主席と落伍者1
今朝からの曇天は、昼になる前には雨を降らせた。窓越しにでもわかる雨足に随分と気が滅入る。校舎を叩く音が、耳に障る。
雨そのものを嫌っているわけではない。雨の日、雨音を聞くと、あの日を思い出す。
自然と歩く速度が上がる。早く紛らわしたい。
休み時間。アルヴァは授業をサボって図書室に向かうことにした。彼のクラスの次の授業は「旧世界文化」だ。 彼がまじめに授業を受けなくなって久しいが、それでも教室を抜け出すのはこの「旧世界文化」の時だけだ。
落ちこぼれの自分が被召喚士代理になる可能性など万に一つもないだろう。だから、授業で旧世界の人間について学んだ所で、それらは無駄にしかならない。
アルヴァのクラスから図書室までは少しばかり距離がある。階段を下り、踊り場に出る。窓を閉め忘れていたらしく、木製の床には水たまりができている。
雨足は割と強い。窓を閉めて階段を下る過程で随分と濡れた。雨水の湿気や体に貼り付いた衣類が鬱陶しい。
廊下を十数歩歩いた所で立ち止まると、最初からこうしていればよかったと若干後悔しながら何かを念じる。すると、アルヴァに纏わりついていた雨露が一瞬にして失せた。
やはり雨の日は嫌になる。
わざわざ図書室に行かなくても、ただ時間を潰すだけならば場所などどこでもいいのだが、彼が避難先にあえてここを選んだのには思惑がある。
図書室の前まで来た。ドアを開け、中に入る。
カウンターには司書が一人。名門校とはいえ、蔵書は決して多くはない。この世界自体に本というものがまだまだ少ないのだ。
室内を見渡す。授業で利用している学生などが多く居だが、すぐに目当てを見つける。
「最後の試験が近いのに授業はどうしたんだよ」
近付いていって声をかける。
アルヴァの思惑通り。一人の生徒が椅子に座って、熱心に本を読んでいた。
旧世界について書かれた本。
授業をサボタージュしてまでそんな事に興味を示す人物など、この学校、いや、恐らくはこの世界では彼女以外には居ないだろう。
「そういうあなたこそこんなところに何の用?」
彼女、ジャンヌ・ホロスは彼の声に気付くと、どこか楽しそうに答えた。
色素の薄い艶の豊かな金髪は肩まで伸び、降り積もった雪の様にやわらかそうな白い肌、目鼻立ちははきっりとし、トロンと垂れたような目に、ピンと張り勝気さを思わせる眉。瑞々しく形の良い唇。それらが小さめの顔にこれ以上ないという絶妙な配置で在る。
姿勢もよく、初めて彼女を見る者でもその雰囲気から聡明さを感じ取る事が出来るだろう。容姿端麗が服を着ているようなものだ。
違うクラスで接点は全くなかったのだが、"たまたま"知り合って今に至る。お互いに授業をサボり偶然を装うようにして顔をあわせた際のこうしたやり取りが、一種の約束事のようなものとして定着するようになってから、幾らかの時間が経つ。
「お前、出席大丈夫なのか? いくら優秀だっていっても、こればかりはどうにもならないだろう」
「さぁ? ま、どうにかなるんじゃない?」
我が事でありながら、余りにもあっさりとした答え。
「今年の最有力候補なのに『出席不足でなれませんでした』なんて洒落になんねぇぞ?」
とは言ってみたものの、彼女の場合、本当にどうにかなるのだろう。
「でも、ほら。授業に出てなくてもこうやって勉強してるから大丈夫よ」
そう言って、熱心に読んでいた本の背表紙を彼に見せ付けた。旧世界で一般的に食べられている物に関しての本だった。
「どんな屁理屈だよそれ」
呆れたというような顔でそう言うと、友の向かいの椅子に腰を下ろす。
「あなたが来るの、待ってたのよ」
「……ふん」
何ともつれない返事。彼としても彼女に会うのが目的でここに来ているのだが、ストレートにそう言われると何やらむず痒い。
そんなアルヴァを尻目に、彼女は目を瞑り(つむり)、黙って何かを念じた。
彼にとっては、完全に不意打ちだった。
そのほんの一瞬後の事である。何の脈絡もなく、机の上には二人分の紅茶、そして、茶請けらしき菓子類が現れた。今までそこになかったものが、突如としてそこに存在した。
発現。この世界の人間が日常的に用いる能力。彼女が行ったように、念ずればその念じた物体を現実に存在させる力。
旧世界では、漠然と”魔法”と呼ばれている力。
アルヴァにとっての不意打ちとは発現そのものの事ではなく、彼女がそんなものを発現させたという事だ。
「バカ! お前図書室でそんなもん出すな!」
図書館では飲食は厳禁である。
不意のことでつい大きくなってしまった彼の声に、この場にいた殆どが反応する。
方々から視線を感じた。中でも一際強い視線。背中越しでもわかる恐怖。
「一体、何を出したというのかしら?」
作業をしていた司書が尋ねる。
「い……いえ。なんでもございません」
誰に言われるでもなくアルヴァは立ち上がり司書の方に向き直ると、神妙に気を付けの姿勢を取った。
「図書室では静かに」
「す、すいません。気を付けます」
アルヴァが深く頭を下げて謝ると、司書は作業に戻った。たったそれだけのやり取りなのだが、アルヴァにとってみれば酷く神経をすり減らしたような気分だった。
"司書は怒ると怖い。生命に関わってくるレベルで怖い。彼女以上に怖い人間はこの学校には居ない"それがこの学校で本人以外の共通の認識である。
アルヴァは着席すると恨めしそうにジャンヌを睨む。
ジャンヌが発現させた物は、司書の位置からではアルヴァの体で死角になっていたため、彼が声を出さなければ怪しまれるような事もなかった。そして、注意したのに睨まれるというのはとても理不尽だ。色々な意味で損な立ち位置だと思った。
「何よ。あなたがそんな声出さなきゃばれなかったのに」
「まず間違いなくそんなことはない。いいから早く片付けろよ。全く……」
残念ながらその通りだったようだが、それでは余りにもやりきれないので口だけは反論する。
「あ~ぁ、仕方ないなぁ」
ジャンヌは不満を装ったような表情で不満を漏らすと、再び音も動作もなく念じた。
すると、先ほど自身が出したものが机の上から消えてなくなった。何の前触れもなく、机の上は元通りになった。
出した物を消し去る。図書館への道中、アルヴァが体中に付着した水分を消滅させたのと同じ能力。この能力もまたこの世界では誰しもが用いうるものである。
依然不機嫌な顔を崩さないアルヴァ。そんな彼を見つめるジャンヌは、対照的に顔をふっとほころばせて、嬉しそうに笑った。
彼女なりのいたずらなのだろうが、イタズラにしては綱渡り的な危うさが甚だしい。次はもっと気楽なものにしてくれと思った。
とはいえ、イタズラなのだなと思えば不機嫌な自分が何だかバカらしくなってきて、彼もつられて少し笑った。
こういったやりとりでさえも、あるいはこういったやりとりこそ、雨音も、あの日の事を忘れさせてくれる。
別段何をするというわけではない。司書に注意されないレベルのトーンで何でもない事を少々喋ったが、それ以外はジャンヌが本を読んでいて、アルヴァも適当に本を読んでいたり、時々ジャンヌを眺めていたりしているだけで知らぬ間に時間は過ぎる。
「旧世界の、おやつ?」
互いが互いの事で時間を数十分程消費した辺りで、少しの退屈と興味を覚えたアルヴァが尋ねる。
「うん、クッキーを作ろうと思ってずっと前から本を探してたの。ちょうどいいレシピが見つかってね」
「レシピって、材料から作るつもりか?」
この世界で「おやつを作る」とは普通、「おやつそのものを発現させる」という意味だ。旧世界で言う所の魔法というものが極めて密接に生活と結びついているため、いつの頃からか魔法という言葉は次第に使われなくなっていった。
彼らの祖先がまだ旧世界に居た頃、奇跡と謳われた魔法。しかしこちらの世界に来てみればどうだ。魔法など文字通りの日常茶飯事ではないか。日常にありふれた魔法は、科学技術と大差ない。そんなものを魔法(奇跡)と呼ぶ事の白々しさ。この世界には魔法など存在しない。
「ええ、もちろんよ」
「相変わらず変な奴だな」
さも当たり前のようにうなずく彼女に、あきれたように笑う。
「本当は材料も一から作りたかったんだけどね」
「そりゃまた大層な。気合の入れ方が違う」
「憑素のない世界で暮らすのよ? 今から練習しておかなきゃ間に合わないわよ」
向こうの世界でもクッキーを小麦の栽培から始める人間はいないと思ったがどうでもいい事なので突っ込まない。
「その前にまず試験を心配しろ」
どうでもいい事の代わりにする必要のない事を突っ込んだ。
「ありがとう。でも大丈夫よ。こう見えてしっかり試験勉強はしてるわ」
彼女は出席に関しては散々だが、それ以外の評価はトップクラス、ありのままに言うと全ての科目で常にトップである。中でも実技に関しては、一般人どうしの間に生まれたにもかかわらず、周囲からは”淵源の主ウイリアム・ロバート・ウッドマンの再来”と言われるほどである。
彼女はあまりにも優秀すぎて自分を控えめに表現する事がかえって逆効果になる。そのことを決定的に知ってしまったので、他者に対して自分の事は可能な限り客観的に表現しようと努める。だからといってそれを鼻にかけているような様子もない。
「誰がどう評価しても今年の被代はお前だよ」
被代即ち被召喚士代理。この世界では既に日常に取り込まれてしまった能力でも、旧世界と呼ばれている――アルヴァ達の祖先が元居た――世界では正真正銘の魔法である。
旧世界の人々は、途切れ途切れながらも世界中に伝播した召喚術を用いてこの世界の人間、即ち魔法使いを呼び出す。
そして、彼らの力で以て自身の願いを叶えてもらおうとする。
旧世界に召喚され、召喚者に対応するというのは、この世界、この国の王が代々務めていたのだが、十七年前に急遽この役職が設置され、そのまま現在に至る。
呼び出される者の事を、召喚者に対して被召喚士と呼び、国王に代わって職務の執行を代理するという事で被召喚士代理という役職名になった。
被召喚士代理はアルヴァ達の学ぶ王立学校の生徒の中から、選抜委員会によって一名だけ選出される。最高学年である彼らには、近々選出に大きく影響する最後の試験が課される。
「あら? それはわかるまではわからないわよ」
いつもの返事を聞いて彼女のいつも通りぶりを確認した。
彼女の口癖だ。
彼女は徹底的に智者振らない。即ち、未来を予想しない。
仮に未来のある事柄を裏付ける要素が相当数揃ったとする。しかしそれらは絶対的に未来を保証するものではない。彼女にしてみれば、確実に絶対的でない以上そんなものが幾ら揃おうがそこに自身を委ねたりはしない。
なぜ授業をサボっているのかと言えば、誰に教えを乞わずとも自分主体で好きな時に好きな事をすれば、最低でもやった分だけは身に付くというただそれだけの事だ。
だから今こうして――あるクラスが旧世界文化の授業の時は――この場所で旧世界について勉強しているのだ。
「王室なんて何とも思っちゃいねえくせに。どうしてあっちの世界にそんなに興味を持ってるんだ?」
被召喚士代理に任命され、更に一年という任期を迎えた者は、王室と関係することが出来る。
この世界では、物品や金銭のようなものの所有は――せいぜい不動産を除いては――軒並みステータスにならない。
理由として貨幣経済が成立しないという点が挙げられるだろう。”金がなくてもケーキを出せばいい”では貨幣など何の価値も持たない。最初から欲しい物を自分で出せばいい。
この世界で特に重宝されるのは、発現能力の高さ。
そして、王室との距離。
実際、歴代の被召喚士代理は、そのほとんどが、任期を満了した後、国の運営に関して重要な役職に就いている。
また、発現能力の高さは遺伝に依る所が極めて強く、ウッドマン一族と血を交えられれば、その力を受け継ぐ子を授かる事が出来る。
つまり、王室と良好な関係を築く事ができれば、余程の事でもない限りそれはその後の生活が保障されたも同然である。
この学校の生徒は、被召喚士代理任期満了の向こうに待ち構えるこの”特典”のために勉学に励む者が殆ど全てと言える。
アルヴァ達以外にも会話している人間は多い。司書が注意しない範囲でならば雑談も可という暗黙のルールがあるので、図書室にしては少し騒がしい。
毎年この時期の図書室は、自身の能力の限界を知り、選抜される事を諦めた生徒達のたまり場となる。そして自分も脱落者の一人なのだ。最終試験を控えピリピリとした教室とは比べるまでもなく居心地が良い。
「この世界以外の事が知りたいなあって思ってるの。それで一番実現が可能そうだったのがたまたまあそこだったってだけよ」
彼女はそういった点で他の生徒とは決定的に異なる。任期満了後の待遇など二の次、もしかすると眼中にすらないのかもしれない。
「そうなんか」
そう言いながら、なぜか図書室の騒音が自然と意識された。
それと同時。不意に感傷が襲う。アルヴァは考えさせられる。"もし自分が彼女の様に優秀だったら"などという取るに足らない妄執を。
王室との関係こそ求めていなかったが、アルヴァもかつては被召喚士代理になるべく励んでいた者の一人だった。
自分は、この世界の自分以外の人間に比べて能力が圧倒的に劣る。
この現実を身を以て受け入れざるを得なかった彼の前に、代理被召喚士の道は途切れた。
諦めたくなかった。能力さえあれば。
彼女が何かを諦める必要は、ないのだろう。
そんな彼女を妬む気持ちは微塵もない。
「……この前の話、聞いたんだろ?」
唐突に沸く負の感情がそんなアルヴァの喉をそんな風に震わせた。
「まあ、ね」
自分の機微を察したかのように彼女の反応は少し鈍い。
自分の機微を察した彼女の反応を察した。
良くも悪くもそういった間柄である。
先日、現役の被召喚士代理に召喚先での出来事を話してもらうという特別授業があった。本学校の最高学年全クラス合同だったのだが、もちろんアルヴァはその話を聞いてはいなかった。
しかし、彼女の反応を見れば、その授業でもやはり旧世界の人間は良い印象では語られていなかったのだろうと察した。
アルヴァには旧世界の人間がこの世界の人間に悪く思われるのがどうしても許せなくて、歯痒くて、悔しい。
でも、どうする事も出来ない。出来なかった。
元々突発的に出た言葉だ。アルヴァにはそれ以上何か口に出すようなものはなかった。ジャンヌも彼の事を察してそれ以上何も言わない。
自分で呼び込んだものではあるが、この沈黙は先程のものとはまるで別物のように重苦しい。ほんの一時の感傷に引きずられて今を不幸にしてしまう癖は、あの日から今まで治らない。
廊下から聞こえてくるやたらと大きな喧噪によって沈黙は破られた。どうやら授業が終わったようだ。昼休み。仲の良い者どうしで連れ立って、それぞれが思い思いの場所に昼食を取りに出始めた。
図書館の入口付近で顔だけは知っている生徒がジャンヌを探している。
「…………友達待ってんだろ? 早く行けって」
「……うん。アルヴァは?」
自身の能力や興味事のせいで妬まれ疎まれる事の方が遥かに多いが、彼女にはそういった事とは一切無縁の友達もそこそこにはいる。
「俺? いつも通りだぜ」
「わかった」
殊更明るい口調でジャンヌが言う。
「今日は一緒に食べましょう。今から友達に言ってくるわ」
自分が居ない時はいつも一人だという彼を気にかけて、ジャンヌが昼食を誘う時がたまにある。
「人外の子供と一緒に飯なんか食ってると友達に逃げられるぞ」
彼がこんな事を言うのは明らかにいつも通りではない。
「……そんな事、言わ――」
「いいから早く行けって」
珍しく――また、ある状況ではいつも通りに――俯きがちな彼女の言葉を遮るように言い放つ。
「……うん。じゃあ、行くね」
普段は爛漫としていて、感情の起伏が激しいアルヴァをうまく扱っている彼女でも、一たび人外の話になるとその様子には陰りが見える。
彼女は図書室を後にした。
その後ろ姿を目だけで追う。
今まで聞こえてこなかったはずの雨音を再び意識し出した。