよ。ていうか既に自分が副代行って事忘れてるでしょ?」
「忘れるも何もお前が居るんだから俺には何もする事がねえんだよ」
「私がいなくなった時どうするのよ? 学生時代散々サボってたあなたがそのままあっちの世界に行って、向こうの人に馬鹿にされたらたまったものじゃないわ。あなたこの世界を代表してるのよ?」
「代表してるつもりなんかねえ。だいたい好きでなったんじゃねえし」
「ふーん?」
友の反応に妙な焦りを覚える。
「馬鹿だとか散々なこと言いやがって、なら最初から俺を選ぶなっての」
故に話を紛らわせた。
「だからこれから馬鹿じゃなくなるのよ」
「……無理だよ」
紛らわせたつもりがこの様である。
「そんなのあなたが決める事じゃないでしょ? 『馬鹿のままでいい』じゃないんなら私がいるから、ね?」
ジャンヌは諭すように優しく言葉を紡ぐ。
こういう所も自分より何枚も上手であると常々感じている。
「……朝は弱いんだ。あと一時間は寝かせてくれ。それと週に二日休みをくれ。あと」
アルヴァには世界間の偏見をなくしたいという思いは確かにある。向こうの世界に行くかは定かではなくても、こちらの世界でそういった考えを広める為の活動もできなくはない。そのためにも勉強は必要である。そんな事を考えていた時期があった事を漠然と思い出させられた。
「随分と優雅な要求ね。まあいいわ。あと?」
「人の家に勝手に入って来るな。俺が通報したらお前こそする事がなくなるだろ」
被召喚士代理任期中に罪を犯せば、その肩書きを失う。無知なのは仕方ないにしても、犯罪者を旧世界に送り出すのは喜ばれた事ではない。
「かしこまりましたー」
ジャンヌは殊更嬉しそうに口角を吊り上げた。
「……いつまで続くかわからないぞ?」
そんな彼女を見ていると、何だか心がこそばゆく、言うつもりもなかった言葉が不意に口から出た。
「私を犯罪者にさせないでね」
「うるせえ」
そうして勉強は再開された。
友と会う事のない生活というのは当分味わえそうにない。
↓
不意に出た言葉とは裏腹に、勉強が始まってからおよそ五ヶ月経つが、彼女との約束が守られなかった日はなかった。もちろん、彼女に犯罪行為も働かせてはいない。
もっとも、犯罪行為に関しては、勉強会が始まってから間もなくして彼女が王宮からの外出を禁じられたので、根本的に起こしようがなくなった。
いつもの図書館。座る席は特には決まっていない。日ごとに違ったり同じ席になる時もある。
「憑素って何かしら? 今の所わかってる事だけでいいわ」
「おう、あれだ、俺たちが普段使ってる”物体を生み出したり消滅させたりするのに必要な物”だろ。空気中にあるが肉眼では見えない。空気中以外では俺達の様に発達した脳を持った生物の中にしか存在しない。そう言われてる」
「そうね。もうちょっと踏み込むと、憑素っていうのは初めのうちは元素っていう説が主流だったんだけど、それじゃ説明がつかないことも多く、最近ではすごく小さな生き物っていう説もあるみたい、むしろそっちが主流になってきてるみたいよ」
「へえ、そうなのか」
「王宮を出て少しした所に研究施設があって、勉強が終わった後にたまに見に行くのよ。そこで色々と話を聞くの」
「へぇ」
「何でも最近、発現能力を減退させる植物の研究が盛んなんだって」
「おぉ」
音と音の切れ目に音を挟む作業をしているようなアルヴァの生返事。
「成果も結構出てるみたいで、その研究が実用されたら暴徒の鎮圧なんかに利用できるかもしれないって言ってたわ。そうだ、この後研究室に付き合わない?」
「やだね。遠慮する」
アルヴァの厄介事を察知するセンサーはしっかりと作動していたようだ。
「えぇー、面白くないなあ」
「面白くないんならわざわざ見に行くなよ」
「そうじゃなくてぇ。一緒に行きたかったなー」
アルヴァも興味はあったが、行くなら一人で行く。ただ、やはり王室の息のかかった連中とは余り関係したくない。
「研究施設デートなんて一体何が楽しいんだ」
「え? デート?」
それまでの不満げな表情を一瞬で改め、笑顔で聞き返す。実にわざとらしい。
アルヴァは一瞬だけ「しまった」というような顔をしたが、そこからの対応は実に良かった。
「旧世界と現世界の違いはこの憑素っていう存在の有無が全てだろう。今度は俺の番だ。ならば憑素とやらを用いて物体を出現させたり消滅させたりする発現という行為。その限界は何だ?」
すかさず本題に戻る。この場合、話を逸らしたのではなく勉強という本来の目的に回帰するという大義名分を得たため、彼は後ろめたさなど些かも感じない。
ただ、彼女の言うデートとという響きに少し考えてしまったのも確かだ。
「うぅ。自分の知ってるもの以外は無理。あと生物の構造や機能を変えてまで何かしらの能力を与えたり奪ったりするのも無理」
まじめに勉強するアルヴァの姿勢に不満の意を表すという矛盾。勉強するように仕向けたのは彼女の方だった。大義名分とはかくも偉大であるとアルヴァは考えた。
靴や衣服といった物はそのつくりが単純で、また再現するのに正確性も要求されないため、出したり消したりで用が足りる。
だが発現させるのが書物となると話が違う。一ページ一ページ、一言一句に到るまで理解・把握・記憶出来て初めて書物を発現させる必要最低限の条件が揃った事になる。幾ら見た目を精巧に発現できた所で、それだけでは書物としての用を為さない。
また、旧世界から持ち込まれた物品のうち、本来の目的に用いられるレベルの物が発現できたという例は殆どない。
「お前がそう言うんなら正解なんだろうな」
「何よそれ。そんなんじゃスルーされたのに何だか納得いかないわ」
「回答者に納得なんていらねえよ。出題者を納得させる答えを考えろって」
優越に浸ったような物言い。その上で「まあ納得してんだがな」と付け加える。
「ふんだ。私の番」
少しすねている。
「現世界と旧世界の違いは分かったわ。ならばその二つが交わるのはどんな時?」
「半月から満月になる直前までの夜。両方の世界がそうじゃなきゃだめだな」
「そうね」
「それにしても任命されてもうすぐ任期満了になるけど一向にお呼びがかかんねえな。毎年こんなもんなのか?」
「代理になってからは任期中にだいたい三、四回はあるみたいだけどね」
「このままだと俺の肩書きが無駄になるどころかお前だって興味のある旧世界に触れられないまま満了だな」
「このままだったら、ね」
ジャンヌは感情の移り変わりが早い。先ほどまで不平をこぼしていた彼女は、少なくとも表面上は元通りになっていた。
「でも流石に任期がそこまで来ちゃうとあっちの世界にあんまり触れられないわね」
「で、任期迎えたらどうするんだ?」
「うーん、まだ考えてないわ」
「まあお前が何も考えてなくててもお前を放っておくほどこの国も馬鹿じゃねえだろ。家には帰るのか?」
「それもまだ」
これまで色々な情報を交換してきたが、自分の家族の事はジャンヌなら――もっとも、彼女に限らずこの世界の人間なら――知っている。しかし、自分は彼女の家族について詳しくは知らない。
彼女は自身の家族について多くを語らない。何度か家族の話になった時がある。しかしその度に、彼女の吐き出す言葉、その際の総体的な印象、ほんのわずかな機微から、良いようには思っていないというのは何となく伺い知れた。だから、毎回これ以上話を聞いてはいけないような気になって次が出せない。
考える事はあるが、如何な事情に触れようと、自分にとって彼女は今まで通りに彼女なのだ。そして、出会って以来ここまで来たからには、今後も彼女とは関係していくのだろうという受動的、あるいは能動的な思いがある。
「ちょっと休憩にしましょうか」
頃合いを見計らって彼女が言う。
そして、彼女は何かを包んだ紙を机の上、二人の間に置いた。
両手で覆う事が出来るぐらいの大きさのそれは、アルヴァがここに来た時から既に机の片隅に置かれていて、ずっと気になっていた。気にこそなってはいたが、なぜかそこに触れればよくない事が起こるという確定的な予感があった。だから今までずっと、それを無い物だと思っていつも通りにしていたのだ。
彼女はその包み紙を開いて言った。
「今日はクッキー焼いて来たの」
薄茶色をした丸い、クッキーと呼ばれた物が姿を見せた。
この図書館も原則として飲食は禁止されているが、紅茶に茶請けという程度ならば平然と飲食しようとも注意する者が誰もいないため、時々こうして休憩する時がある。
「焼いて来た!?」
頓狂な声を上げる。この世界に住む者にしてみれば、彼女の行為こそ頓狂そのものだと言えるからだ。
いつの事だったか、学校の図書館で彼女がクッキーのレシピを探していたのを思い出した。しかし本当にやってのけるとは。
クッキーを食べたいなら、焼かなくても自分の力で発現させれば用が足りる。
「材料はともかくオーブンはどうしたんだよ? あんなでかい物」
だから、材料も調理器具も揃っている家庭は無いに等しい。
発現可能な条件の一つ、自分の”知っている”ものとは、単に見て知っているだけでは足りない。また、大きい物、密度の高い物ほど発現の難度も上がる。
「出したわ」
「……」
さらりと言う彼女に絶句する。完成したものを発現させるにしろ、部品を少しづつ組み上げていくにしろ、これらの条件をクリアするのは容易ではない。
オーブンと呼べる程度の大きさの時点で彼には出す事が出来ない。彼以外の人間にしてみても、まともに機能する物を発現させるとなると、出せる人間というのはかなり限られる。
「材料もできる限りは憑素以外から調達したのよ」
彼女の言葉に酷く訝しげに眉を寄せる。予感がじわじわとその鎌首をもたげ始める。
彼女の能力は素直に賞賛に値すると言える。
ただ、雲行きが怪しい。
「卵と牛乳と小麦粉は発現させるしかなかったけど、バターはちゃんと牛乳から作ったのよ。小麦粉も自分で挽いたわ。あ、だから臼も出したわね」
更に明確な不安が沸き起こる。
「……砂糖は?」
「楓の木――」
「わかった」
たまらず遮る。恐らく楓の樹液をどうにかして砂糖を作ったのだろうが、そんな事聞きたくない。
「……わかった」
繰り返した。改めて見る眼前のクッキーは、ひびが入っていたり形が崩れていたりと、悪い部分にばかり目が行く。
「お前が旧世界に強い興味があって、そっちに倣ってクッキーを作ったのはわかった」
そう言ってアルヴァは目を閉じ数秒、目を開いて、言った。
「それは、食えるのか?」
「さあ」
「は?」
「だって、まだ食べてないもの」
「お前……試食してねえのか?」
「そうよ。人を呪わば穴二つって言うでしょ?」
「そんな言葉どこで学んだんだよ! てめえの自爆なんだから穴は一つでいいだろ!」
使い方を著しく間違えている。意図的に間違えているのかもしれないし、本当に間違えているのかもしれない。
「何よ、そんな言い方しなくたって。だいたいまだ自爆だなんて決まったわけじゃないのに。いいわよ。百歩譲って私が先に食べてあげるから」
「百歩も譲らなきゃ先に食うつもりすらねえのかよ……」
「もう……。人がせっかく作ったものを何だと思ってるのよ」
そう言う彼女の態度は、冗談めかしているのか本気で怒っているのか、アルヴァはどうも判断に困る。ともかくそんな不平をこぼしながら、ジャンヌはクッキーを一つ口に取る。一口大のクッキーを半分ほど齧り、ゆっくりと噛み砕いた。
「ヴ」
友は小さく、しかし確実に唸った。
「………………おいしい」
「何だその間は」
よく見なくとも涙目。それでもアルヴァは容赦ない。
なぜなら。
「何でもいいじゃない。さ、次はあなたよ」
彼女の言う通りだからだ。
「俺は食わねえぞ」
当然逆らう。
「卑怯よ」
「馬鹿言えそんなわけがあるか。お前が勝手に作ったんだろ」
「おいしいから、ほら」
「説得力がまるでない」
「被召喚士代理が被召喚士"副"代理に命じます。食べなさい」
あろう事かパワーハラスメントで以て訴えかけて来た。加えて彼女の目は、据わっている。
「クソ……」
彼女がこうなるとアルヴァは本当に弱い。観念して便宜上クッキーと呼ばれている凶暴な何かを一つ手に取り、眺める。
「さあ」
どれぐらいそうしていたのだろうか、友が催促する。
それでも尚少し粘った後、三分の一だけ齧った。
↓
翌日。同じく図書館。
「なあに? 今日も集中力が欠けてるの?」
「今日のは昨日のアレのせいだ」
「そんな事ないわよ……たぶん」
"たぶん"と、小さな声で付け足す。アレでわかる程には自覚があるのだろう。
昨日。ジャンヌが勝手に決めた不公平なノルマをお互いどうにか食べ終え、紅茶で口内から胃までを洗浄して終わったティータイム。洗浄しただけでは解毒はできなかった。
前兆は前日の勉強会が終了に差し掛かる辺りで既にあった。そしてそれは、夕食を食べ終わった後に本格的に暴れ出した。細菌・ウイルス・その他何かしらの物質。具体的にどういったものが原因となったのかは謎だが、とにかくそれは猛烈で、アルヴァを一晩中苦しめた。
「どうしてクッキーを食っただけで腹が壊れなきゃならねえんだ。今度からクッキーを手作りするなら一緒に解毒剤も作れ」
「失礼なこと、言うわね。体調崩したのはあ、あなただけでしょう」
昨日の夜毒クッキーの猛威に襲われた事は頑として黙殺する。その上でそんなことをいけしゃあしゃあと言ってのけるジャンヌ。しかし、その努力虚しく、上ずり尻すぼみな声のせいでアルヴァにある程度の内情が漏れている。隠し通せている風な彼女が滑稽で、散々な目に会わされたにもかかわらずそれが薄らぐ。
予後も悪くなる事は無いだろう。この一件は水に流そうと思えた。
「お前俺があの後で何ペニー使ったと思ってんだ?」
だから、おどけた調子で軽い洒落を利かせた。割とうまいこと言ってやったのではとアルヴァはやや得意気だ。
「? ペニーってお金でしょ? そんなのどうして使うの?」
しかし無情にもジャンヌには伝わらなかった。「お前頭いいんだからそれぐらい察しろよ」と、心中、彼にしては極めて理不尽な事を思う。
「い、いや、昔々spend a pennyって慣用句があってなっ。トイレに行く、って意味で。つまり何回トイレに行ったと思ってんだって聞いてんだよ……」
洒落もクソもなく普通に言い直した。アルヴァ、焦る。ちなみに不必要なものは消滅させればいいこの世界でも、花を摘む際にはトイレを利用する。
「昔の話でしょ。今の時代にそんな事言われても……」
洒落が伝わらなかっただけならまだしも、それを説明するという何とも恥ずかしい行為に出た。下手なフォローのために傷が更に広がった事に今更気付いた。
「次からは食べても体調を崩さないクッキーを作ってください」
結果、どうしようもなくストレートな訴えが口から出た。敬語だ。
「うーん。そうは言っても、砂糖は自分では作れないもの」
「作れない物は出せって。じゃないと昨日みたいに変なモノ食べたら対処ができねえ」
健康な状態の現世界人が、誰かが発現させた物が原因の中毒症状を起こすという事はありえない。どんな物を食べたのであれ憑素から作り出した物ならば、中毒の原因となる物質は体内を巡る憑素による恒常性維持機構の働きで分解される。この作用は未だ仮説の域を出ないが、発現させたありとあらゆる毒物を取り込んだ所で症状が発生しないというのは実証済みだ。
しかし、この作用が機能するのは、あくまで憑素から直接出されたものに対してだけで、今回のように材料から作られたものには効果が著しく鈍くなる。
全く同じ毒クッキーでも、発現させた物ならば、味はともかく腹痛に苛まれることはなかっただろう。もっとも、発現させるならまともな物を出すだろうが。
もし原材料が、家畜を育て、畑を耕して得たもので、それを彼女が加工すればその脅威は更に増すだろうとアルヴァは戦慄を覚えた。
「はあ……。お前どうやって作ればあんなのが出来上がるんだ? レシピ通りにすればあんな事にはならねえだろ。そして樹液だけに罪をかぶせるな」
それだけで半日体調を崩すのならば、楓の樹液とは十分毒薬になりうる。
「その話はもういいから、続けようぜ」
「……そうね。次はあなたの番」
「そうだな……」
易かろうが難しかろうが、何を問うた所で完璧な答えが返ってくるのはわかっている。
↓
「リベンジしてきたの」
「え? やめてよ……」
昨晩は自分だって体調を崩していたはずなのに、もう新しいのを作ったのか。
「何よそのリアクション。そんな本気で嫌がらなくてもいいじゃない。砂糖は諦めて自分で出したし、味見もしたけど今回は食べられなくはなかったわよ」
そういって例の包み紙を机の上、二人の前に置いた。
昨日の今日でまた食べる破目になるようなことはないという謎の慢心でその可能性に気づけなかった。
見るだけでみるみる顔色が悪くなるアルヴァにジャンヌは気付いた。
「よっぽど酷かったのね……色々とショックだわ……」
「ええぇ……」
天才と何たらは紙一重。これまでも彼の想像を甚だ絶するような事を散々やってきた彼女。その度そのとばっちりを食らうアルヴァ。今回も酷く硬直している。
「いいわよ。今は食べなくていいわ。でも食べたら感想聞かせてよね?」
「……おう」
どうにか返答。
「じゃあ今日はあなたが好きな物出してよ」
↓
この日の授業はかなり散漫なもので、それでもそんなことを時間が考慮するはずもなく、定刻は訪れた。
先代の被召喚士代理達は何をするにしても王宮内で全てが完結していたので、これまで王宮の外へ出るのを禁止する必要がなかった。それが彼女の就任によって、そういった決め事を設けざるを得なくなった。
それ以来、彼女が彼を敷地のギリギリの所まで見送るというのは、いつもの風景だ。
「――――――!!!!」
その途中。いつもの事ではない音声が、斜陽の空に響き渡る。
「「うるさい! 黙って歩け!」」
追って、それを怒鳴り付ける声。声の主である男は抵抗も不毛に、二人の近衛兵に両脇を掴まれどこかへ連行されて行く。
「? 何だ?」
王室に怨嗟の言葉を投げかけているようだが、どうも興奮しているらしく、ただの単語の羅列のようになっている。
この世界の人間はその全てが王室に対して肯定的というわけではなく、彼の様な存在も居る。
当のアルヴァも王室、というよりは現国王に対して否定的な態度を示す事はよくある。しかし否定派を実際に目にするのは初めての事で、そのあまりの光景に面食らっている。
「また何かしでかしたのね」
「一体何をしたっていうんだ?」
アルヴァはは現在王室派政権という根拠だけで不当逮捕を連想した。別に彼女に何を問うたわけでもなかった。
「え? あ……。うーん、どうなのかしら? 現場を見てないから判断のしようがないわ」
それを自分への問いと勘違いした彼女は、彼女にしては珍しくはっきりとしない、奥歯に物が挟まったような物言い。
表情そのものには違和感を感じないが、視線がどこに向かっているのか定かでない。
何かおかしい。その言葉を聞き、彼女を見た途端、なぜか低温でじりじりと焦がされるような鈍い痛みを胸に感じた。わからない事がたくさんあるが、この痛みは彼女に関連する反応だという事はなぜか疑う余地がなかった。
「?」
「……ああ、そうそう」
彼女は手に持っていた物を差し出す。
「はい」
休憩の時に食べるはずだった例の物だ。
アルヴァの疑問は、彼女が差し出した包み紙に完全に遮断された。昨日の毒クッキーの思わぬ効力か。
「う」
少したじろぐ。この頃には否定派らしき者の声も聞こえなくなっていた。
「もぉ、今回のはきっとおいしいわよ。ね、受け取ってよ。私からの餞と思って」
アルヴァは覚悟してそれを受け取る。
それと同時に思い至る。
「餞って、どうせすぐ帰って来るんだから。それに渡すなら普通、俺から渡すんじゃねぇの?」
「あなたにそんな甲斐性がないからこんな事してんでしょ?」
「ふん。うっせえよ。大袈裟な」
手痛いカウンターを食らい、アルヴァは顔をしかめる。
「それ食べた感想を餞っていう事にしてあげる」
「そうしてくれ。それぐらいでちょうどいいだろ、どうせすぐ帰って来るんだから」
そんな事を言っているうちに宮門のすぐそこにまで来た。
風は殆どないが、庭に咲いた種々(しゅじゅ)の花の香りが微かに鼻腔に届く。
「じゃあ、私ここまでだから。また明日ね」
「おう、また明日な」
アルヴァは敷地の外へ歩き出した。
「私に逢いに来てねー!」
どれくらいか歩いた所で、背後から大きな声が聞こえて来た。振り向くと、ジャンヌが敷地のギリギリの場所から随分と大げさに手を振っていた。
「おう!!」
いつもはしないやり取り。
これまでは門を出たら一度も彼女の方を振り向いた事がなかったなと、返事をした後に思い至った。
彼女はもう遠くに居る、表情も何も捉えられない距離。
「クッキー食べた感想、とびきりのを期待してるわ!」
「それはこいつ次第だ!」
問題の物が入った包み紙を頭上に掲げ、軽く二回ほど叩く。
今度こそ最後の挨拶を終え、再び彼女を振り返る事なく帰路に就いた。
西へ向かう陽の光を浴びた木々の射す影は次第に伸び、あと数時間もすれば夜が訪れる。
↓
その日の夜。アルヴァは夕食を終えると、机に向かい、この日の授業を振り返っていた。
「あれ? 今日これだけしか進まなかったのか?」
ボロボロになった参考書を操り、余りな進捗具合に思わず一人声をあげる。
「まあ、それもそうだな」
深く考えない事にした。深く考えずとも、目の前に今日の結果を連想させる包み紙が置いてある。
図らずもそれを視界に捉え、そこはかとなく憂鬱になりつつも、今日進めるつもりだった箇所を自分でやっておく事にした。
勉強会では数ある学問の中、特に旧世界関連科目や憑科学に重点を置いて学習している。
旧世界文化は、その名の通り彼らの祖先がかつて住んでいた世界についての学問全般の総称で、旧世界各国の文化や宗教や法律、歴史や政治や経済や産業、気候や生活など、被召喚士代理となり旧世界人と交わる可能性がある以上、子細に渡り熟知しておく必要のある分野である。
憑科学とは具体的に、憑素について、憑素を観点とした旧世界人と現世界人の違い、憑素が人体に及ぼす影響など、現時点で正しいとされている事実を基に、可能な範囲で体系化された学問である。こちらは旧世界関連科目以上に熟知しておかなければならない。
総合的に見て優秀でない成績で卒業した彼だが、この二つにおいては、ジャンヌには及ばないにしても学年トップクラスの知識を持っている。彼の場合、座学では決して得られない生きた経験がある。そういう事もあって、今日の勉強は殆ど確認のようなものだった。
アルヴァは手元に置いた憑科学の参考書のあるページを開けた。余程使い込まれたらしい形跡を残す参考書だったが、このページは特にそれが顕著だった。
現世界人と旧世界人とが共存するにあたり、何としても警戒しなければならない事がある。
即ち、慢性憑素中毒症。通称。
――――狂人病。
単純に言えば、耐性を持たない者に憑素が蓄積され、それが様々な症状を引き起こし、最終的には死に至る病である。
憑素中毒は耐性を持たない者の体内への侵入の程度によって、大まかに急性と慢性に分けられる。
急性憑素中毒症は、例えば現世界人が旧世界人に召喚された際に、召喚者の態度や願いの内容が癇に障った時などに頻繁に利用される。ある量の憑素が一瞬で流れ込む事により失神するとされている。流し込む量が多過ぎればこちらも死ぬ場合がある。
対して慢性憑素中毒症は、意図的に流入させずとも、近い距離に居るだけで、耐性を持つ者から持たない者へ、微量ながらも自然と憑素の流入が起こり、それが過剰に蓄積することで発症する。
「『慢性憑素中毒症は狂人病と呼ばれている。これは末期になると全身に激痛が襲い、その余りに耐え難い痛みにのた打ち回る様が、まるで狂人のようである事からそう呼ばれるようになった』」
一人言葉を紡ぐ。
「『年齢、性別、体格やその他の要因にも依るが、初期症状の発症から最短で三か月後、最長でも二年後には死に至る』」
ページは開いてこそいるが目は閉じたまま。一言一句はっきりと覚えている。
「『なお、最長で二年とあるが、このケースに関しては他と比べて明らかに期間が異なる上に、年単位となるとこの一例しかない。加えてその症状からもこれ程の長期間に渡り耐え続けたとは考えにくく、最長の期間を次点の半年程度とするのが妥当という考えもある』か」
ため息を吐いた。
一人暮らしが始まって、自分の身の回りの事を自分の能力のみでこなすのも慣れた。ただ、時々こうして、普段は決して意識しないない孤独を感じる事がある。
そんな孤独感から逃れようとする時は、決まってある誰かの事が思い浮かぶ。
帰り際の事。あの時の彼女の表情。ほんの一瞬だったのに鮮明に思い出せる。あんな彼女を見るのは初めてだ。
感情の切り替えが早い彼女なので、気に病む方ではないのではないかとずっと思っていた。そこからふと思う。
――切り替えられた、いや、切り捨てられた感情は、一体どうなるのか。
――彼女は本当に大丈夫なのだろうか。
そこまで考えて、アルヴァは何とも気恥ずかしくなる。
どうにも集中できない。何だか悔しい気がするので、その理由は考えない。
「あいつの事なんて俺が知るわけねえだろ」
この家には自分以外には誰も居ないのに声に出す。
何かから逃げるように視線を彷徨わせると、例の包み紙に辿り着いた。
「やっぱ、食わなきゃなんねえよな……」
逃るわけにはいかない。彼女は感想を聞くと言ったのだ。
食べた事にして当たり障りのない適当な感想を吐けばいいとも考えはした。数日前、これと似たものに散々な目に会わされた。それなのに、なぜか答えを出すのにさほどの時間はかからなかった。
食べる。
しかし、答えを出すのと、それをいざ実行するというのは別の問題である。
アルヴァはそれを手に取り、しばらく見つめる。ずっとそうしていると腹の具合が悪くなったような感覚に囚われ始めたので、自身の覚悟が揺らいでしまわぬうちに、口の中に一息に放り込んだ。
「……うめえじゃん」
ニュートンの林檎のように、自然と言葉が落ちた。酷く肩透かしを食らったが、腹を下すより遥かにいい。
「あぁ、うめえわこれ。いや、マジで」
むしろかなり口に合ったらしい。そんな独り言を垂れこぼしながら、あれだけ食べるのを躊躇していたものをものの数分程度で全て食べ終えた。