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絶望と希望


 桜の時も終わり、季節は梅雨へと差しかかる途中。太陽は町の裏側へと沈みかかっている。


 買い出しの主婦や学校が終わった学生達の喧騒(けんそう)で名ばかりの繁華街が(にわか)(にぎ)わいを見せる時間帯である。


 そんな街並みの一角を担う決して大型とは言えない規模のスーパーマーケット。そこから弾かれるようにして飛び出して来た一人の少女がいた。



 小中(こなか)小陽(こはる)



 彼女は投げ捨てるように買った物を入れたエコバッグを自転車のかごに乗せると、たすき掛けにした通学かばんもそのままにすぐさま帰路を急いだ。


 彼女は学校のある日は、放課後このスーパーに食材を買いに行くのが日課だ。


 寄り道せずに帰るなどという校則はあってなきに等しく、店内には彼女と同じような中学生がたむろしている。


 しかし、他の学生と違って、ダラダラと時間を潰すわけにはいかない。


 雑踏(ざっとう)の隙間を縫うようにして進む。腕時計で時間を確認した。急いで帰ればなんとか間に合うだろう。時間以上に彼女自身に余裕が伺えない。


 気は焦りつつも迷惑にならないようにと注意しながら自転車をこぐ。そうして数十メートルほど進んだ辺りで、表通りから裏通りに入った。


 寂れた個人商店が(のき)を並べておリ、表通りに比べて道は多少狭くなるが、人の数が一気に少なくなる。小陽はすぐさまペダルをこぐ足に力を加えた。


 通行人は少なく、仮に一人や二人居ても大きく避ければスピードを殺さずに行く事が出来る。多少の余裕を取り戻す事が出来た。そのまま順調に進んで行く。


 その矢先のこと。


 やたらと音の通る電子音が聞こえてきた。踏切警報器が列車の通過を警告している。


 ペダルをこぐ足に更に力を入れる。どうしても踏切を渡っておきたかった。しかし、この距離ではそれも困難。それでもこぐ力は緩めたくなかった。


――お願い、間に合って。


 願いもむなしく、踏切に差し掛かる頃には既に遮断機は降りていた。


 強くブレーキを握る。ギリギリまでペダルをこいでいたため、止まる際にバランスを崩して投げ出すように片足が地に着く。自転車の前輪が黄色と黒に塗られた遮断桿に触れる。


 列車が通過するのを待つ。思い出したかのように電子音が鼓膜を刺す音を知覚した。


 時間には余裕を持たせて帰っていたので、いつもならば足止めを食らった所で問題にはならないが、授業が七時間目まであった事といつもよりレジ待ちに時間がかかったという事が重なり、この日はそうもいかなかった。


 二両編成の列車が通過するのにさほど時間はかからない。しかし、間に合わなかった時の事を考えると、その時間はとても長いものに感じられて少女は酷く不安になった。


 遮断桿が上がるのをじっと待った。待つしかない。


 大丈夫、多分まだ間に合う。そう自分に言い聞かせる。


 そうしている間にもこの街の裏側に沈んで行く夕陽は間断(かんだん)なく、まるで焼き焦がすかのように少女を照らし続ける。


 遮断機が上がる。同時、少女は自転車をこぎ始める。


 幸い踏切を越えてからは彼女の妨げになるものはなく、ほとんど速度を緩めることなく自宅へと到着した。


 玄関を上がった所でわずかながらもようやく余裕を取り戻した少女は、現在の時刻を確認する。門限には間に合っただろうか。



「今まで何してたんだよ? 遅かったじゃないか」



 少女が腕時計に目を遣やったのとほぼ同時のタイミングで、声を掛けられた。  


 その声は微かに調子が外れている。その違和感は、明確な狂気を彼女に浴びせかける。


 帰宅した少女にかけられる実の父の言葉は「おかえり」ではない。


 少女は声の主を見る。


 父は落ち着き払っているように見える。しかし、経験的に導かれる、次に起こるであろう出来事に対して、少女の心は色を無くした。そして、削ぎ落とされたようなか細い声で「ごめんなさい」と謝った。



「今まで何やってたんだって聞いてるんだーーーッ!!」



 父は物凄い剣幕で我が子を怒鳴り付けた。



                      ↓



 父が部屋に帰ってからしばらく経つが、彼女はしばらくそのままの格好で動かずにいた。


 左腕だけを動かして時計を見る。七分ほど経過していた。


 抵抗を止やめるようになってから少しずつ差は埋まってきているが、やはり実際の時間に比べて体感の経過は、遅い。


 帰って来た時点では門限を過ぎてはいなかった。


 ならばどうして。などと考えるまでもなかった。自分が帰ってくるまでの間に何か気に入らない事があったのだろう。父が暴力を振るうのは門限を破った時だけではない。幾度となく経験している。


 「ただ運が悪かったのだ」と。「今日はたまたまいつもよりも帰りが遅くなり、たまたまその日、父の機嫌を損なうようなことが起こった。ただそれだけの事」と。そう自身に言い聞かせる。


 それ以外に何ができると言うのだろうか。


 ただでさえ機嫌の悪い父に、「門限は過ぎていない」などと言えば、どうなるかなどわかりきっている。


 うずくまったままになっていた体を起こしてその場に座ると、玄関ドアにはめ込まれた擦りガラス越しに、夕暮れの空を覗く格好になった。ここからでは夕陽は見えないが、夕陽から染み出てきたような、夕陽の残り香の様な圧倒的で妖しい赤色の空に押しつぶされてしまいそうだった。


 父が壊れて、母がこの家を去って。それ以来、ずっとこんな日が続いている。


 彼女ぐらいの年頃になると、反抗期というものを迎え、家族というものを疑うものである。

彼女の場合、この現状が加わる。



 家族とは一体どういうものだったのだろうか。




 今の関係はおおよそ家族と呼べるようなものではない。小陽はそう思う。


 襲い掛かかる日常に怯え続ける日々。閉ざした心の奥深くから時折漏れ聞こえてくる、抑圧に耐えかねたような悲鳴。それを精一杯押し戻しながら、どうにか取り繕いながら、生きる。


 この生活にも慣れた。受け入れるしかなかった、諦めるように。




 それなのに。諦めたと思っていたのに……。


 あの時の父の表情が、忘れられない。




 十分程前。娘を傷つける事をやめない父。娘はうずくまったまま目線だけで父を見つめた。


 視線が重なる。


 小陽を蹴ろうとした父の足が、寸でのところで止まる。


 彼は、宙に浮いた足を床に下ろして、そのままの状態で(たたず)む。そして、うろたえたような表情を浮かべて、うろうろと視線をさまよわせた。その視線は何ものをも捉えられていない。


 それもほんの短い時間の出来事だった。いとも簡単に狂気を取り戻した父は、しかし再び暴力を振るうことはなく、肩で荒く息をしながらも無言で自分の部屋に帰っていった。


 足取りはとても不安定で、その姿は半人前の繰り師に四肢を取られた操り人形のようだった。


 彼女に暴力を振るう父は、何かのきっかけで、ごくまれにそんな表情をすることがある。本当に短い間しかその表情を見せはしない。


 それは、昔、優しかった頃の彼なのではないか。彼女はそう思っている。「もしかしたら父さんの中にはまだ、優しかった頃の父さんがいるのかもしれない」と。


 そんな微かな希望が、まるで絶望のように彼女の目の前で見え隠れする。 


 (わら)よりももっと頼りない何かにすがる彼女は、しかしそこから手を離すことができない。ほんの微かな可能性さえ、強い希望になってしまう。


 自分が彼の意に沿うように振る舞えればいいのだ。暴力を振るわれてもそれは自分が悪いのだと、自分が気を付ければどうにかできるのだと。そう、思い込む。


 彼女の根底にはやはり、いつかの優しかった頃の父が帰って来てくれるという絶望とも呼べる希望があるから。



 その可能性が潰えた時、彼女は――――。 



 主人公はゆっくりと立ち上がり、自分の体を確認する。


 こんな生活が続けば、ある程度なら痛みを和らげるような身の守り方など嫌でも身に付く。


 それでもまだ、強く打たれた箇所が痛む。


――これは、(あざ)になるかな……。


 それ以外に特に大きな怪我はなく、体は問題なく動く。


 自身の体の怪我を簡単に確認し終えると、小陽は急いで周りに散らばった食材を拾い、台所に向かった。夕食の支度がある。


 遅れればどうなるかなど、考えるまでもない。



 彼女が去った後も夕陽は赤を塗り続けている。


 冷たい床が、心の色を無くしたはずの小陽の瞳から零落ちた小さな雫の熱を奪う。


 その滴りもやがて、蒸発して無くなる。

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