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ミロクの真相

岡田茂吉師論文です。

ミロクの真相


『病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何?』昭和10(1935)年9月15日発行


 前項に述べたごとく、阿弥陀が月の弥勒であって、月光菩薩ともいわれ、釈迦は土の弥勒である。この二大尊者が、その仏法を基本としての、伊都能売大神より委任せられたる、救世的活動は、すでに終りを告げている事である。釈尊が、仏滅の世を予言せられた事は、今日においてあきらかになったのである。

 日の弥勒たる観音が、二千五百年、秘仏として、隠身的救いを垂れ、阿弥陀釈迦の下位に甘んぜられ給うていたのは、なぜであったのか、それは、夜の世界の期間であったからである。物的太陽が地球の陰に在って、月に光を与えつつ、黎明期を待たるるのと同一の理である。故に、今日まで月の阿弥陀が輝いていたのは、夜の世界であったからである。夜の暗さは、悪の活動に便である事を考えたら、今日までの世界の悪者横行の歴史は解るはずである。

 今や黎明が来たのだ。太陽が、日の弥勒が出たのである。万界の暗を照破して、世界は、白昼のごとくならんとするのである。その光の伝達機関として生れたのが、我観音運動である。

 五は火であり、日である。六は水であり、月である。七は土である。

 今日まで、七の弥勒たる、釈迦が説いた仏法を主とし、六の弥勒たる阿弥陀を次とし、五の弥勒たる、観音を、最下位としたのは、七六五の逆の順序であった。

 釈迦が予言した、五六七ミロクの世は、仏滅後となっている。しからば、その仏滅までが、七六五であって仏滅後が五六七である訳である。故に、七六五は、五六七の逆である。即ち、逆さである。言霊学上、釈迦はサカである。釈迦の名も、この意味から出たのである。

 日の国人くにびとが土を又月を拝むと言う事は逆である。東から西を拝むと言う事も、同じ理である。しかしながら、夜の世界であった期間は致し方がない。我日の本人が、外国文化を謳歌し、外国の神仏を讃仰したのも、相応の理であって、止むを得なかったのである。

 何の断りもなく、時が来れば、太陽は、東天静かに昇って行く、それは、物質的太陽であるから、誰人も見得るのである、が、霊的太陽は、悲しい哉、眼には視る事が出来ない、しかしながら、時の力は、世界万民に判らせずにはおかない、誰が否定しようが、さえぎろうが、物質の太陽は大空高く、昇ってゆく(ごと)く、霊的太陽の光は日に輝きを増すのである。何と素晴らしい事ではあろう。何千年間の夜が明けると言うのだ。

 ここで、今一つ言わして貰おう、仏教の真髄は真如しんにょであると釈尊が言われた、真如とは、真如の月の事である。それは、悟りを得た瞬間、心の空は、皎々(こうこう)たる真如の月が照らすごとくだ、と、しかるに、その真如の月は、今や、有明の月となって、西山にうすづき初めたのである。仏教に力が無くなってゆくのはそれなのである。

 釈尊は、五六七の世は、五十六億七千万年後だと言ったからとて、呑気に澄ましている仏者がある。考えてもみるがいい、その時から、わずか二千五百年経った今日でさえ、これ程の娑婆の変り方である。何ぞ、五十六億七千万年後などという想像だも出来ない、遠い世を予言をする必要が、どこにあろうか、これこそ全く、五六七の謎を秘められたのである。


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