短剣と紅茶
◇
深夜。流れの速い雲に見え隠れする月は満月に近付こうとするも微かに欠け、海の底のような空の中に鎮座する。春先。花をつけて間もない桜は、日中のそれとは異なり月夜に妖しく映える。
そこはよくある閑静な住宅街。どこにでもあるマンションの一室。
その部屋の全ての窓という窓には隙間なく段ボールが嵌め込まれ、遮光カーテンまでひかれている。街灯などの人工照明。そして、月の光は部屋の中には届かない。
先ほどまで焚いていた香だけでは、この部屋の埃臭さは隠し切れない。
入居して以来ほとんど掃除の施されていないこの部屋は、大部分の酷く散らかったスペースと、一部分のそうでないスペースに二分される。
大部分は、本、電気製品、衣類、ゴミなど、これらが混沌と混ざり合ったものに支配されていて、普通、人が生活できるような場所とは考えられない。
かといって残りの一部分が生活スペースかといわれれば、それもまた考えにくい。
その場所はむしろ整然としている。だが、人が生活するには整然としすぎている。
そして何より、あまりにも時代錯誤に過ぎる。
立方体の木箱を二つ積んで作られた祭壇。その上には各辺にそれぞれマッチブック、水の入ったグラス、扇、パンが置かれている。
床には何かの規則に従って置かれた灯のついたたくさんのろうそくと燭台。火は大きく揺らめくことなくオレンジ色を静かに灯している。この部屋では、それらの他に光を放つものはない。
燭台と燭台とは床に引かれた白い線で結ばれている。その白い線は、直線や曲線、それらが複雑に交差し構成されている。全体像を見ると、その整然としたスペースいっぱいに幾重にも重なった幾何学的な模様が伺える。
魔法円。この時代錯誤ともいえる幾何学模様の集合体は、魔法使いをこの世界に呼び出すために。
この不自然に整った空間は、儀式の場。
時代錯誤なスペースの傍らにはやや小さめの座卓と、それを挟むように敷かれた座布団がある。
座卓の上には空のティーカップと電気ポット、未開封のままのティーバッグとスティックシュガーとパック牛乳、スーパーで売っている少しのカスタードクリームとたくさんの空気を詰め込んだシュークリームが置いてある。
この混沌を作り上げた部屋の主は、祭壇の前に立つ。ろうそくの弱い光にぼんやりと照らされる不健康そうな顔は、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。
右手には短剣。真っ当に生活していればなかなか手に入らないであろう代物は、光をくすんだものに変え反射する。
男は、やおら下卑た表情を引き剥がすと、ある方角へ向かって文言を呟き、短剣で何も無い空間を切った。
異なる文言、同じ動作をそれぞれ別の方角に向かってあと三回ほど行った。
ろうそくの吐く煤けた煙がにわかに流れを変えたのは、短剣に依るかそれともその他の要因か。
男は祭壇に向き直る。両手を広げて短いフレーズを何度も何度も繰り返す。
その繰り返しの過程、ある極小の時点で、男の様子が変化した。
その前後で大した差はない。だが、確かに違う。
「友よ、最果ての地の盟友よ。隔たりを越え、今この場所にて旧交を温めようではないか」
次の瞬間。この世界、魔法円の中心に、魔法使いが現れた。
「ひええっ!!」
突然の登場に虚を突かれた男は、大きく目を見開いて随分と間の抜けた悲鳴を上げると、飛び跳ねるようにして後じさった。
自分が行った儀式が成功した結果だったとはいえ、彼が驚くのも無理はないのかもしれない。
この世界でよく見るフィクションのように、魔法円から仰々しい光が発生したり、夥しいまでの靄が立ち込めたりなどという現象は一切起こらない。まるで下手くそな編集動画のように、突然それは彼の眼前に現れた。
年齢は十五、六だろうか。彼女はその身を色褪せたようなローブに包んでいる。ローブはゆったりとしているため、身長も肩幅も同年代の女性にしては少し大きいという程度しか身体的な情報は得られない。
被れば目線が完全に隠れるのではないかという程大きなフードは方から背中にかけて重力の為すがままになっている。
こちらの世界では”魔法使い”と呼ばれている彼女は、何物にも歓迎されることなく今までずっとそこに居たというような不自然な自然さで、魔法円の中心に立っている。
男を除いては魔法円を形取るろうそくの炎だけが、彼女に反応したかのように微かに揺らめいただけである。
魔法使いは、まるで敵地を偵察するかのように男の住む部屋を見回す。最後にティーセットを見遣って一通り見分を終えると、その顔にうんざりとしたような表情を浮かべたが、別段何をするわけでもなく男の方に向き直った。
男は彼女の視線に意を介さない。口から悲鳴と一緒に魂が抜け出したかのように思考は停止し、体は硬直、意図のない視線を突如目の前に現れた人物に返すのみである。
自分自身が召喚した魔法使いが目の前にいるという認識ができるような状態ではないようだ。
無音。
硬直する男。佇む魔法使い。不適切な部屋。今この部屋には、決して混ざり合わない三つの沈黙が混在する。その状態のままどれ程の時間が流れたか、魔法使いには定かではない。男にはそもそも時間が流れているかどうかさえ定かでない。
「――という人物に心当たりはないかしら?」
一向に我を取り戻す気配のない男に、早々にしびれを切らした魔法使いが、沈黙の均衡を破るようにして不躾に問う。
案の定という風な反応にまあそうだろうとだけ思った。
「……は何かしら?」
遅かれ早かれ最後はこういう話になる。
「え?」
最初、かけられた声にも男は反応を示さなかったが、ややあって硬直も和らぐとそんな声を返すのが精一杯だった。まだほとんど我を取り戻せていない。問いが自分に投げ掛けられたものかどうか、それすらも朧気である。
「だーかーらっ! あなたの願いは何かって聞いてるの。私をこんなとこに呼び出したのはあなたなのよ?」
そんな彼の反応に、魔法使いはカッとなって早口でまくし立てる。
別の世界から呼び出されて来てみれば、その呼び出した本人が自分が何者かを理解していない。あまつさえ呼び出しておいて怯えている風にすら感じられる。だったらわざわざ呼び出すなと、彼女の機嫌は斜めに傾く。
一般的に魔法使いはこの世界の人間が嫌いだ。無論、彼女も例外ではない。
しかしそんな事情を男が理解しているはずもなく――それどころか彼女をこの世界に呼び出した張本人であるにもかかわらず――依然思考は停止し、彼は沈黙。
彼女の怒声にスリーテンポほど遅れて、自身の召喚の儀式が成就したことを理解し始めた。自分が想像していた魔法使いの人格とはかなりかけ離れてはいたが、彼女自身が願いは何かと聞いているのだ。
次第に理解が現実に追い付き始め、ついに我を取り戻した男は――いや、本当に我を取り戻せたのだろうか――長期間にわたる労苦が成就し、今まさに願いが叶わんという悦びに酔い痴れているようだ。顔はだらしなく緩み、不気味な笑い声をぼそぼそと垂れ流している。
――何だこの気色の悪い生き物は?
魔法使いはまるで汚らわしい物でも見るかのように、忌まわしげに男を睨めつける。
彼女の住む世界の認識では、この世界の人間は自分たちと同じ人間ではない。
一瞬。彼女が何かを念じかけた。
――危ない。我慢しろ。まだこいつの願いを聞いていない。
様々な憎悪が重なり発作的に行使に到るのを寸での所で戒める。
そんな様子の魔法使いなど気にする風でもなく、男はただ自身の願いの言葉を、制御の利かない舌に乗せる。
「お、女の子の服が、す、透けて見えるように、ししし、して下さいぃッ!!」
「却下」
瞬殺。
「え?」
男、二度目の疑問符。言い終わるや否や拒否されたのでは流石に仕方あるまい。
「願いを聞く」とは本当に「聞く」だけであって、そこに「叶える」という意味までは必ずしも含まない。
本当ならば召喚されたらまず最初にする事といえば元の世界に帰る事なのだが、決まり事なので嫌々ながらも一応「願い」は聞かなければならない。
どのみち”魔法”の性質上、女の子の服が透けて見えるようにするというのは不可能なので、叶える必要はない。可能だとしても、こんな奴らのために使う能力など持ち合わせてはいない。第一、叶えてしまうことで一番最初にその能力の餌食になるのは、他ならぬ自分自身なのではないか。
「『あなたの願いは、私には叶える事ができません』と言ってるの。何度も言わせないでくれるかしら?」
魔法使いは、この下らない世界の下らない人間の、下らない願いを完膚なきまでに踏みにじるようにして慇懃無礼に答える。
「ええぇ……。そんなぁ……」
自身のヨコシマな願いが叶うと信じて疑わなかった男は、突きつけられた答えに呆然とし、何とも情けない声をあげた。
魔法使いはここに来て初めて男を観察した。
目の下がやけに黒ずみ、眼球の大きさが不気味に強調される。髪の毛は長い間手を入れていないようで、伸びるがままに伸びていた。着ているものといえば、どの時代どの世界でも『高貴である』と表現されるような恰好とは程遠い。
「残念ね」
残念さとは全く縁遠い(えんどおい)、嗜虐のトーンで声を浴びせる。
男は何も言わず、この世の終わりのようにその場にへたり込み、うなだれた。
命だけは奪わずにいてやろう。などと言う建前をわざわざ心中に浮かべる。本当なら今すぐにでも人生を強制的に終了させてやりたい所だが、男に強い魔法をかける。つまり、命を奪ってはならないというルールがある。
それに逆らってしまえば、わざわざこんな下らないことを我慢してきたのが全て台無しになってしまう。それどころか、あの世界では恐らく生きていけなくなる。
――ボロが出ないうちにさっさと帰ることにしよう。
そう思った矢先、うなだれていた男が、息を吹き返したかのようにバッと勢いよく顔を上げて、渾身の言葉を放った。
「そ、そうだ! だったら……。せ、せめて上半身だエェッ!?」
強制終了。
魔法使いの――こちらの世界の人間に対しては酷く脆弱な――堪忍袋の緒が切れた瞬間でもあった。
魔法使いが男を睨みつけ、一瞬、大きく目を見開いた。
その次の瞬間、男は「エェッ!?」の部分で、声を裏返らせたかと思うと、白目を剥き、再び硬直。今度はそのままの状態で後方へ卒倒した。
この二度目の硬直は、”魔法”の力によるものだ。
「どうやら死にたいようね」
異世界から召喚された魔法使い――被召喚士――が吐き捨てる。
男は意識を失っているが、この程度の弱い魔法では死なない。
しかし、今の一撃で男が持つ召喚に関する記憶は完全に失われただろう。
男の譲歩案にカッとなって咄嗟に魔法を使ったので、もしかしたら加減を誤って、男は命ごと喪失していたかもしれない。
「大丈夫。死んでない」
魔法使いは、大丈夫だとは思うが一応男の生死を確認すると、少なからず残念そうなニュアンスも含めてそうつぶやいた。
魔法使いが吐き出した大きなため息が、最も近くにあったろうそくの炎を揺らめかせる。男の生存に対する安堵のそれではなく、ただ単に疲れたという意味合いの方が幾分強い。
本当に下らない仕事だ。旧世界の人間なんて、所詮この程度なのだろう。こんなことのために時間を割くなんて馬鹿馬鹿しい。
そう、馬鹿馬鹿しい。願いの内容もさることながら、自分ではない誰かに願いを叶えてもらうなどという発想自体が。
この世界には、魔法の精か何かが出てきて、何でも願いを叶えてくれるという空想の話がいくつもあるという話を授業で習った。
本当に勘弁してほしい。
そこには魔法を使う側の意思なんてない。あるのはこの世界の人間の、愚かな願望だけだ。こんな物語ばかり読んでいるから、こんな馬鹿な願いを平気で抱けるようになるのだ。
願いなんて、自分で叶えるもの。
ふと視界に入った座卓の上のティーセット。彼女は嘆息する。
この世界の人間は、自分の都合で呼び出して一方的に願いを叶えさせるような関係の相手を"盟友"と呼ぶのだろうか。
「馬鹿らしい」
誰にでもなく吐き出す事で意識的に思考の発散を遮った。
あぁ、こんな馬鹿げた仕事、早く任期を迎えて、その先に約束された優雅な生活を送りたい。
それだけを原動力に彼女は現世界と旧世界を行き来する。
気絶した男は再び部屋の雑多なものと同化し、ろうそくは間もなく全て燃え尽きた。
この部屋には、一切の闇とたった一つの沈黙が訪れた。
何だか急に小説が書きたくなってこの作品の構想・素材集めなどしている内に何だかよくわからん三大噺や二次創作やもう一つ何かあったような気がしたが忘れました。と、いろんな物をかじって細く細く細くやっていたらはや5年が経つではありませんか。
いい加減書こうとしていた物を書かねば初期衝動が死ぬという恐怖感に尻を叩かれた末、ようやく一歩目を踏み出す事が出来ました。
到らぬ所しかございませんがよろしくお願いします。
感想や評価など何でも何ptでも構いませんので気軽に気軽にお願いします
あと
もう何が大変だったかって魔術関連の素材を集める事ですよ……。
関連サイト回ったのですが、もうとにかくアホな私めには全く意味が分からんorz
現実のものを細かい所までキッチリと咀嚼して、そこから自分なりのフィクションを練って行くという事がこんなにも大変な事だとは。
口が半開きなので咀嚼しながらにして内容物がボロボロと口外に落ちていくような感覚。口に放り込んだ物の一体どれほどが我が血となり肉となったのか……。