同じ夢を見てる
「そいつはどういう意味だ」
茂みの反対側、正門の向こうから、見慣れた四本足のトラ猫がこちらに近づいてきていた。
「寅次郎…!」
(寅次郎…!)
間違いない。足を引きづりながら歩くその姿は、寅次郎本人だ。私の目と鼻の先で、剣を構えた鎧猫がピタリと立ち止まった。
「今時二本足で歩けない猫がいちゃおかしいかい?」
「き…聞いてらしたんですか…!?」
門番達は明らかに動揺していた。静かな口調だが、寅次郎の言葉には怒りが滲んでいるのが私にも感じられた。こんなに怒った寅次郎を見るのは、初めてかもしれない。すると、一匹の若い鎧猫が端から飛び出して、声をうわずらせながら叫んだ。
「み…みんな言ってるぞ!お前なんか、ダサくてしょうがないって!」
「お…おい!やめとけって!!」
先輩に咎められても、若猫は止まらなかった。酔っ払っているのだろうか、顔が真っ赤になっている。
「は、恥ずかしくにゃいのか!?お前くらいの年になった奴は、みんな二本足で立って歩き回ってるぞ!」
「別に」
とうとう寅次郎の目は座り、毛を逆立て始めた。猫の喧嘩の合図だ。その時だった。寅次郎は確かに、茂みの中の私と目を合わせた。私はドキリと心臓を跳ねあがらせた。
「別に地面に這いつくばったって、獲物は取れるさ。空なんか飛べなくったて、歩いて前に進みゃあいいんだ」
「それをダサいって言うんだよ!」
若猫が負けじと叫んだ。私はもう我慢できなかった。「寅次郎!」そう叫ぶと、茂みの中から飛び出した。門番達が驚いてこちらを振り向く。その瞬間、寅次郎が彼らの後ろ首に一気に飛びかかった。
「うにゃあああ!!」
「何する…やめろおいっ…ぎゃあああ!!」
ごろんごろんと、猫達が洗濯物のように絡み合っていく。「何事だ!?」振り返ると、騒ぎを聞きつけた王宮の兵士達が、一斉に窓を開け正門の様子を伺っていた。猫の団子の中から、寅次郎が門番の一匹の耳にかじりつきながら叫んだ。
「雪!今のうちに逃げろ!」
「寅次郎!で…でも…っ!」
「いいから!俺も後から行く!」
寅次郎の言葉に背中を押され、私は門の外へと飛び出した。灯りの消えた、夜の街を必死に走り抜ける。やがて街を抜け、森に入り、渓流に沿って下り…とうとう私は息を切らして、その場にしゃがみ込んだ。近くの岩に背中を預け、だらだらと流れる汗を拭った。心臓の鼓動はできる限界でリズムを刻み続けている。全身が焼けるように熱い。二本足で走るのって、こんなに大変だったっけ?
次第に薄れゆく意識の中で、私は岩場から空を見上げた。そういえば、最近じゃ空を飛ぶことばかり夢見ていて、足を動かすことをすっかり忘れていた。情けないことに、もうしばらく動けそうにない。これじゃ、寅次郎に怒られちゃうな…。私はゆっくり瞳を閉じた。遠くの方で、私を追ってきた猫達の声が聞こえてきた…。
「雪!」
「雪子っ!!」
そこでハッと目が覚めた。蛍光灯が眩しい。逆光の中、見慣れない白衣の男性が私の顔を覗き込んでいた。私は目を細めた。どうやらこの男の人には、猫耳はついていないようだ。
「心配したのよ雪!全然起きなかったんだから!」
辺りを見回すと、そこには家族全員が集まっていた。みんな私を見つめながら涙ぐんで、おじいちゃんなんか顔面が一度丸めた答案用紙みたいにしわくちゃに歪んでいた。どうやら私は、病院の一室にいるようだ。
「もう大丈夫。もう大丈夫だ」
お父さんが私の手を握りしめて咽び泣いた。私はなんと答えていいか分からなかった。話によると、私は地震に巻き込まれ予断を許さない状況が続いていたそうだ。すでにあの地震から、一週間以上経っていた。ずっと『猫の国』の夢を見ていたからだろう、申し訳ないが、全然実感がなかった。私はベッドの中で、みんなにお礼を言った。みんな泣きながら笑っていた。
「そういえば、寅次郎は無事?」
ふと気になって、私はおじいちゃんに尋ねた。おじいちゃんは悲しそうに笑った。
「…寅次郎か。残念じゃがあいつはまだ見つかっとらん。じゃが、そのうちひょっこり出てくるじゃろ。なかなかどうして、生き意地の張った猫じゃからな」
その時だった。病院全体が震えるように揺れた。余震だ。病室の中に緊張が走った。
「…おさまったか」
「もうあまり時間はないようですね。どうですか、お母さん?」
「ええ。雪?」
「何?」
何やら意味深に、お母さんが私をじっと見つめた。
「手術を受けてみない?」
「手術?何の?」
「『人工両翼』ですよ。まだ日本では例がありませんが…」
きょとんとしている私に、医者が丁寧に説明してくれた。人体に生えた羽は様々な国際機関や大手企業によって研究され、海の向こうでは人工的な「翼」を作るという、夢のような技術も開発されていた。『人工両翼手術』を受ければ、元々羽の生えてない私のような人間も空を飛べるようになるらしい。
「…最近地震も多いじゃない。またいつこんなことになるか」
「いいじゃないか雪。空を飛ぶことが夢だったんだろう?気持ちいいぞ、空は」
「……いいよ」
「よし、じゃあ手術だな」
「ううん。受けなくていいよ」
お父さんが目を丸くした。
「どうしてだい?」
「だって…」
うまくは説明できなかったけれど。私は最後まで首を縦に振らなかった。私の背中に羽を生やすわけにはいかない。ここは誰かさんの特等席なのだ。それから医者も、空を飛べるからといって地震から完全に身を守れるわけではない、ということを家族に説明してくれた。たとえ人工両翼をつけたとしても、飛べるようになるまで何年も訓練が必要だということも。
「気が変わったら、いつでも言ってね」
病室を出て行く時、お母さんが優しくそういってくれた。お母さんは私が昔から、空を飛びたがっていることを知っている。手術にかかる費用も決して安くはないはずだ。それでもそう言ってくれることが私には嬉しかった。私は頭から毛布に潜り込み、瞼の裏側を覗き込んだ。
それからその晩、私はまた夢を見ていた。昔から大好きだった、いつもと同じあの夢だ。背中に感じる柔らかなぬくもりに、私は夢の中で思わず微笑んでいた。