三話、ねこみみ伯爵と地の騎士(クルセイダー)2
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目の前に置かれた一冊の本。
それを、椅子に正座をしながら美鶴は半日以上、じ、と見つめたまま静止していた。
最初は半刻ほどの予定だった。……けれど、余りにも無い成果に絶望し、少しでも手がかりが掴めるまで‥と、そうして本と向き合ってから今まで、ついに半日という日数が経過してしまった。
しかし、本当に微塵も見える気がしない。
現在、美鶴が何と格闘をしているのか――というと、ギルフォルドが渡して来た『見えない鍵の掛かった本』とである。
最初はまだ、彼が言っていた『ミツルは魔歌が使える』という自信満々な言葉にほだされ、何となく出来るような気がしたのだ。けれど実際部屋に戻ってやってみると、あの場所で美鶴が見たような扉を想像する事も、不思議な空間に導かれるような……そんな感覚も無い。
(やっぱりあれは、ギルの力だったのではないでしょうか‥)
微塵も成果を得られない今、寧ろそれ以外、可能性として考えられることは無かった。
扉の蔦を燃え上がらせた炎も、扉が在る場所へと導いたのも。その全てがギルフォルドの仕業なのだ、と言われても今更美鶴は驚かないだろう。
つまりは全て、あの規格外の魔歌使いが居たから、と結論を出そうとした所で、部屋の扉がトントンと叩かれて、扉の影から立って歩く三毛猫――チチルが顔を出した。
「ミツル、お菓子食べないかにゃ?」
「あっ‥、もうそんな時間ですか」
「そうだにゃ。きっとミツルもギルの坊に影響されて、時間の感覚を忘れかけてるんだにゃ!」
「……ギルに、」
確かに、彼のあのマイペースさは独特のものがある。『連れて行きたい場所がある』とだけ言い置いて結局一日後に来た時も、特に驚く事は無かった。
大体、今現在も、用事があるとだけ言い置いて、結局数日間は姿を消して居る状態なのだから……。
ギルフォルドのマイペースさに巻きこまれて流されている部分は多いにある、と美鶴は断言できた。
「でも、ギルに流されるな‥って方が無理じゃないですか?」
「僕は流されてないにゃ」
エヘン、と胸を張って居るチチルはとてつもなく可愛い。
可愛いが、三毛猫の言葉に優しく『そうだね』と言ってあげることが出来なかった。
恐らく何よりも……美鶴よりも更に、チチルはギルフォルドの影響を受けてしまっている気がするのだ。
それを伝えるべきか黙って居るべきか。その判断をし兼ねていた美鶴の思考を遮り、チチルが両手に持っていたお盆を美鶴に向けて差し出した。
「……と、そうだったにゃ。僕はミツルにお菓子を持って来たんだったにゃ」
「あ‥そういえば、そうでしたね」
「にゃー‥。僕まで坊に影響されたら、世界は終わっちゃうんにゃから! 気をつけないと」
「………が、がんばって」
「にゃ!」
嬉しそうに笑顔で頷くチチルの姿に、美鶴は自分がそれ以上何かを言う前に口を閉じる事にした。
何だかんだで、チチル自身もそれなりに一直線な思考回路をしているのだ。ギルフォルドを説得する事が『人生全てを賭けても間違いなく無理だ』と断言できるように、チチルを説得する事も、それに近い気がする。
(やっぱり……一番影響を受けて居るのはチチル、な気がするのですけれど)
そう考えて、苦い笑みを美鶴が浮かべた――その時。
下の階でチリンチリンッと軽いベルの音が響いた。その音に、チチルの小さな耳がピクリと持ち上がり、美鶴も同様に目を見開いて三毛猫へと視線を向けた。
「今の音……」
「ギルの坊の音じゃ無かったにゃ!」
チチルが言って居るギルフォルドの音、というのは‥この宿の玄関口に設置された鐘は、どういう訳か人によって違う音を鳴らす。
ギルフォルドであれば、カランッと氷をガラスで弾くような澄んだ音を。美鶴であればそれを少しだけ間延びさせたカラーン、という音を、といった具合で、だ。
――その鐘が、今まで聞いたことのあるどの音とも違う音を鳴らした。
それはつまり、この精霊と立つ三毛猫、それから公爵候補の魔歌使いしか居ない場所へと、新しい来訪者が現れた、という事ではないだろうか。
「ちょっと僕、行って来るにゃ!」
「あ‥なら私もついて行きます」
「うーん。ミツルは危ないから、下に来ないで上から観察していて欲しいにゃ」
チチルの言った『美鶴は危ない』という言葉に首を傾げつつも、この宿の主はチチルだと思い出した美鶴は、目をくりくりと見開いて髭を震わせる三毛猫に向かって、了解の意味を込めて頷いた。
それに満足気に尻尾を揺らし、チチルは美鶴の部屋を出て行く。
「はいはーい、今行くですにゃー」
軽い足取りでととととっ、と階下へと降りて行くチチル。
小さな背中が下へと降り立つと同時に、美鶴も丁度玄関の位置からは死角になっている柱の影に隠れ、ひっそりと階下へと目線を向けた。
まず美鶴の目に入ったのは、漆黒の外套を纏った異様な風体の『多分人間』……だと思われる人物である。
この世界の特徴を本で読み知っている美鶴は、一応知識上ではこの世界には沢山の人に近い獣が居る事を知って居る。しかし実際にそれを判断しろと言われても、ギルフォルドとチチルといった‥ある意味分かりやすい二人組み以外を見たことが無いため、判断することも難しい。
階下に居る人物はどちらなのだろうか、と……じ、と注視していた美鶴の視線の先で、ふと外套の下から鋭い視線を向けられた気がした。
(え、え? もしかして私‥ばれているの?)
余りにも人間離れした敏感さに、若干足を部屋の中へと戻したくなった。……が、その前に、外套を羽織った人物の目線が何事も無かったかのように逸らされ、美鶴はホッと息を付く。
そんな彼女の心情を知ってか知らずか、チチルが階下の人物へとふかふかの片手を、気前良く上げた。
「ディー、お久しぶりだにゃ。坊以外が来れることにビックリだにゃ! あれ? それとも……魔女様に手伝ってもらってここに?」
「方法は話さなくても分かりますよね。兎に角チチル、俺の目的を達成させてください」
「……目的ってもしかしてギルの坊かにゃ?」
「もしかしても何も‥俺がここに来る理由が他に何かあるのです」
美鶴の位置からは、相手の顔は見えない。
ただ一つ推測出来ることは、ポツポツと聞えて来る声は、女性と言うには些か低すぎる声で、身長や体格からみても恐らく男性なのだろう。
溜息混じりに米神を押さえた彼は、「それから」と呆れを含んだ口調でチラリと美鶴の方へと目線を移した。
「それから、そこで不出来な間諜もどきをやっているあんた。――あんたの話も、ちょっと聞きたいんですよ」
チチルに『ディー』と呼ばれた彼は、そう威圧を込めて美鶴へと言葉を投げつけ、次いでチチルの静止を振り切りながら階段を上がってくる音がした。若干足音に金属音が混じっている気がするが、それは恐らく足元に見え隠れしていた剣が立てる音だろう。
そう冷静に推測する美鶴の思考を遮り、玄関へと目線を向けたまま固まっていた美鶴に、スッと黒い影が掛かった。
淡いランプの光を遮り、目線を向けなくとも気配で感じる『その人の怒り』。
恐る恐る視線を向けた先で、赤味がかったブラウンの瞳がこちらを見下ろしていた。
「あ、あの……」
「ああ自己紹介がまだでしたね。俺はユーディスカ・ラドアドル。現在、王国騎士団に所属している、これでも列記とした騎士です」
「騎士さん……ですか」
「はい」
それだけ言うと、ユーディスカと名乗った男は美鶴を頭上からじろじろと嘗め回すように見つめ、顎に指を当てて考える様な仕草をした。
鋭い、むしろ鋭過ぎる瞳に見つめられ、流石一王国の騎士様と思う一方で、早くこの拷問が終わってくれないかと美鶴は心の中で願う。何にせよ、兎に角彼の瞳は怖いのだ。
階下で見た時は、ただ単に何かに怒っているだけなのかと思ったのだが……こうして間近で見てみると、若干殺気がこめられて居るように思える。
その視線から逃れるように、思わず身を竦めてしまった美鶴の姿に、ユーディスカは僅かに苦笑を浮かべ、するりと美鶴から視線を外した。
「すみません、睨んでいた訳では無いんですけどね」
「こちらこそ‥すみません」
「いえ。最近は騎士団連中とばかり行動していましたから、俺が油断をしたのも確かですよ。……それに、大抵、俺の顔を見た女子供は怖がります」
そう言って若干目尻を落すユーディスカは、拗ねた様な表情を浮かべる。
身長の高い――しかも、自分よりも明らかに年上の彼が不意に浮かべたそんな表情に、それはユーディスカ自身も治しようの無い、しかも自覚の在る欠点なのだろう。
「ユーディスカさんは、背が高いですし‥それに体格も大きいですから。目線が合わないのが怖いのだと思います」
それを察した美鶴が、フォローとばかりに言った言葉に、ユーディスカはやや目を大きく見開き、再び何か考えるように顎に指を当てた。
初対面の相手に、流石にこれは図々しかったか、と美鶴が思いはじめた時――、目の前で考え込んでいたユーディスカが不意に床へと膝を付き、美鶴を下から覗き込む姿勢でゆっくりと目線を合わせて来た。
「でもですね、少女A。これだと恋人を口説くただの馬鹿男になってしまいますよ」
「――ッ!」
「もしくは深層の姫君に傅く騎士……か。騎士の俺に膝を付かせるんです、あんたは何処かの令嬢でないと、格好がつきませんよ?」
「……そ、そんな」
ギルフォルドとはまた違った意地悪な笑みを浮かべ、ユーディスカは「まあ」と気を取り直すように呟き、姿勢良くその場に立ち上がる。そして腕を組み、美鶴の姿を頭上から見下ろした。
「まあ、冗談ですけど」
「ユーディスカさんは‥意地悪です……」
「ディーで結構ですが」
「え?」
「俺の名前。言い難いでしょう? 長いですし、あんたは発音にも慣れてない」
唐突な申し出に、出会ったばかりの頃の『唐突で自己中心的だったギルフォルド』と――訂正、『現在も変わらず、唐突で自己中心的なギルフォルド』とかぶる。しかし、ギルフォルドが何の目的かは分からないが、美鶴に最初から友好的だったことを考えると、ある意味ギルフォルドの方がマシだった気がしないでもない。
出会ったばかりの人物に、あの変人魔歌使いを重ねるというのも、何とも失礼な話だと思うが。と、ギルフォルドが聞いたら眉をヒクリと上げて『もう一度言ってみろ』とでも言われそうなことを美鶴は考えつつも、ユーディスカの提案に素直にコクリと美鶴が頷く。
すると彼は満足気に笑い、チチルへと振り向いた。
「それから、俺はギルの――ギルフォルド・ディ・リアンデの知り合いですから。不審者じゃありませんから安心してくださいね。ねぇ? チチル」
「そうですにゃ。ディーは、坊の幼馴染で悪友、あと……魔女様のお弟子様ですにゃ!」
そして次に何を言うかと思えば、とんでもない爆弾発言だった。
似ている、似て居るとは思っていたけれど‥まさか幼馴染で更には同じ師匠を師にしていたとは。
(この二人を世話していた魔女様って……どんな人なのでしょう)
想像に任せて頭の中に描いてみようとするが、どうにも想像をすることは今の美鶴には叶わなかった。
そんな美鶴を、じ、と何かを探るように観察して居たユーディスカ。
だが、暫らくして‥探ることに飽きたのか探っても無駄だと判断したのか、若干頭痛の弱まった頭を抑え、何やら楽しげに微笑んだ。
「とはいえ、ギルが何を思って騙していようが――確かにあんたは、からかい甲斐があって楽しい。言うなれば、ルー属性って所でしょうか」
「……? 何か、言いましたか?」
「いえ、何も」
ふふふ、と楽しげに笑うユーディスカの姿に、思考の渦に落ちていた美鶴はハッと顔を上げる。
そんな美鶴に対しても何処か楽しそうに笑い、ユーディスカはスッと腰を落とし、美鶴に視線を合わせるようにして言葉を続けた。
「確かミツル、と言いましたか」
「はい」
名乗っただろうか?と小首を傾げる美鶴の姿を見つめ、ユーディスカは遊びを誘うような軽い口調で、こう言い放った。
「俺はね、混沌の魔歌使いを捕らえに来た騎士なんですよ」
「……え、‥え?」
「身元が分かって居るので不審者――ではありませんけど。でも、ギルを捕まえに来たという意味では、異質者ではありますかね」
「ええ、と……?」
それはどういう意味なのだろうか、と頭の中で思案をする美鶴。そんな彼女をどんな感情が篭って居るのか読めない表情で見つめ、不意にニッコリと微笑む。
「彼は、ギルフォルド・ディ・リアンデは、稀代の魔歌使いであり‥同時に稀代の大犯罪者でもあるんです」
「そ、れって…‥」
「王国の宝であった魔歌の楽譜を燃やし、歴史的価値のあった屋敷を壊滅させ、更には――そこに住んでいた娘の心臓を、抜き取った」
そんな事を、あのギルフォルドが行ったというのか。
余りにも信じられない事実に、美鶴が半ば呆然として床を見つめて居ると……チチルが同情するような視線をこちらに向け、一歩足を踏み出した。
「美鶴……それは事実にゃな――ぐっ」
「チチル、これ以上彼女を困惑させるのは止めてあげてください。きっと……ギルも本意ではなかったのですから」
「にゃぐぐぐぐぐ」
何かを言いかけた三毛猫の口を押さえ、ユーディスカは眉間を押さえて引き攣る頬を必死で押さえ込んでいる様だった。
それを見つめ‥美鶴も彼が本当のことを言って居るのだ、と確信する。
正し、あのギルフォルドが……と思うと、美鶴はそれでも未だユーディスカの言葉を信用する事が出来ない。あのギルフォルドが、もしもそんな犯罪者紛いの事をするとすれば――それは、世界の戒律に背いて全ての神を敵にする、位のことをしでかす気がするのだ。
そう思う時点で、彼女の思考が相当ギルフォルドという人間に侵食されているのだが、美鶴はそれに気付かずに、目の前で目を伏せるユーディスカへと視線を向けた。
「ギルは本当に……?」
「ええ。事実、彼は聞かれたことには大体嘘を付きませんから、聞いてみてくださいよ。――この塔から『ギルフォルド特有の魔歌ならば出られるのか』と」
「まさか、」
「そのまさかです。彼は自由にこの塔へと入る事が出来る。けれど、彼以外の人間……俺のお師匠様やあんたみたいな例外は除きますけど、それ以外は入ることが不可能なんです」
そうきっぱりと告げられたユーディスカの言葉に、美鶴は愕然とした。
もしもそれが本当なのだとすれば、ギルフォルドは彼女を騙し、そして影で嘲り笑っていたという事になる。いささか後者は考えすぎとも言えるが。
……それでも、騙していたという事実は変わらない。
(何のために、ギルは……)
そこまで考えて、頭の中にある事が閃く。
(鍵……? あの、本の鍵を、ギルは解きたかったのでしょうか?)
出会ってから初めて、ギルフォルドが口に出して美鶴へと頼んで来た頼みごとである。今まで頼るばかりで頼られることの無かった美鶴は、そんなギルフォルドへの感謝の印に――と、本の鍵を解くことにしたのだ。
ギルフォルドは、それを『道楽だ』と言った。
しかしユーディスカの話を信じるのであれば、彼は犯罪者であり‥幼馴染で同志でもある騎士に追われ、この限られた人間しか入れない場所から出ることをせずにあえて篭っている。
それは本当に、道楽という言葉で片付けても良いことなのだろうか。
(あの本には、ギルが探して居る何かがある事は分かっていましたけれど。……それ以上に、何か意味が……ある?)
例えば‥彼の言う忘れられた魔歌であったり、潰えた神話時代の歴史であったり。それ以上の価値を持つものであったり。
――しかし、それを考えれば考えるほど、この世界へと来てから今まで、美鶴は自分がどれだけギルフォルドへと依存をしていのかを、そこで初めて知った。
それでも自分は‥ギルフォルドを必要としている。それは例える術など無いほどに。
「ミツル。ギルフォルド・ディ・リアンデは、あんたを騙していたんですよ」
悩み、沈み込む美鶴に向けて、ユーディスカは眉を顰め、顔を引き攣らせながらも言葉を続ける。
「俺の罪深い幼馴染は、……あんたを、騙して利用していたんですよ」
そこまでが限界だった。
この世界へ来てから今まで、不器用ながらも優しかった、不躾ながらも穏やかだったギルフォルドを、それ以上疑いたくない。‥そんな想いに囚われた美鶴は、自分の耳を塞ぎ、ユーディスカをやんわりと押し返し、宿の階段を駆け下りた。
「ミツル! ミツル、待つにゃ!」
しかし、そんな美鶴を停めるべくかけられたチチルの声は、カランッと‥先に鳴った音とは違う音を立てて開かれた扉の音に遮られ、その先を紡ぐ事は無かった。
代わりに、美鶴のよく知った長い指が、そっと美鶴の額を突き、彼女の行く手を阻むと、その手がそのまま美鶴の肩を握り、ゆっくりと引き寄せた。
「どこへ行く。また迷うぞ、ミツル」
「……ギル」
くつくつと楽しげに笑い、しかし‥いつもの様にいじけた表情を浮かべない美鶴の姿に、ギルフォルドは訝しげに赤い瞳を細める。その赤い――血のようなルビー色の瞳に見つめられた美鶴は、やや視線を逸らし、階上に居る未だに外套を羽織ったままのユーディスカへと視線を向けた。
「……ディー。まさかこんなに早く、ここまで辿り着くとは」
「はははー。ま、あんたの対の騎士を舐めないでくださいよってことですよ」
「ディーが‥ミツルに何かしたのか」
胡乱気な視線でユーディスカを見つめる赤い宝石。その瞳の強さに軽く肩を竦め、彼は美鶴からは見えないようにギルフォルドへと向けて、赤い舌を出して見せた。
「ディー、」
「どうでしょう。どうでしょうねぇ……? どう思います、チチル」
「僕に聞かないで欲しいにゃ……。僕には、圧死と絞殺、どっちかを選べって言われてるのと同じですにゃ」
「良く分かっていますね。俺たちを」
たち、という辺りが、かなり強調されて囁かれた言葉は、チチルの全身の毛を逆立たせ、その場にカッチリと氷付けにさせた。
それに気付かずに、美鶴は自分の額が当たっている温かく広い胸へと視線を向け、その上にある端正な顔へと視線を向けていく。この何日かの間に、『格好良すぎる』と形容できる彼の顔にもやっと慣れて来て、一定以上近寄られただけで赤くなっていた自分を少しだけ克服できて、ギルフォルドという人の性質を少しだけ理解できて、自分にも出来る事が見つかって――、なのに、何故彼は‥ここから出られるという事実を自分に言わなかったのだろう。
塞ぎこむ美鶴の姿に、ギルフォルドはやはりどこか訝しげに眉を顰め、美鶴へと問いかけた。
「何か聞きたい様子だが。何かあるのか?」
「………、ギルは」
「俺が、どうした」
そこで言葉を区切る美鶴の顔をしたから覗き込み、赤い瞳が真正面に来る。それに気後れて言葉を失ってしまった美鶴――の代わりと言った風に、階上から声が降って来た。
「ギルはここから『特有魔歌を使えば簡単に出られる』、そうですよね?」
「そうだな」
簡単に答えられた言葉に、美鶴は思わずビクリと身体を震わせる。
つまり彼は……ギルフォルドは、美鶴を騙していたことを、なんら歯牙にもかけて居ないのだと、美鶴に思わせたのだ。
そんな彼女の変化に気付かないギルフォルドの代わりに、ユーディスカが意地悪く口を歪めた。
「それはミツルを騙していた、ってことでしょう?」
「……その答えは以前にも回答した筈だが」
「何と?」
「俺は――、……ッ!」
ギルフォルドがその先を口にしようとした時、彼の腕の中で大人しくしていた美鶴が突如彼を突き飛ばした。
暫し、呆然として目を見開くギルフォルド。その表情に美鶴は瞬間怯む――が、すぐさま踵を返すと、開いた宿の扉から外へと飛び出して行ってしまった。
「ミツル!」
慌てたようなギルフォルドの声が背中にかけられる中、美鶴はクレーネの村を抜け、入り組んだつくりをして‥尚且つ惑いの魔歌などという得体の知れないものが掛けられた塔の中へと、足を踏み入れた。
そしてパタンッと扉を閉め、一歩、足を踏み出す。
……途端、視界が一気に移り変わり、後ろに在った筈の扉は無くなっていた。
(ギルは、……私を‥)
泣きたい衝動を堪え、その場に座り込み膝を抱えて蹲る。
やはり騙していたのだ、そして恐らく……利用しようとして居た。
次期公爵候補などという、この世界において高い地位を持つ彼が、美鶴などという異邦者に興味を持ったこと自体を疑うべきだったのに。
だからこそ、思った。
例え自分の存在が、在っても無くても構わない世界であっても、元の世界に帰りたい、と。ここに来て、ギルフォルドに出会って以来、初めてそう思った。
――と、その時。パサッと音がして、美鶴の横へと本が落ちて来た。
慌てて顔を上げると、この塔では余り珍しくない、本棚から本が何冊か落ちる、という現象が起こったらしく、美鶴の横には数冊の本がばら撒かれていた。
(これは……ッ)
そこに在ったのは、三冊の本だった。ただしその内の二冊は、その本は辺りに積み上げられている本とは違い、美鶴にも見覚えがあるものだ。
一冊目は、鍵とだけ書かれ。
二冊目は、先まで美鶴が読み鍵を外そうとしていたもので。
三冊目は、この前‥ギルフォルドが『見つけた』と言っていた、深い青色に輝く本である。
(それがなぜ、ここに?)
首をかしげながら本を手に取る。その瞬間、美鶴は一瞬の光に包まれる。
「……? 」
そして気付いた時には既に――あの日、ギルフォルドの声に導かれる様に描いた、色付いた想像の中の空間へと‥美鶴は足を踏み入れていたのだった。