約束
視界が霞む。脈動する頭痛が吐き気を助長する。脳はまるで泡立て器か何かで掻き回されたように思考も纏まらず、己の物とは思えない中枢に違和感さえある。辺りに漂う腐敗臭が不快感を煽るが、それを感じられるくらいには自我を保っているらしい、と変な安堵を覚える。いつもと違う頼りない足取りに、我ながら阿呆らしくて失笑を零す。わななく唇を強く噛み締め、私はキャンパスを歩いていた。いつも腰に巻く紺のカーディガンは、結び目が解きかけており今にもずり落ちてしまいそうだ。
バス停に続く長い坂。その脇道の林を低い姿勢で駆け抜け、必死に逃げ回る。何なんだいったい、訳がわからない。私はただ、声を掛けようとしただけだってのに。
「あのバカ」
売店近くの石段に腰を落ち着け、舌打ちと共に怨み節を呟く。体調は優れない。息は荒く、先程噛まれた首の傷跡は治療できそうにない。何とか走って逃げ切ったものの、いつ来るか予測できない恐怖は精神を蝕んでいく。
ありのまま、今起こっていることを確認する。大学がゾンビで溢れ返った。何を言っているのか解らないだろうが、私だって解っていない。ゲーム脳とか、集団催眠とか、そんなチャチな物では断じてない。正真正銘、紛れもない現実だ。信じたくないけども、信じたくないけども――
「……っ!」
気持ちが静まったところで、首筋に激痛が走った。声が漏れないように口を押さえ、呻きを最小限に抑えた。
何故こんな事件が起こってしまったのだろう。私はただ、いつものように大学へ訪れて、昼休みになったからアイツに逢おうとしただけなのに。何か悪いことでもしてしまったのか。思い当たるのは生意気な口調と粗暴な行動……いや、それだけでこんな事件に巻き込まれる十分な理由になるもんか。可笑しすぎて笑みを零したい心境なのに、零れるのは首から流れる赤い液体だけだ。
血と腐肉で赤黒く染まった大学に断末魔が響き渡る。高いもの、低いもの。長く伸びるもの、すぐに途切れるもの。学生たちを眺める分には、この席はなかなかのものではある。しかし、こんな状況では見目良いものじゃない。騒々しさは普段と変わらないのに、悲鳴のせいで笑顔どころか、苦痛の顔しか浮かばない。あぁ、また一つ聞こえた。声が仲の良い友人と似ていたけど、どうなのかな。杞憂であってほしいな。
下ろした腰を少し浮かし、自分の横に一人分のスペースを空ける。これほど目立つ場所にいる理由は一応ある。周りが見渡しやすいこと。それと――見つけてほしい奴に見つかりやすいこと。
「……ちぇ」
膝を抱えて顔を埋める。気がつけば恋人のことを考えていた。やはり独りになるとどうしても寂しくなってしまう。いつもの気丈さはどこに置き忘れ――いや、これが私なんだ。自分の弱さを見せたくないから、強気に振舞っていたんだ。
私は口が悪いから、友達が少ない。いつも会うたびに悪口ばかりで、友人なんて片手で数えられるくらい。誰もが私のことを仲間はずれにする中、私の暴言に怯みもせず接してくれたのが彼だった。
会いたい。でも、会ったところで何もできない。だって、彼はもう――
「あ……」
不意に背後から聞こえた物音。反射的に振り返る。売店の入り口から、見覚えのある人影が姿を現した。
いた。噂をすれば何とやらと言うが、まさかこんなにタイミング良く来るとは思わなかった。あまりにも突然すぎて、口を開けた間抜けな表情で呆けることしかできなかった。
いつも柔和な笑みを浮かべる口元からは、赤い涎が滴り落ち、整った顔立ちは肉が崩れて面影がない。ただ、右腕に巻かれたミサンガで誰なのかは判る。私を抱きしめてくれた両腕は何かを求めるように虚空をもがき、私と共に歩んでくれた両足は引きずっている。
変わり果てた姿で、私の首を噛み千切ろうとした恋人が、目の前にいた。
出会ったときはいつも通りに肩を叩いて挨拶しようとしたのだ。しかし、いきなり私の背中に腕を回して抱き付いてきたときは、別の意味で驚いた。そちらの意味で済めば張り手一発で終わったのだけど、済んでいないからタチが悪い。そのまま首に噛み付かれて、必死に振りほどいてきた。歯はそれほど深く刺さらなかったから、千切られた肉片はがほんの僅かだったことは不幸中の幸いか。
大方他に目ぼしい獲物が見つからず、私を追ってきたのだろう。焦点の合っていない瞳を私に向け、ゆっくりと確実にこちらへ向かってくる。
やっと見つけてくれた。待っていれば来るだろうと思っていた。ゾンビに生前の意識があるかはわからないが、彼がここに来てくれたからそれでいい。
――ここは、私と彼がいつも一緒にいる場所だから。
本来なら今日はここで昼ごはんを食べる予定だった。私はこんな状況でも律儀に約束を守った。そしたら、来てくれた。
別にゾンビと最後の食事を取りたいわけではない。むしろ、私が一方的に捕食されるだけだろう。
抗おうにもそろそろ限界だ。噛まれた傷は浅かったものの、もう自分の意識がほとんど残っていない。全身に異常な量の汗をかき、四肢は言うことを聞かずに震えるばかり。喉の奥からこみ上げてくる強烈な吐き気に従い、嘔吐。朝はサラダくらいしか食べていないのに、色々な絵の具を混ぜたような気味悪い塊が自分の胃から出てきたことが信じられない。
もう彼はすぐそこに迫っている。身を委ねるのは簡単だが、ゾンビって共食いをするものなのだろうか。駄目だ、もう思考する余裕すらない。立ち上がって逃げようにも、身体を引きずることすらできない。
もし、このまま眠っていたら、また一緒になれるのかな。
――それは……最高に気持ちがいいな。
遠のく意識の中で、腕に走った稲妻のような激痛。その痛みを最後に、彼女の意識は途切れた。