消失
さっきまで走っていたせいか、噛みつかれた所から勢いよく血があふれる。だんだん体が冷たくなって、目もかすんで頭がぼんやりしてきた。徐々に死んでいく感覚が、心の底から恐ろしい。見えなくなっていく目に水が溜まって余計見えない。
――死にたくない、死にたく……ないよ。
もう見えなくなってきた目から熱い涙が零れ落ちる。食いちぎられた体のあちこちが悲鳴を上げる。しかし、痛みで絶叫しようにも、声が出ない。食い破られた喉からヒューと言う風の通る音だけ。見上げた空は溜まりすぎた水のせいでよくわからない。ポケットの中で着信を知らせ続ける携帯電話。着信の先に居る人物の事を思いながら私の意識は消えていった。
「ただいまー」
ドアを開けて帰りを知らせても、笑顔で走ってくるはずの彼女は居なかった。いつもの笑顔がないことに少し寂しさを覚える。帰りが遅いなんて聞いてなかったはずだ。今朝のやり取りを思い返しても、やっぱり遅くなるとは言ってない。言い忘れていたのかな、それとも急な予定でも入ったのか。携帯を開いて確認してみたが、来ているのは仕事関係のメールばかりで、彼女からの連絡は来ていない。不思議に思いつつ、携帯をソファーの上に適当に投げて、空いた腹を満たそうと台所に立った。
適当に作った野菜炒めを空腹を訴える腹の中に押し込んで時計に目をやる、どう考えても遅い。院生になり、部活にも参加していない彼女は俺より遅く帰ることはほぼ無い。少し心配になり電話をかけてみたが。
――。
繋がらない。彼女の大学の傍は確か、街灯が少なく周りは民家ばかりで、女の子一人で歩くには暗すぎる。それに、怖がりな彼女のことだから、夜道に一人じゃ心細いかもしれない。コンビニが数件あったような気がするが、それは駅近くの話で、山の中腹にある校舎から降りてくる間にあるのは一件のコンビニだけだ。やっぱり危ない。こんな時間まで学校にいるようなら帰り道は一人で徒歩になるだろう。ちょっと過保護かもしれないが、彼女を迎えに行こうと腰を上げた。一人で家にいるのはつまらないし、何より彼女に会いたくなったから。
空が薄紫色に染まる頃、いつもであれば家に帰り二人分の夕飯を作って、彼の帰りを待っている時間なのに、私はまだ学校に居た。涼しい秋にもかかわらず、滝のような汗をかき、心拍数が上がりすぎて心臓が悲鳴を上げている。これが走ったせいなのか、それとも恐怖のせいなのか解らない。立ち止まったら死ぬかもしれないと思って、ここまで必死に走って来たけど、そろそろ体力の限界だ。
走り疲れた私が駆け込んだのは、七号館一階の隅にある教室。ここから坂を上ればバス乗り場だけど、バスが動いているとは期待できないし、何より行きたくない。理由は、貯水池を挟んだ向こう側から、叫び声や断末魔、それに混じってうめき声が聞こえてくるからだ。逃げているモノが居る方へ行こうだなんて思う人間は居ない。それが、ゾンビなんて言う訳の分からない者なら、なおさら怖くて行けるはずが無い。
一時間前、私は図書館で研究に使えそうな資料を一通り読み、帰ろうとしていた。しかし、突然現れたゾンビが人を襲っている光景を目にして、怖さのあまり図書館から逃げる様に走ってきたのだ。幸いにもゾンビは歩くのが遅くてまくことが出来た。パニックになった私の頭から、振り切って家に帰ると言う発想は出てこなかった。冷静に考えても、怖がりな私に強行突破をする勇気なんてあるはずもなく、逃げ回ってこの状況が沈静化するまで耐えるしかないと言う結論が出た。ゾンビ達に見つからないように体を小さく丸め、息を整えていた私の耳に、微かだがサイレンの音が届いた。助けが来た。これで何とかなる、と私にほんの少し希望が見えた。どうにかして、警察の人に会えれば、保護してもらうことが出来るはずだ。確かに、ゾンビたちの声の聞こえる方へ行かなければならないけれど、パトカーに乗せてもらうまでのほんの少しの間だ、ちょっと頑張って勇気を出せば。
そして、怖がりな彼女は教室から外へ出た。教室を出てから彼女が目指したのは正門ではなく、バス乗り場のある坂の上だ。オーバーブリッジでゾンビと対面するよりも、坂道で走りにくくはあるが、外であったほうが逃げやすいと考えたのだろう。彼女の選択は正しいかと思えた。しかし、現実はそんな思い通りに運んではくれない。校舎から飛び出した彼女を待ち受けたのは、虚ろな目をし、獲物を探しているように徘徊するゾンビたちだった。一人気がつけば、一人、また一人と彼女に気がついて、必死に手を伸ばし苦しそうな声を出しながらこちらに向かって来る。全力で走る彼女、なんとか振り切れる、そう思ったのも束の間、彼女の足を倒れていたゾンビが掴んだ。肩が外れているのか手の方向がおかしい。掴まれた足は、誰のものなのか分からない赤に染まる。ヌルついた感覚の次に彼女に襲い掛かったのは痛みだ。力任せに握られた所が痛い。なんとか振り払おうとしたが、それは叶わなかった。掴まれたことで足が止まり、その間に周りをゾンビに取り囲まれてしまった。恐怖と痛みに襲われて、彼女の断末魔が空に響いた。
彼女の悲鳴が途切れてから、その場に残ったのは、グチャグチャと何かを咀嚼する嫌な音だけだった。
俺が彼女の大学までたどり着いた時、目に飛び込んできたのは、公道に止められたパトカーに群がる人だった。サイレン特有の音が耳に突き刺さってくる中。人々は、警察官の制止を無視してパトカーから離れず、更に大人数でパトカーを囲った。そんな人々は、サイレンの音にも埋もれない大きな音を立てながら、車を叩いていた。棒きれを持つ者も居れば素手の者も居る。マイクに入る警察官の震える声。それをかすかに聞きつつ俺は呆然とその光景を見ていた。そんな俺の目の前に学生らしい若い男が走ってきた、校舎から飛び出してきたそいつはひどく青ざめた顔をしている。その学生はボンネットを叩きながら大声で、
「開けて、助け――」
と言いかけ、事切れた。それは、車のボンネットに体を預け、後ろから噛み付かれたからだ。噛み付いていた奴の顔は真っ白で、口の周りは血のせいで真っ赤に染まってる。目は瞳孔が開ききっているのかどこを見ているか分からない。それを見た俺は、今まで感じたことのない恐怖を覚える。まるで人間だと思えない、理性を無くしていてもこんな事は起こってはいけないはずだ。あまりにも倫理を外れたそれを目の前に突きつけられ、あまりの異常さに吐き気すらした。急いで人に伝えようと、現場から逃げ出した。下り坂だろうと、人をはねようと構わず、ギアをバックに入れ急発進させた。俺はそのまま猛スピードで車を後ろへ走らせた。
――そんな俺を冷たい二つの瞳が見つめていたことなど知らずに。
その後、あの事件を収めるために国が動いたらしいが詳しくはわからない。ただわかるのは彼女はもう、この世に居ないと言う事実だけだった。