二話、ねこみみ公爵と女神の伝説2
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ととととッ、とととととッ、とととととッ。と、規則的に響く音。
人の気配がひとつとしてしない森の中では、その音がやけに響きわたり、机の上に本を広げ、魔歌の資料を読んでいた美鶴の顔を上げさせるに十分だった。
ついでに‥この森の中に有る精霊たちの村は、チチルに聞いたところ『ギルの坊は、クレーネの村って呼んでたにゃ!』と、言うことで、ギルフォルドが名前を勝手に付けたにしろなんにしろ、一応クレーネの村という名前が存在しているらしい。
「チチル、これを」
「はいにゃ!」
「それから、あれを」
「はいにゃ!」
――と、数日前の事に頭を巡らせていた美鶴は、現実世界で響く二つの声音に、慌てて考え事を中断させた。
そして、蔓の模様が枠に綿密に掘られた自室の窓を開き、音がする方向へと目線を向ける。
「チチル、あれは?」
「はいにゃ!」
「……あと、それを」
「はいにゃ!」
開いた窓の向こうでは、何かを指示しながら両手に本を持ち、それを魔歌か何かで物凄い早さでページを捲りながら文字へと視線を落として居る、ギルフォルド・ディ・リアンデと、その近くで十冊ほどの本をあちこちへと積み替え、探し当て、と小さな身長で器用に動き回る三毛猫、チチルの姿があった。
どうやら、規則的に響いていた『とととととッ』という音は、チチルが本を積み直して居る音だったらしい。
(何やってるんだろう……?)
そんな二人(実際には一人と一匹)の姿に、美鶴は思わずと言った風に首を傾げた。
何せ、ギルフォルドがあの早さで難しい歴史書や文献を読み漁っているとは思えないし、チチルがギルフォルドの指示に従って、あの早さで本を見つけ出して居るとは思えなかったからだ。
こちらに全く気付く様子を見せない黒髪に猫耳のギルフォルドの姿に、美鶴は手に持っていた本をパタンッと閉じて、二人のところへと行く事にした。
ここ数日、二人の様子を見ていたところ……基本的に、ギルフォルドは見た目や行動、言動に反して案外無害であるし、チチルに至っては、純粋な好奇心だけを頼りに動いて居る部分が大きく、つまりは二人とも、何か起こしても全く以て悪気はないのだ。
しかし、美鶴を元の世界に戻す方法を探してくれているのか、塔を出る方法を本当に探して居るのかと聞かれると――それは首をやや斜めに振りたくなる。なんとも判断がし難いのだ。
「チチル、そっち」
「はいにゃ!」
「それじゃない、そっち」
「はいにゃ!」
そんな、特に変わったことの無い数日間を思い返していた美鶴の耳に、同じ様に特に変わった様子を見せない、普段通りマイペースなギルフォルドの姿が映る。
周りの色とりどりの精霊が小言や愚痴を言わないのを良い事に、クレーネの村、中央付近に大きな机を出現させ、淡いランプの光を頼りに、そこで書棚から運んで来た本を読み漁っているのだ。
ギルフォルド本人が言うには、『俺が知らない場所を歩き回って居たら、美鶴が一人になって寂しいだろう?』と、気遣って居るような、気遣いの場所が違うような台詞を言っていたのだが。
「美鶴、そんな場所に立って居るな。ここに座れ」
「え? あ、はい」
ずっと視線が文字に在ったため、気付いていないだろうと思っていた美鶴は、不意に呼ばれた名前にビクリと身を強張らせた。
目を見開いて驚く美鶴の姿に、ギルフォルドはいつも通りの口角をつい、と上げた笑みを浮かべてみせる。
じ、とギルフォルドの耳と横顔を見つめて観察して居たと思っていたのだが、どちらかというと逆で、敢て観察されて居た上に、自分を観察する美鶴を逆に観察して居た、というのが本当のところだったようだ。
意地の悪い、と眉を顰める美鶴へと楽しそうな笑顔を向け、次いでチチルへと視線を上げた。
「チチル、休憩をしよう」
「はいにゃ! 僕はもう、へとへとで倒れちゃう寸前だったですにゃ。ミツル、良い所へきてくれたですにゃ‥」
「まだまだ。リレイアの助手をしていた頃よりはマシだろう」
「お嬢は暴君ですからにゃ……」
チチルの言葉に、「確かに」と同意を示し、ギルフォルドは立ったままの美鶴へと視線を向けた。
「美鶴、ここへ座れ」
「はい」
二度目になる言葉だったのだが、ギルフォルドは特に気にした様子は無く、素直に横へと座った美鶴へと面白そうな目線を向けて来た。
そして、面白気な相好を崩すことなく、肘掛へと肘を付くと、長い足を組んで美鶴を赤い瞳で覗き込む。
「……体への影響は何もないか?」
「クレーネの村で、ですか?」
「いや、俺が聞きたいのは全体的に、だ。特に体調が悪化する事も、変に頭がふわふわとする事も無いか?」
「そうですね‥。不思議なほど、普段通りです」
寧ろ体が軽く感じさえするし、普段よりも勘が冴えて居る感じがする。
例えば、普段より長く活動していても疲れをそれほど感じなかったし、取りあえず魔歌について勉強しようと思えば、チチルが使っていたという、子供用の教科書を見つけたり。
そんな些細な事なのだが、美鶴からしてみれば、異世界様々と言えるだろう。
そんな事を考えて居た美鶴を、隣に座っていたギルフォルドは暫らく見つめ――けれど、特に美鶴が嘘を付いている気配が無いと解ったのか、不意に視線を逸らして再び文字の上へと戻して行った。
興味を失くしたような……いや、実際彼のことだ。事実『興味を失くした』のだろう。
暫らく、先刻の様に物凄い速さでページを捲る事はせず、ゆったりとページを捲くる音が響く。
「あの、ギル‥」
「どうした」
「さっきは一体何をして居たんです?」
「失われた魔歌を探していた」
あの速さで、とは美鶴は口には出さなかった。
ギルフォルドの事だ。今は気紛れでゆっくりとしたペースで読んでは居るものの、本来はあの驚異的な速読が彼にとっての普通なのだろう。
ちらり、とギルフォルドの整った高い鼻へと視線を向ける。その後で、赤い瞳が向ける目線の先へと視線を向けた。
そこではじめて美鶴は、彼が読んでいた本の異様さに気が付いて、目を見開く。
「本が、光ってる……?」
ギルフォルドの手の下。
そこにひっそりと置かれて居た本が、蛍の様な明滅を繰り返し、深い海のような濃い青色をして光っていたのだ。まるで、ギルフォルドの魔歌がうたわれたような美しい色合いに、美鶴は「ほう、」と息を吐き出す。
その美鶴を、ギルフォルドがただただ、じ、と興味深そうな目で見つめて居た。
何かを問いたそうな、それでいて何処か楽しげな、何とも言えない喜色を含んだ目線に、美鶴はルビーの様な強い赤の瞳を見返して首を傾げた。
「なんです?」
「見えるのか、ミツル」
「……え? はい」
「何色に見える?」
「……ええと、濃くて深い、深い海の底の様な色です」
色が見えることに何か意味があるのだろうか、と再び目線を本へと戻した瞬間。――突然ギルフォルドの手が美鶴の肩を掴み、美鶴の後頭部をグッと引き寄せると、長い黒髪ごと胸の中へと抱き寄せた。
「………ッ!」
「面白い、本当にミツルは面白い!」
抱きこまれた、という事に気付くのにやや数刻必要として。そして、顔が真っ赤になっているという事に気付いたのも、やや数刻かかってしまった。
けれど、美鶴の戸惑いなど『なんら構わない』と言いたげに、突然胸元から美鶴を引き離すと、机の上に置かれた本を、それはもう大破するのではないか、と思うほどに勢い良く叩いた。
「これは、ミツルが言った通り水の『魔歌本』だ。しかもただの本ではない。俺が知らなかった古の魔歌の一端を担う旋律が綴られ、俺はそれを手に入れた」
「それって……ギルが探して居る魔歌を見つけた、ということにはならないのですか? ……いえ、もしかして‥失われた魔歌というのは、一つではない……のです?」
「最初に説明しなかったか」
「はい、探して居るということ以外は何も」
「そうか。……失われた魔歌というのは、全ての属性を同時に奏でる‥いわば究極の魔歌だ」
そう言って、すい、と美鶴の前へと一冊の本を差し出す。
「魔歌というのは、方程式だと考えれば良い。それが難しければ、物語だ。どんな作家が書いたどんな物語も、このページ全てがあるからこそ最終的な結果、結末が起こり得る」
「魔歌は、何か望む物を導き出すための、手段? ということですか?」
「ああ。だから俺は、古の魔歌を『失われた魔歌』と呼び、全ての物語のページを集めるために此処に篭って居る」
「それで……その本が、その中の一つであると」
そう問いかけてみれば、ギルフォルドは意味深にくつくつ笑い、再び美鶴へと向けて手を伸ばす。
またか、とビクリと美鶴が身を固める――と、その広い手はポンポンと肩を軽く叩いただけで、直ぐに引っ込められ、目線を落とした先の尻尾が、ゆらゆらと愉快そうに左右に揺れて居るのが見えた。
「またからかいましたね」
「俺の行動が解るだけ、ミツルも成長したな」
「……ギルの行動と思考回路は解りやす過ぎます」
む、と表情を歪めて抗議の声を出すが、ギルフォルドにその効果があったのかどうかは不明でしかない。何せ、顔を上げれば彼は綺麗な唇の口角を上げて、嫌味なほどに似合う不敵な笑みを浮かべているだろうし、その笑みに一々驚いて、彼女自身が目を離せなくなってしまい、それどころでは無くなってしまうからだ。
なんとも言えない気分に陥った美鶴は、話を逸らすように言葉を紡ぐ。
「でも、ギル」
「どうした」
「話は変わってしまうのですけれど、どうして私が光って居る事が解って、そんなに喜んだのです?」
「そのことか、」
どうやら話を逸らす事にはそれなりに成功したらしく、ギルフォルドは耳をピンッと立てて、考え込むように顎に指を当てた。
暫らくの間、彼はそうして考え込む。
そして、チチルが頭にお盆を危なっかしく持ちながらこちらへとやって来た頃。漸くゆっくりと口を開いた。
「選択肢というものは、常に正しい道への鍵を探し当てる事へと通じる。しかしそれに迷いやすい人間が居たとすれば、……しかも、それが迷いやすく、別の選択肢を探し当てる人間であったとすれば。鍵を持つことさえ出来れば、己が望む道を――それはもう、魔歌など欠片も及ばぬほどに不可思議な、そんなことが出来るのではないかと」
「……、ええっと‥?」
「鍵、か」
ギルフォルドからしてみれば、美鶴の質問に答えたつもりなのだろう。恐らく。
けれど、美鶴からしてみれば‥ギルフォルドはまた美鶴には意味の解らない、ギルフォルド自身の世界へと入ってしまったのだ、と捕らえるしかなかった。
しかも、最初に呟いた言葉が美鶴への返答だとしても、最後に呟いた言葉はどう考えても、答えを求めないひとり言でしかない。――うーん、と頭を軽く捻り、その後で視線を向けた先で、転びそうになっているチチルの姿に、慌てて立ち上がった。
「チチル、手伝いが必要な時は、私を呼んで大丈夫ですよ」
「ふにゃぁ‥。ありがとうですにゃ、ミツル。ミツル……ミツルは、まるで聖母様の様に見えるですにゃ」
「大げさです」
「大げさじゃないにゃ! だって……だって僕は、僕が転んでも平然と笑ってる魔王様を知ってるんにゃ」
その魔王様とは、チチルの非難するような目線と、くつくつと喉を鳴らすギルフォルドの様子からして、明らかに特定人物を指して居るのだろうと美鶴は思う。と、言うよりも明らかに黒髪に猫耳をした彼を指しているとしか思えない。
しかし、その当の本人の魔王様はというと、言われ慣れて居るのか自覚があるのか、どちらにせよ特に気にした様子は無く、チチルへと飲み物を机の上に置くように指示をした。
「チチル、そんな事は良い。俺は喉が渇いた」
「はいにゃ!」
けれどそれに嬉しそうに返してしまう三毛猫も、ギルフォルドへの従属が、やや条件反射になって居る気もするのだ。まあ、彼が他人に有無を言わせない雰囲気を持って居るのは確かだし、何か言われれば『はい』と応えてしまう気持ちも、美鶴は解らないでもない。
(そう考えて居る時点で、すでに私はギルに流され始めてるのかな)
このままいけば、軽くギルフォルドの侍女になりかねない。
古の魔歌をギルフォルドが集め終わる前に、彼の言葉に『はい』としか返さない、従順な奴隷になって居ることになりかねない。
普通に考えれば現実的ではない考えではあるのだが、そこにギルフォルドという要素を加えてしまえば、途端に非現実から現実へと変わってしまうのだから不思議なものである。
もっとも、美鶴からしてみれば喜ぶよりも絶望すべき部分なのだが。
チチルからカップを受け取り、再び本へと目線を落す、呑気な様子のギルフォルドを美鶴は恨みたくなった。――が、そんな彼女の心さえお見通しとでも言いたげに、黒い尻尾が左右に揺れていたのだった。