他人の不幸は蜜の味
まったく、どうやら大東文化大学はいま、前代未聞の事態に陥っているようだ。なんでもゾンビが現れたとかで。
メールの文面はそう伝える。数人からそれは届いたが、今では音信不通だ。どうせあいつらのことだ。殺されてくたばっているか、或いはゾンビ化でもしているのだろう。バカめ。まあ俺には関係ないか。俺が死んだわけでもないし。
この異常事態がいつ始まったのか、どこまで被害が拡大しているかはわからない。
八号館五階の窓から大学を見渡す。観察する限り、ゾンビに知能はない。そして走ることもない。ぎこちない歩き方でぶらぶらと徘徊しているだけだ。また、ゾンビに傷つけられると自分もゾンビとなってしまうようだ。そもそも何であんなとろくさいのに捕まるのかが理解できない。ゾンビになったやつらは救いようのないバカだな。
携帯のギャラリーを開く。そこにはゾンビやら、泣き叫んでいたり、殺されかけている人間の画像で埋め尽くされていた。
「はは、いいなこれ」
酷い顔だ。悲痛に満ちている。人間、こういう表情の方が味があっていい。背中がゾクゾクしてくる。後でじっくり鑑賞しよう。
とりあえず大学にいそうなやつらをここに呼ぶか。面倒だが自分のためだ。
『8511にいるから今すぐ来てほしい。まだゾンビが来てなくて安全だ』
一人ずつ電話を掛けるのは面倒だったため、この文面で一斉送信した。
今のうちにゾンビが群れていそうな場所でも確かめておくか。七号館には少しだけいるようだ。七号館の廊下を確認できる限りでは十三体のゾンビが歩いている。おそらく八号館にも数体はいるはず。進明堂に続く道にもいるな。
あ、女だ。ゾンビから逃げてるのか。あっと携帯落としたな。そしてどうして取りに戻る。これだからアマは。しかも躓いたし。お、こけた。よし、捕まれ。おーしおしおし、よし、捕まった。はは、見ろよ、あの顔。面白れぇ。人間ってあんな表情もできんだな。ウザい叫び声がここまで聞こえる。やっぱ生は違うな。良いもんを見ることができたよ。ありがとうございます。
て、今はあんな女なんてどうでもいいんだ。
そうだな、一番被害が大きそうなのは二号館方面の気がする。あっちからは止むことなく悲鳴が聞こえる。だとするとオーバーブリッジもヤバいな。要注意だ。
「あれ、一人だけなんだ」
ガラリと扉が開き、田辺が顔を出した。
「井上と佐藤にもメールを送ってみたんだけどな」
「そっか」
田辺は近くの机に腰を降ろした。額には汗が滲んでいる。
「田辺はどこにいたんだ?」
「隣の研究棟だよ」
びびりの田辺に動揺は見られない。上手い具合にゾンビと遭遇しなかったようだ。
「お前は現状どうなっているかわかるか?」
「えっと、ゾンビが出たとか何とかで。奇声も聞こえるんだけど今日なにかあるの?」
「いや、悪い。俺もいまいち状況を把握してなくて」
使えねぇ。しかもゾンビを見てすらもいないのか。役立たずが。
それに、他の奴ら少し遅いな。今すぐ来いって行ったのにもう五分も経ってるぞ。仕方ない。電話でもしてやるか。
「田辺、井上に電話してみてくれないか」
「わかった」
俺も佐藤に電話を掛ける。が、繋がらない。はぁ、殺られたのか。
「井上、出ないんだけど」
「そっちもか」
何やってたんだ、あいつらは。使える駒が使う前にいなくなってどうする。
「仕方ない。俺たちだけで行くぞ」
「どこに?」
「駅」
大学にこれ以上いるのは危険過ぎる。いますぐ逃げ出さないと。
ただスクールバスは使えない。期待できない。でもまあ大丈夫だろ。この俺が捕まるわけがない。
「行くぞ」
「うん」
動き出しかけて、ふと足を止めた。このまま普通に階段を降りていいのか、ゾンビと鉢合わせでもしたらどうするんだ、と。
丁度、八号館は外壁工事を行っている。そこを利用するか。いや、待てよ。降りる場所にゾンビがいたらどうしようもない。それに自由に動けなくもなる。やっぱり階段しかないか。
外に直接続いている階段は一番危険だ。中の階段を使って九号館のほうに抜け出せれば。外に出られさえすればこっちのもんだ。
「よし、行くか。ちゃんと着いて来いよ」
本当はどうでもいいけど。
歩いている時間はない。後々の体力も考慮しつつ走り出した。
階段を駆け降りる。順調だ。廊下の向こうにゾンビがいたりしたが問題はない。
だがすぐに問題は起きた。下の階からゾンビがゆっくりと上がってきている。三体いるようだ。今は二階。あと一階分降りられれば外に出るというのに。ここは二階だから窓から飛び降りられないこともない。だが少しでも足を痛めてみろ。逃げられるものも逃げられなくなるぞ。いや、確か第二研究棟と八号館の間は坂道になっている。ということは後少し移動すれば問題なく窓から逃げ出せる。
「いけるな」
「うあっ、ゾンビだ!」
「大丈夫だ、慌てるな。走ってくることはないから、スピードを落とさなければ問題ない」
いちいちうるせぇな、黙って着いてこられないのか。
今さらゾンビを見たぐらいで驚くなよ。ああ、こいつはゾンビ見るの初めてなのか。
階段を戻り、なんとか窓から外に出ることができた。
さて、どこの道を使って大学の敷地を抜け出すか。道は三つある。バスターミナルの道か、オーバーブリッジの下か、バイクの駐輪場の脇か。二番目はまずない。すでにゾンビでいっぱいのはずだ。一番近いのは三つ目なのだが。ま、そこでいいか。いざとなれば駒を使えばいいだけだし。
出口に向かうにつれゾンビが目立つようになってきた。ゾンビは俺たちに気付くとこっちに向かってくる。が、どいつもこいつもノロノロしていて逃げるのはとても楽だ。だが後ろの奴はウザい。ゾンビよりウザい。
「ななな、なんで、なんであんなにゾンビが。ねえ大丈夫なの? 大丈夫だよね? ねえ?」
うるさいなぁ、こいつは。いっそここで殺しておいてやろうか。
「あああ、もう嫌だ。疲れたよぉ。もう帰らせてよぉ」
はあ、仕方のない奴だな、そこまで言うなら休ませてやるよ。やさしいな、俺。
「田辺」
「な、なに?」
「今メールが届いたんだが、どうやら駐輪場にゾンビが溜まっているようだ」
「え、ええ、どうすんの? すぐそこだよ」
「スクールバスの方まで戻るのは時間のロスだからオーバーブリッジの下から出る。田辺は先にそこから出ていてくれ。俺はメールをくれたやつと合流してから向かう」
「わ、わかったよ」
田辺は言われた通りにそっちに向かっていった。バカだな。どうして人の言葉をすぐに信じるんだか。
「んじゃ、邪魔者が消えたところで行こうかね」
外には楽に出られた。それでも歩くことなく、駅に向かって走り続ける。
あ、どうせ殺すんなら死に顔でも拝んでおくべきだったな。きっとあのアマみたいな顔をするんだろうな。見られなくて残念だ。
「うわああああああああああ!」
田辺だ。いい声してんな。今のお前、一番生き生きしてたぞ。お前の叫び声はきっちりと俺が脳に焼き付けておくから安心しろ。
駅に着く前に部屋に寄っていこうか。別にいいか。携帯と財布さえあればどうにでもなる。……いや、ならないぞ。電車がまともに動いているのかが怪しい。部屋に戻って自転車で都心付近まで向かうか。
「とりあえず実家に帰るか。そのうち自衛隊あたりがことを治めるんだろうしな」
念のため親に連絡を入れておこう。
「ふぅ、なんとかなりそうだな」
物足りなさはあるが、まあいいや。
連絡を入れるために俺は携帯を開いた。
「あ」
そこで非常に勿体ないことに気付く。
「財布、盗み放題だったじゃん、くそ」