回る想いと観覧車
観覧車
回れよ回れ想ひ出は
君には一日 我には一生
これは誰の歌だっただろうか。詳しく覚えていないがそれは、時折──たとえば朝の電車に揺られているときだとか、夕暮れの道を一人歩いているときだとか──ふとした瞬間に思い出す、不思議な響きを持っていた。
◆◇◆
ある日「友人」と遊びにいくことになった。いつもながらの唐突な連絡が懐かしい。何もかもが変わっていく日々の中で、友人との時間だけは変わらず続いていく。それがなんだか心地よかった。
二人で並んで歩く。行くあてはなかった。
人混みは好きじゃない。
ぽつりと零されたその言葉に「そうだね」とだけ返す。
「じゃあさ、観覧車にでも乗ろうよ」
「近くにあるなら」
「ほら見て。あそこ」
「ああ、近いな。歩くか」
高層ビルが立ち並ぶ街並みはいつでも忙しない。スクランブル交差点の赤信号でさえ、ぴりぴりとした苛立ちが見えぬ棘となって刺さるようだった。時間に追われて日々生きるために生きている。そんな中で、陽光を硝子に反射させて輝く観覧車だけは、この息苦しい場所から切り取られた特別なものに思えたのだ。
入場券を買って、鉄筋の階段を登る。どれに乗ろうかと聞かれ、咄嗟に指をさした。先ほど目にとまった、あの硝子窓が美しいゴンドラ。無言で友人は頷き、二人で向かい合って席に座る。
ゆっくりと地上を離れていく。その速さはごく僅かだが決して止まらない。
たわいもない会話を少しして、会話は途切れた。ぼんやり外の景色を眺めていると、あの歌が頭に浮かんだ。
『君には一日、我には一世』
初めてその言葉を聞いたときはそんな大袈裟な、なんて思ってもいたがなるほど言い得て妙だった。
きっと私は忘れられないのだろう。いつか、たとえ声や仕草は忘れてしまったとしても、この感情だけはずっと頭のどこかにこびりついて離れない。もどかしい距離感、しかしそれに安堵する。今の関係を壊してまで叶えたい願いはなかった。そこまでの情熱と、勇気がなかった。つまりは臆病だった。
「そろそろ終わりかな」
「思ったより短かった」
「なら良かった」
「なにが」
「なんでもない」
言葉の意味はただ単の感想だろう。しかし長すぎた、そう言われるよりはずっと良い。降りると係員に声をかけられる。ゴンドラに乗る前に撮られた写真が出来上がった、と。
「お写真どうですか、一枚千円です」
その値段に少し驚きつつも隣を見ると、友人は要らないと手を振って、すたすたと階段を下りていった。悩む素振りすら見せないところがらしいといえばらしい。どうしようか。一瞬だけ、悩んだ。そして友人の姿が見えなくなって、それから。
「ください、一枚」
それは情けない私の、ちょっとした悪足掻きだった。
栗木京子 短歌集
「水惑星」より引用