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試行


                  ↓


「……」


 翌日。


 今は何時頃だろうか。


「あ……あぁ」


 枕元に時計を置いているのだが、それに目を遣る習慣が醸成(じょうせい)されなかったので、今が七時四十分と知るまでの間、(ほう)けたようにただ時を消費していた。


 廊下に鎮座する鉄条網のせいで、小陽はこれまでのようには挨拶に来られない。


彼女を遠ざけておきながら、今日も彼女が部屋までやってくると寝起きの頭が漫然と錯覚に(おちい)っていた。それは、単に日々の慣性か。それとも、彼女のみならず彼にとってもコミュニケーションの一種となっていたのか。


「チッ! あぁ!」


 舌打ちし、吐く息に声を乗せた。


 答えを出さぬよう二、三回ほど首を振る。


 家族になるという約束を(かわ)したはいいが、一体どういった関係をそう呼ぶのか、無意識のうちに考えるのを放棄している。どんな関係になろうと小陽とは距離を取らなければならない。家族になったその日からあんなに構われてムキになった面もあるだろう。ともかく、気が付けばここまで来た。


 腹が鳴る。


 自分が敷設(ふせつ)したバリケードのせいで、たくさん作ってくれたはずの夕食に有り付けなかった。


 この致命的なデメリットさえ解決できれば、小陽にとって安全な環境は完結するだろう。


 小陽が学校に行ったのを自室より見届けたアルヴァは、ローブを身に纏うと、気を落ち着けようと数回ほど深呼吸をした。


 満足すると、まずは窓を開けた。部屋の床から一メートル程度の高さにある腰高(こしだか)窓。


 アルヴァはそのレールに手を掛け片足を上げた。両手に体重を預けたまま、右足を外に、左足を部屋に、それぞれ宙ぶらりの状態にする。


 片方の素足に朝の穏やかな風を受ける。何とも不思議な感覚にこの不思議な状況がこれから為す行為の不思議さを増幅させる。


 両足で(かわら)の上に立ったのは、少しの躊躇の末。


 やはり傾斜のある瓦という未知の足場にこの身を預けるというのは心許ない。


 足の裏の感触を確かめるようにその場に居留まる。


「なるほど……」


 雨の日となるとどうなるかはわからないが、注意さえすれば少なくとも滑り落ちるという事はなさそうだ。


 そこから最短距離で屋根の(ふち)へ歩いていく。(あま)(どい)を伝うという方法も考えたには考えたが、万が一にも壊してしまうといけない。


 傾斜が効いているため体勢を前のめりにしてしまえば落ちるかもしれない。一歩、二歩。慎重に歩を進める。


 緊張からか足の裏に汗の感触。憑素を使って消滅させるわけにはいかない。


 滑りやすいという要因が加わりさらに緊張して汗をかくという悪循環。


 しかし、循環し始める前に無事縁に辿り着いた。


 不用意に身を(かが)めると危ない。そのまま体育座りになるような形で一旦腰を落とし、そこからにじり寄るように足一歩分前に出る。


 やはり雨樋を壊すといけないので屋根瓦の縁に尻を預け足を出す。今度は両足平等に宙ぶらりで風を受ける。


「あ……」


 見ずままに飛び降りた方がいっそ楽だったのかもしれないが、一度下を向いてしまうと唖然(あぜん)として硬直してしまう。


 緑色と黄土色(おうどいろ)の類似色がざっと散らばっている。それぐらいしか分からないような距離から地面を見ている。


「治るってのだけが救いか……」


 しばしの思考の錯綜(さくそう)の後、苦し紛れの(まじ)いのような言葉が勝手に口から零れた。その言葉はアルヴァより一足も二足も先、何の躊躇もなく地に落ちた。


 落ちたらどうなるかシミュレーションしてみる。


 落ちる。着地する。痛い。


 シミュレーションにならない。もっと具体的に考えられないものかと我ながらに呆れる。


 もう少し熟考を課す。


 そのまま滑り落ちると雨樋を壊してしまうのではないか。だとすれば少し腰を浮かせてから徐々に体重を前方に預けながら、雨樋の少し向こう側へ落ちればいいのか。


 着地後の事はもっとちゃんと考えなければならないが、とりあえず試しに両の手に力を入れ尻を浮かせる。


「!? あ?! うわ!」


 屋根の傾斜を忘れていたわけではなかったが、斜面に垂直に力を加えるとその反動で体が前に押し出されるような恰好になった。


「まだっ!! マダァああああああああああああああ!!!!」


 覚悟半ばにしてアルヴァは小中家の庭地の引力に引き寄せられた。


               ↓


 鈍く大きな音が鳴った。


 柔らかい土が(えぐ)られ埃が舞う。


 庭木の小鳥が一斉に飛び去った。


 一階の屋根から男が飛び降りた。



 着地失敗。一際強い力が加わった右足の方から地面に倒れ込んだ。


「ガァアッ!!」


 痛い。それはもう鈍い有刺鉄線が全身に刺さったレベルではなく痛い。


 痛みに天を(あお)げば、東の空にはさほど高くないビル群を既に振り切り、これから(いただき)に向かわんとする太陽が。アルヴァはその光を浴びる。執拗に(まぶ)しさを覚えた。


 (うつむ)けば汗と土と血でドロドロになった足の裏。(かかと)よりもつま先の方が体に近い。


 アルヴァの膝は可動域を突破していた。


 膝以外には倒れた時に腕を打ったが、こちらはとりあえず意には従う。


 痛みはまだあるがそろそろと立ち上がり、隣の家の死角になる所までけんけんで歩いて行き、そのまま身を隠す。


「あがぁ、ぐ、ぅ。い、いだ……いだい」


 板挟みな(うめ)き声。


 痛いのは当然に痛くそれを少しでも(やわ)らげようと声を出すが、それがあまりにも大きすぎると近所に不審がられる。


 膝の関節が粉砕してもご近所には配慮しなければならない。やってくるのが救急車だろうとパトカーだろうと大した違いはなく、どちらも面倒な事になる。


――しゅゥー……すゅぅー……。


 気温の上がり切らない季節時間帯にも関わらず全身に汗がにじむ。肩は大きく上下し、腹は(はなは)だしくうねる。強く食い縛っているため、スプレーで噴射するような音と共に歯の隙間から呼気吸気が出入りする。


 庭の片隅にうずくまり、痛みに耐えつつ回復を待つ。()り傷、打撲、捻挫、骨折。それらの程度もある。どれぐらいかの時間が必要だろう。


 憑素による修復はその速さも予後も旧世界人の自然治癒の比ではない。


 しかし、憑素に関連する能力が一般に比べ大きく劣るアルヴァには多くの時間が必要だった。


 空気が(こす)れるような呼吸を繰り返す。


 己の傷を癒す際に憑素が体外へと流出する量は、壊れた雨樋を修復する際のそれに比べて遥かに微量、あるいは流出しないとされている。これを信頼して今を選んだ。


 依然呼吸は深いが、その間隔は次第に緩やかになっていく。落下してから数十分ほど経過した頃。


 痛みがじわりじわりと内側から外側へ向かって移動しながら緩やかに和らいでいくような感覚。通過した箇所は既に完治しているだろう。


「……」


 治るという事だけが救い。こんなものが無ければこんな目に遭う必要などなかったが、己を修復せしめるのもまたこんなものの力。


 膝が正常に動くのを確認すると、すぐさま立ち上がる。今後負傷もひとたび一階に下りる為の手順の一つと組み込んでしまえば、取り乱す事も次の行動に(さわ)る事も無いだろう。


 身に付いた汚れを一通り手で払ってから――同居が始まって間もなく小陽から渡された――玄関の鍵を開けて、ようやく一階へ入る事が出来た。


 二階から一階へ降りるのにたった一か所封鎖しただけでこれほどに骨を折る事になるとは。


 ローブのポケットに突っ込んだタオルで足の裏の汚れを入念に拭って玄関を上がる。


 骨を折りながら辿り着いてもそこは普段と何ら代わり映えしないいつもの場所だった。


 居間に入ってまずはソファに腰かける。


 単に色々と疲れたというのもあるが、アルヴァは腹の上で両手を組み何かを考えている。悩んでいるというべきか。


 屋根から飛び降りるという事には何の(とどこお)りもなく瞬時に決定に至ったが、ここからの行動は未だに決定には至っていなかった。


 とりあえず居間の柱に(しつら)えた掛け時計で今の時間を確認する。


 時刻は九時に差し掛かろうとしている。思ったよりも多くの時間を使ってしまったが、どういったやり方を選択しても、今日為すべき事は小陽が帰って来るまでには完了するだろうから問題ない。


 真南を向いた大きな窓を透過して左肩上がりの陽光(ようこう)がさす。ソファの一部が日溜りになっているのは予定よりも時間が遅れたからだ。


 それはとても暖かく、そこに陣取ったアルヴァの冷や汗で奪われた体表の熱を取り返してくれる。


――縁側にでも出てボーっとするのも良さそうだな。


 ふとそんな事を考えた。


 それからどれぐらい悩んでいたか。あっという間ではないが決して遅くもなかっただろう。


 まずは朝食だ。たくさん作ってくれたという夕飯の残りを全て平らげ、片付けを終えると、すぐさま行動に出た。

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