聖女を召喚した?それで聖女はどこに?え、心が綺麗な人にしか見えない??
「"俺様は聖女召喚に成功した!バーカバーカ!聖女と結婚するから、アルマディーア・ハングマン!貴様との婚約は破棄する!今夜の聖女お披露目の夜会で、正式に言うからな!必ず来い!逃げるなよバーカ!!"
――ですって。あの第三王子、バカ以外に罵倒のレパートリーが一個もないのかしら」
「バカって言う方がバカ、を見事に体現してるッスねえ」
呆れ顔で夜会の招待状――のつもりらしい短い手紙を読み上げたアルマディーアは、それを手早く紙鉄砲の形に折ると、勢いよく振り下ろした。
パァン!と大きく鳴った音に、隣に立つ執事の格好をした男が、わざとらしい仕草で自分の両耳を塞ぐ。
「フン!やっすい紙使ってるわ。あれでも王族のくせに」
「ちょっと、お嬢!いきなりは勘弁してほしいッス!俺の繊細な鼓膜が破れたらどうするんスか!?」
「その時は縫い合わせてあげるわよ!一番ぶっとい針と糸を持って来なさいな、セイラス?」
堂々と胸を張って言い放つアルマディーアに、「お嬢の刺繍は壊滅的なアレじゃないッスか」と何度も首を横に振って、嘆いてみせるセイラス。
しかし彼女は気にも留めず――いや、すれ違いざまに無礼な男の足を思いっきり踏んでから、衣装部屋へと向かった。
「この真紅のドレスにするわ!記念すべき婚約破棄祝いの夜会に、ピッタリですもの!」
「いやいや、召喚した聖女のお披露目の夜会ッスよ?なーに主役に躍り出ようとしてんスか――というか、本当に行くんスか?くっそダルいしサボりません?」
長い黒髪を一つに結って、執事服を一分の隙もなく着こなして、実に理想的な使用人の見た目をしておきながら。
それをあっさり裏切るような言動をするセイラスに、アルマディーアはビシリと指を突きつけた。
「黙らっしゃい!売られた喧嘩は借金してでも買うのが、ハングマン公爵家の家訓よ!」
「さっすがぁ。元海賊から公爵になった家は、やっぱ気合いが違うッスねえ」
「言っておくけど、分家出身のお前にだって、初代こと海賊ハングマンの血が流れてるんですからね?」
見せしめのために、敵の死体をいくつも船に吊るした――という逸話を持つ、伝説の海賊。その血を引く子孫たちは、同時に小さなため息をつく。
寸分違わぬタイミングに思わず笑ってしまってから、真紅のドレスに似合うアクセサリーや靴を揃えるために、二人は再び忙しなく動き出した。
突然の夜会で準備の時間はあまりないが、それでも美しく着飾るためには、入浴を欠かすことなど考えられない。
浴室に置かれた、優美な曲線を描く猫足のバスタブ。
アルマディーアはいつものように、水着姿で泡風呂に浸かっていた。
扉の外には、洗髪の後に身体を洗うため、侍女たちが控えている。
そこへ、執事服のジャケットを脱いで、シャツを腕まくりしたセイラスが入ってきた。
その手には、美しい装飾が施されたガラス瓶が数本。
「お嬢。今日のシャンプーは、この薔薇の香りのやつッスよね?」
「そうよ!とっておきのソレを使うわよ。三年間、待ちに待った婚約破棄のチャンスですもの。何が何でも実行させるために、全力全開で臨むわ!」
「うーわ。お嬢の全力全開ってエグそー」
肩を揺らして笑いながら、セイラスはシャンプーを泡立てて、アルマディーアの長い髪を優しく洗い始める。
幼い子どもの頃からずっとそうしてきたように、目を閉じ全身の力を抜いて、絶妙な力加減の指の感覚を追っていると、「どっか痒いとこないッスかー?」と洗髪のたびにされる質問が、今日も飛んできた。
「必ずそうやって聞くわよね。毎回毎回、一体何なのよ?」
「んー?様式美ってやつッスかねえ。あ、お嬢。ちょっと頭上げて。ハイ下げて。やっぱ上げて。頭下げないで、頭上げて」
「ねえセイラス、私で旗揚げゲームしてない?」
そんなくだらないやり取りをしている間も、じわじわと喜びの感情が湧いてくる。
まだ、大勢の前で婚約破棄を宣言されたわけじゃない。はしゃぐのは、夜会が終わってからにしないと。
そう自分を律してみても、アルマディーアは頬が緩むのを止められそうになかった。
「お嬢、めっちゃニヤニヤしてるッスねー。もっとこう、ショック受けたふりとか、したらどうなんスか?婚約破棄ッスよ?さすがに演技、下手すぎッス」
「お黙り!この婚約は王族以外、誰も望んでなかったんだから。これでいいのよっ!」
「まあ、王族でも肝心の第三王子だけは、ハングマン公爵家への婿入り、だーいぶ嫌がってたッスけどねえ」
――なるほど、上手い演技とはこういうものか。
アルマディーアは、こっそり開けた片目でうかがったセイラスの、あくまで飄々とした様子に、小さく鼻を鳴らした。
第三王子の婿入りが決まり、次期当主の婚約者の座を奪われた時。
そしてそれ以上に、王命による婚約にも関わらず、第三王子がアルマディーアをまったく大切にしなかった時。
セイラスが垣間見せた怒りは、実にハングマンの男らしい、それはそれは凄まじいものだった――のだが。
「こーら。ちゃんと目を閉じてないと、泡が入って痛いッスよ?」
お湯で泡まみれの手を洗い流してから、その大きくて温かな手のひらで、アルマディーアの両目を覆う。
そんな今の彼からは、あの時の激情など、まるで想像もつかなかった。
「セイラス。お前、この婚約破棄について、何か言いたいことはないの?」
「俺が?言いたいこと?んー。念願叶って良かった!おめでとう!ッスかねえ」
「それだけじゃないでしょ?正直に言いなさいな」
またセイラスを婚約者に戻せるかもしれない。幼い頃に夢見た未来の通り、結婚できるかもしれない。
第三王子がろくに学ぼうとしないから――と理由をつけて、父がセイラスをアルマディーアの補佐から外さなかったのは、そういうことなのではないか。
期待して、歓喜に打ち震えてしまいそうなのは、けして自分だけではないだろう。彼だって、同じ気持ちに決まっている。
そう確信していたアルマディーアにとって、セイラスの正直な言葉は、予想外のものだった。
「――お嬢。俺と逃げちゃわないッスか?」
「え?」
反射的に聞き返してから、急いで目を覆うセイラスの手を退けて、バスタブの中で身体を起こす。
しかし彼は何でもないような顔で、またアルマディーアの髪を丹念に洗い始めた――いやいや。
「ちょっとセイラス!お前、どういうつもり?せっかく第三王子との婚約がなくなりそうなのに、どうして逃げなくちゃいけないのよ!」
「だって、恥かくじゃないッスか?何かされるかもしんないし。お嬢がこれ以上傷つく必要は、ないんじゃないかなーって」
「傷つく?私が?」
「この三年間、お嬢はよく辛そうな顔してたッスから。第三王子と会わなくちゃいけない時なんかは、特に」
セイラスは洗髪の手を止めないままそう言うが、アルマディーアは別に、あのバカ王子の言動で傷ついたことなど一度もない。
他人のペットの躾が悪く、キャンキャンうるさく吠えかかってきたところで、腹立たしいとは思っても、傷つくはずがないではないか。
アルマディーアが暗い顔をしていたというなら、それは――今こうしている間も、セイラスはずっと辛い思いをしているだろう、と考えていたからなのに。
「逃げるって言っても、強制的に連れ出されたりしないように、何日か身を隠すだけッスよ。夜会には俺が適当に潜入して、バカ王子の婚約破棄宣言を、魔石に録音でもしてくるッス」
ヘラヘラと笑いながら言うセイラスだが、それは彼の役目ではない。セイラスは次期公爵の補佐役であって、従者などではないからだ。
九年もの長い間、婚約していたというのに、突然すべてなかったことにされて――隠れて荒れたらしいセイラスは、それでも翌日には「ケジメってやつッスよ」とだけ言って、執事の格好でアルマディーアの前に現れた。
王子も自分も同じ三男なのに何故、と思うこともあっただろう。それでも一線を引きながら、ずっとアルマディーアを補佐して支えてくれた。
そして今も、ほんの少しでもアルマディーアが傷つかないようにと、心を配ってくれている。
どれだけ私のこと想ってくれてるのよ――ギュッと強く目をつぶったアルマディーアは、その目を開くと、セイラスに向かって盛大に、泡まみれのお湯をかけてやった。
「うわっ!ちょ、何すんスかお嬢!」
「お黙りなさいな、このスットコドッコイ!ハングマンの女が、敵に背を向けて逃げるわけないでしょ!それに毎日お風呂に入れないなんて、御免被るわっ」
「ええ〜…そこで風呂ッスかぁ?」
びしょ濡れになったセイラスが、仕方なさそうにため息をつく。だが、まったくもって構わない。
これでこの献身的すぎる男も執事服を脱いで、伯爵令息らしく、夜会に相応しい格好でアルマディーアをエスコートするはずだ。
だってそれは元々、婚約者である彼の役目だったのだから。
「とにかく!私は行くわよ。夜会で婚約破棄、上等!こんな面白いこと、そうはないものね。特等席で堪能しなくちゃ。直進せよ!」
「あーはいはい。なら子分は親分に、どこまでもついて行くッスよ。問題なし」
足を踏み入れた聖女お披露目の夜会は、どうにもこうにも――ちぐはぐだった。
そもそも急すぎる招待状に貴族たちは大慌てだったし、会場も王宮ではあるものの、いつものホールではない。
集められた招待客は所属も派閥もばらばらで、まるで無作為に抽出したかのよう。
そして今夜は舞踏会。つまりダンスがあるはずなのに、フロアの明らかに邪魔になる位置に、軽食を並べたテーブルが配置してあった。
何だこれは。どうしろというのだ、ここで。
戸惑う招待客たちで騒めく中を、真紅のドレスを身に纏ったアルマディーアが、久しぶりのセイラスのエスコートで機嫌よく進む。
やがてその目は軽食のテーブルへと向けられて――きらりと光った。
「見なさいな、セイラス。フォンダンショコラがあるわ!第三王子主催だけあって、センスの欠片もない夜会だと思ってたけど、あのテーブルだけは別格ね」
「お嬢の大好物だと知ってたら、絶対に用意させなかったッスよねー。というか、何スかあの場所。ど真ん中って。まさか俺ら、あれ囲んでマイムマイムでも踊らされるんスか?」
「なにそれすっごく楽しそう」
表情だけは優雅に取り繕いながら、声を潜めていつもの調子でやり取りしていると、急に会場内の照明が落とされた。
何の予告もなかったせいで、あちらこちらから悲鳴が上がり、楽団の方でも何かを落としたような、大きな音が響く。
あまりにもぐだぐだな進行に、婚約破棄内定済みとはいえ、一応まだ第三王子の関係者であるアルマディーアは、さすがに少々恥ずかしくなった。
しかしそこへ、羞恥心など母親の腹の中に忘れてきた!と言わんばかりの堂々たる振る舞いで、当の第三王子本人が登場した――後光のように、やたらと明るい光を背負って。天井からワイヤーで吊り下げられた、ど派手なゴンドラに乗りながら。
「うわ、ダッサ。私、あんなのと三年間も婚約してたの?最悪なんですけど」
「ドン引きじゃないッスか、お嬢。ところで、聖女の姿が見えないッスね?一緒に乗るの、断固拒否されたんスかねー」
「ちゃんと仲良くしてほしいわ!私の婚約破棄は、二人の真実の愛にかかってるのよ――頑張って!」
アルマディーアは、本気で祈りを捧げた。
やがて第三王子が得意気な顔でゴンドラから降りると同時に、照明が再び点灯する。
明るくなったことに安心した招待客たちは、当然次々と口を開き、会場内は再び騒めきに包まれた。
しかし、予想など容易いはずのその状況が、主催者たる第三王子の気に障ってしまったようで。
「静粛に!静粛に!――ええい、俺様が静かにしろと言っているのが、聞こえないのか!?」
そう大声で叫ばれても、「いや、お前が謎の演出で登場したせいなんだが?」と言うに言えない貴族たちは、大人しく口を閉じ、黙って互いに顔を見合わせた。
第三王子は、ようやく静かになった――というより、すっかり静まり返ってしまった周囲を見回す。
そして少し離れた所にいたアルマディーアを見つけると、ニヤリと笑って大きく両手を広げ、まるで舞台の主役が台詞を言うかのように、その名前を呼んだ。
「よく来たな、アルマディーア・ハングマン!今夜、俺様に婚約破棄されるとも知らないで!」
「いえ、招待状に書いてありましたが。ご機嫌よう、第三王子殿下。まずは開会のご挨拶でもされたらいかが?」
「フフン!どうだった、俺様の斬新かつ華麗なる登場は!」
「だから開会の挨拶――もういいですわ。それで、感想でしたかしら?大変眩しかったのと、逆光が凄かったので、光源は再考した方がよろしいかと」
バカ王子と会話などしたくないあまりに、途中から視線が完全に、軽食テーブルのフォンダンショコラへと向いているアルマディーア。
隣に立つセイラスもセイラスで、「お嬢。前見ないとやばいッスよ」などと言いながら、録音魔石を仕込んだ銀細工のラペルピンを弄っている。
しかし幸か不幸か、これまで自分の見たいものしか見てこなかった第三王子は、二人のギリギリの態度にも、まるで気がつくことはなかった。
「光源?フッフッフ!これはただの光魔法などではない。この輝く光の玉こそが、俺様の新しい婚約者にして、俺様が召喚に成功した――聖女なのだ!!」
ビシィ!と格好つけながら勢いよく前髪を跳ね上げ、バシィ!と音を立てて元に戻す第三王子に、会場内の誰かが思わず「生え際が」と呟いた。
聖女を召喚する必要など感じられない平和な王国とは違って、彼の髪には今まさに、存亡の危機が迫っている。
だが、それは正直どうでも良いので、招待客たちは宙に浮かぶ巨大な光の玉の方に注目した。
「これが聖女?確かに、白く清浄な光ではあるが」
「聖女というのは、人間ではありませんの?」
「どういうことだ?第三王子殿下は、光の玉と結婚なさるおつもりか?」
ひそひそと囁きあう貴族たちの中で、アルマディーアとセイラスは難しい顔をする。
嬉しくないことに、第三王子とは婚約中の三年間、何度も顔を合わせてきた。その頭の出来についても、ある程度は把握している。
恐らく彼は今、「何か凄そうだから聖女を召喚してみたぞ!→バカでかい光の玉だ!→聖女だ!→俺様は聖女と結婚する!→これまでの婚約は破棄だ!→バーカバーカ!」としか考えていない。
つまり後先考えずにノリで行動しているわけだが、それでは後で冷静になった時、「やっぱり婚約破棄は破棄する!仕方がないから俺様は予定通り、ハングマン公爵家に婿入りしてやろう!バーカ!」などと言い出して、揉めかねない。
アルマディーアは、ちらりとセイラスに視線をやった。
セイラスもまたアルマディーアを見ていて、何かを伝えようと口を動かす――しかしそれが音になる前に、
「聖女の真の姿が見えるのは、心が綺麗な人間だけだ!俺様には見えるぞ?この光の玉の中に、それはもう魅力的な女の姿がな!」
第三王子がそう言い放った瞬間、その場にいたすべての人間の心が一つになった。
「心が綺麗な人にしか見えない??――なら貴方にこそ見えているはずありませんわよねぇ?婚約破棄バカ王子殿下?」
「お嬢。あんま煽ると長引いて、フォンダンショコラ食い損ねるッスよ」
ストレートな本音を口にするアルマディーアを、茶化すようしてセイラスがたしなめる。
その言い方に、こちらを落ち着かせようという意図を感じ取って、アルマディーアは「吸って、吐く」を意識することで呼吸を整えた。
――どうにか上手いこと、第三王子が婚約破棄を覆せなくなるくらいの失言か、失態を引き出せないものか。
考えを巡らせながら、アルマディーアは、相変わらず真っ白な輝きを放ち続ける、聖女だという大きな光の玉をじっと見つめた。
「ンンー?俺様の心が美しいのは、地面の利!今更だったか。ハーッハッハッハ!」
それを言うなら自明の理だろ?――人々の心は、再び一つになった。
この、自己陶酔して人の話もろくに聞かない男が王族でさえなければ、面と向かって間違いを指摘できるのに。
「あのドヤ顔、本ッ当ーに腹立つわね!絶対に適当なこと言ってるだけで見えてないし、聖女?がもし喋れたとしても、聞こえてないでしょ!」
「言ったもん勝ちってやつッスよねー。下手に自分には見えないなんて言ったら、心が汚い扱いされるし。本人が見えるって言い切ってるものを、否定もできないし」
「自分だけ聖人ぶろうとする、その魂胆が気に食わないわ!――ん?否定できない?」
顔を寄せ合って、ひそひそ声でセイラスと会話していたアルマディーアは、ふと思いつく。
静かに光っているだけの聖女(玉)の中に、女性が見えるのだという主張。
それが誰にも否定できないというのなら――自分も「見える」と言い張ってしまえばいいのでは?
「そうよ。どうせこの場の誰にも見えてないだろうし、私にはこう見えた!で押し切っちゃえばいいのよね」
「お嬢?」
「老婆?犬猫?いいえ。あのバカ王子に、一番ダメージを与えられそうなのは――」
キッと顔を上げたアルマディーアは、よく通る声で第三王子を糾弾した。完全に、当てずっぽうで。
「私にも見えましたわ、聖女の真の姿が!ですがどう見ても、聖女は十にも満たない少女ではないですか!」
「な、なにぃ!?この俺様に意見するなど、貴様っ」
「親元から引き離して、無理矢理召喚するだなんて!恥を知りなさい、この鬼畜ロリコン婚約破棄バカ王子!!」
ちょ、お嬢さすがに言いすぎッス!などと隣でセイラスがうるさかったが無視をして、顔を真っ赤にしている第三王子にガンをくれてやる。
そんなアルマディーアに、超音波のごとき奇声を発しながら、思わず飛びかかろうとするバカ王子。
セイラスがアルマディーアを抱き寄せて、庇おうとした瞬間――聖女が一際眩しい輝きを放って、会場内は真っ白な光に包まれた。
『当ててくれてありがとう、きれいなお姫さま。神さまが、これで帰してあげられるよって』
光が収まったその場には、ふわふわと宙に浮かびながら泣き笑う、幼い少女の姿があった。
アルマディーアも、セイラスも、第三王子も、招待客たちも。その場にいる全員が、(えっマジで?)の顔のまま固まっている。
すると、どこか天の高いところから、ギイィ……と古い扉が、軋みながら開くような音がした。
『む、娘が!娘が帰って来ないんです!お友だちが、小学校はいつも通り出たって!なのにっ』
『お母さん、落ち着いてください。もっと応援を呼んで、通学路以外も全部、しらみ潰しに探しますから』
『警察犬、到着しました!』
『おう、わかった!――お母さん、何か、娘さんの匂いのするものをお借りできませんか?靴下とか、枕カバーとか。それと、今日の服装をもう一度詳しく――』
空から降ってくる複数の声の中には、アルマディーアたちこの世界の住人が、聞いたこともない単語がいくつかあった。
しかし悲痛な声で泣き叫ぶ若い女性の様子と、伝わってくる物々しい雰囲気に、事態の深刻さは十分にうかがい知れる。
やっべえ、拉致誘拐犯じゃないスか。シャレにもなんないやつッスよ。という、うめくようなセイラスの声が耳元で聞こえて、アルマディーアも背筋が寒くなった。
第三王子はというと、呆然とした顔で天井を見上げながら、その場にへたり込んでいる。
『ママ!ママーッ!はやく帰して、神さま!はやく!おねが、おねがい、しますっ!』
天から聞こえてきた声に泣きじゃくる、幼い聖女の身体が、再び白い光に包まれて――パッと音もなく消えた。
やがて先程の少女の声が、空から響く声の中に、無事に加わる。
『ママー!うわあああん、ママぁー!!』
『ああ、いた、いたっ!いました、良かった!――もう、どこ行ってたの!心配したんだよ!?』
ギイィ……と扉が軋む音が再びして、バタン!と閉まったと思ったら、天からの声は、もう一切聞こえてこなくなった。
十秒。二十秒。三十秒。誰も口を開かない。
華やかに飾りつけられた夜会の場を、重い沈黙だけが支配している。地獄のような時間だった。
尻もちをついたような姿のまま座り込んでいた第三王子は、やがて無言のまま、のろのろと立ち上がる。
そして周囲の様子をうかがうと、誰もが皆、冷たい軽蔑の視線を彼に向けていた。
――その眼差しに、ほんのわずかでも反省の色を見せれば良かったものを。
「お、俺様のせいじゃないぞ!聖女を召喚したのは、魔術師たちだ!奴らがすべて悪いんだからなっ!」
まさかの言い訳に、その場の空気がますます冷えた。
ある者は、もはや不敬を恐れずため息をつき。またある者は、ミシリと音が出るほど強く扇を握りしめる。
アルマディーアはというと、第三王子に一泡吹かせてやるはずが、まさかの正解を引き当ててしまった衝撃が大きくて、なかなか言葉が出てこない。
その隣に立つセイラスは――見苦しく責任逃れをしようとするバカ王子を見て、不愉快さを隠そうともせず、盛大に舌打ちをした。
「なんだァ?あの野郎。あれでもタマついてんのかよ」
「セイラス、お下品。気持ちは痛いほどわかるけどね」
王族らしさの欠片もない、何より先にまず逃げを打つ姿勢。それは、三年間の不遇から逃げなかったセイラスにとって、侮蔑の対象に他ならない。
嫌悪の表情を浮かべたまま、セイラスはジャケットからラペルピンを外すと、アルマディーアに手渡した。
「お嬢。ちょっとこれ預かっててほしいッス。すぐ終わるんで」
「え?セイラス。お前、何するつもりなの?まさか危ないことじゃないでしょうね?」
「いやー大したことじゃないッスよ。さすがに、お嬢が無事に帰れなくなるようなことはしないッス」
「私だけじゃないわよ!お前も、無事に帰るの!家に帰るまでが夜会、何事もなく送り届けるまでがエスコート、なんですからね!お分かり!?」
「了解」
ひらひらと片手を振ってアルマディーアから離れたセイラスは、そのまま真っ直ぐに第三王子の元へと歩み寄った。
急に目の前に現れた男に、第三王子は怪訝な表情を浮かべる。どこかで見たことがある気もするが、思い出せない。その顔には、はっきりとそう書いてあった。
自分が今まで散々踏みにじってきたものすら、知ろうとしない。あるいは覚えていない。
地位と権力を振りかざすばかりで、そんな考えなしな生き方をしてきたから、こんなことになったんだ――と、いい加減に理解してもらう頃合いだった。
顎を引くだけの御座なりな礼をして、名乗りも挨拶もなく。完全に馬鹿にしている口調で、セイラスは言った。
「光の玉の中に、それはもう魅力的な女の姿が見える!でしたっけ?自信満々だったッスねえ」
「貴様、不敬だぞ!何が言いたい!?」
「いーえ?ただ、聞いてみたいだけッスよ。あの小さな聖女の姿が、本当に見えていたなら――心が綺麗なんてとんでもない、ド変態の誘拐犯。本当は見えていなかったとしたら――心が汚い、大嘘つきの愉快犯。アンタ、結局どっちなんスか?」
「なっ!」
これまでされたことのない不躾な物言いに、第三王子は絶句して、魚のように口をパクパクさせる。
咄嗟に反応できないでいるその姿に、周囲の貴族たちは「そういえば」「確かに」「そういうことになりますわね」と、ここぞとばかりに追い打ちをかけた。
選択を迫る視線が、会場中の人間から注がれる。
しかし、これはどちらを選んだとしても、けして言い逃れできない犯罪者――第三王子は、もう詰んでいる。
セイラスの行動を、じっと見つめていたアルマディーアは、それを悟って、小さく安堵の息を吐いた。するとそこへ、
「皆の者、道を開けよ!第三王子を捕らえるのだ!」
「あ、姉上!?」
近衛騎士たちを引き連れて、王太女殿下が現れた。そのまま矢継ぎ早に指示を出し、あっという間に、弟である第三王子を確保させる。
さすが、平和ボケもしくは事なかれ主義ばかりの王族の中で、唯一まとも寄りなだけはある。
程度の差こそあれ、悪い噂しか聞かない第一、第二、第三王子及び、第一王女を差し置いて、次期女王の座を手にした女傑は、腐った果実を見るような目で、不出来な弟を睨みつけた。
「よくもまあ、これだけのことをしでかしてくれたものだな。次に何かやったら、即座に幽閉だと伝えてあったはずだが?」
「し、しかし!聖女召喚に成功したものですから――」
「ほう。聖女を召喚した?それで聖女はどこに?」
「あ、いや、その」
言葉に詰まる第三王子から、王太女殿下は興味なさげに視線を外す。恐らく、この弟がやらかしたことのすべては、既に正確な報告を受けているのだろう。
誰かを目で探している様子だった王太女殿下は、アルマディーアを見つけると、申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「ハングマン公爵令嬢。貴女と弟の婚約は、最初から無かったことになる。白紙撤回だ。この男は、遡って王族から籍を抹消されるからな。詳しくは、国王陛下より追って沙汰がある――本当にすまなかった」
「馬鹿な!?何故です、姉上!」
「うるさい!私は今、他の者と話しているんだ。誰か、この者を黙らせてくれ」
王太女殿下の指示に、てっきり猿轡でも噛ませるのかと思ったら、騎士たちは容赦なく第三王子を殴って気絶させた。
そのままズルズルと、夜会の主催者だったはずの男は無様に引きずられていく。
意気揚々とゴンドラで降りてきた時とは一転。お帰りは、地を這ってのご退場と相成ったのだった。
それを見届けると、王太女殿下は会場内をぐるりと見渡して、隅々まで行き渡るように声を張り上げる。
「皆にも悪かったと思っている!後日、王家より詫び状を送らせてもらう!今夜はこれにて、解散とさせてほしい!」
閉会、という言葉を使わなかったのは、そもそも開会の挨拶すらなかったことも把握しているからだろう。
王太女殿下の言葉に、招待客たちが一斉に礼を執る。
アルマディーアも、丁寧にカーテシーをした。その手に密かに握られているのは、セイラスのラペルピン。
それに仕込まれた録音の魔石は、淡く発光しながら――先程からずっと、音を拾い続けていた。
「ただいまッス。ほーら、すぐ終わったじゃないッスか」
「第三王子の人生が、ね」
ヘラヘラと緊張感なく笑いながら戻ってきたセイラスを、アルマディーアは呆れ顔で出迎えた。
涼やかな見た目とは裏腹に、その身に流れる海賊の血のせいか、セイラスは意外と気が荒いし、やり方も荒っぽい。こんな子分を持つなんて、親分やるのも楽じゃないわ、とため息をつく。
そして、招待客たちが三々五々会場を後にするのを眺めているセイラスの、ジャケット左襟のフラワーホールに、無言でラペルピンを突っ込んでやった。
「バカ王子に吠え面かかせてやろうと思ったのに、美味しいとこは王太女殿下に持ってかれちゃったッスねえ」
「よく言うわね。あの方が入って来たのが見えたから、最後に一発かましに行ったくせに!」
「バレてたッスかー。まあ、海賊ハングマンは勝てない戦はしないってやつッスよ。ゆえに、生涯無敗だったと」
満足気に笑ってから、肩を竦めて首まで振るセイラスの姿は、なかなかに小憎たらしい。なんだかどっと疲労感が増して、アルマディーアも帰りたくなってきてしまった。
「第三王子との婚約が消滅したのは、目的を果たした!と言えるけど。でもあれ、ほとんどバカ王子の自滅よね?私、一体何しにここに来たわけ??」
「そりゃあもう!これを味わいに来たッスよ」
そう言ってセイラスが、背後に回していた手をアルマディーアの前に持ってくる。小さな白い皿の上には、ちゃっかりフォークと――
「フォンダンショコラー!!偉いわ、セイラス!でかしたじゃないっ!」
「お褒めに預かり光栄ッス。さあ、お嬢。会場撤収される前に、食っちゃってくださいよ」
「はーい!いっただっきまーす♡」
温かい生地を割ると、濃厚なチョコレートソースがとろけ出した。喜ぶアルマディーアを、セイラスが優しい眼差しで見守っている。
一口食べれば、甘さが口いっぱいに広がった。今夜のフォンダンショコラは、普段口にするものよりもずっと美味しい。
アルマディーアの隣には、いつでも、今も、セイラスが立っていた。彼の襟に煌めくラペルピンの魔石には、このチョコレートソースのようにたっぷりと、二人が幸せになるための証拠が詰まっている。
また一口、フォンダンショコラを口に運ぶ。やっぱり格別な味わいで、アルマディーアは思わず笑ってしまう。
この甘さはきっと、二人の勝利の味だった――。
帰りの馬車の中で、アルマディーアとセイラスは向かい合い、メンチを切り合っていた。
それというのもセイラスが、煮え切らない態度をとるのがいけない――アルマディーアは組んだ足の先で、彼の足を蹴る真似をする。
「日和ってないで、さっさとなさいな」
「だから、無理ッスよ!急な夜会でバタバタして、何の用意もしてないんスから。あと揺れる馬車の中で、膝つかせようとしないでほしいッス!」
「だって待ちきれないんですもの!求婚されたから、もう承諾しちゃいました♪って言えば、お父様だって、首を縦に振るわよ」
「その前に、俺がコキャッと首を横にされちゃうッスよ!死体を公爵家のエントランスホールに吊るされたら、どうするんスか!?」
もうこれ以上は待ちたくないアルマディーアと、せめてあと数日は待ってほしいセイラスの攻防戦は続く。
セイラスは基本的に慎重な男ではあるので、公爵に証拠の音声を提出したり、きちんと許可を取って準備をしてから、改めて求婚したいのだ――それはまあ、わかるけれど。
「じゃあせめて、プロポーズの言葉だけ先に教えなさいな!それで、しばらくは我慢してあげるわ」
「いやー求婚のネタバレとか、ちょっと意味わかんないッス」
「お前のことだから、どうせすっごく格好つけたこと言う気でしょ!?楽しみで楽しみで、夜寝られなくなりそうなのよねー!」
「だから事前にバラせって?そりゃないッスよ、お嬢!俺の親分が横暴すぎる……!」
頭を抱えるセイラスを、何故か今さら全力全開モードになってしまったアルマディーアが、グイグイと引き寄せようとする。
その手から逃れようとしたセイラスだったが、ふいに大きくバランスを崩し――ドン、と馬車の壁に片手をついた。アルマディーアを、自分と壁の間に閉じ込める形で。
「あっ!すんませ、」
「ちょっと。大きな音を立てたら、馬が驚くじゃないの。気をつけなさいな」
「いや、お嬢が驚いてくださいよ!?なに逆にスンッてなってんスか、壁ドンってやつッスよコレ!」
息がかかる程の距離への、急接近。なのに何故か、一周回って落ち着いてしまったらしいアルマディーアに、セイラスはガックリと項垂れた。
そしてゆっくり身体を起こすと、諦めたようにため息をつく。
「――没にした方のプロポーズ案で、今は勘弁してくださいッス」
「教えてくれるなら、その言葉でも良くってよ?」
「――"これからも一生、貴女の風呂の世話をさせてください"」
不承不承ながら、そう口にするセイラス。満足したアルマディーアは、とても良い笑顔で、元気いっぱいに返事をした。
「セイラスからの求婚なら、その言葉でも良くってよ!」
やがて馬車は、公爵邸へと辿り着いて停まった。
エスコートのために先に降りるセイラスの背中を見つめながら、アルマディーアは怒涛の連続だった夜会を思い返す。
第三王子に婚約を破棄されるべく、王宮に向かう公爵家の馬車に乗り込んだ時と比べて、セイラスの立場は明確に変わったはずだ。
婚約について、王太女殿下の決定的な発言まで録音できたことから、ほぼ確実に、セイラスが婚約者に復帰できると思うが――それでもまだ、正式に決まったわけではなかった。
だから本当は何か、二人の関係が元に戻ったのだと実感できるものが、今すぐにほしい。
でもそれは、アルマディーアの我が儘でしかないと、わかってもいるから。
セイラスが求婚の許可を得て、素敵なプロポーズをしてくれる日が来るのを、大人しく待つ必要がある。それまではきっと、この三年間と何も変わらない日々だ。
待つとは言っても、早ければ、ほんの数日の我慢ですものね――そう思ってセイラスの手を取ろうとしたアルマディーアは、不思議なことに気がついた。
セイラスが、馬車から降りる手助けのために片手を差し伸べるのではなく、両手を広げている。
その行動の意図がよくわからなくて、思わず彼の顔を見る。するとセイラスは優しく、そして甘く微笑んで言った。
「おいで。アルマディーア」
――満面の笑みを浮かべて、アルマディーアはセイラスの腕の中へと飛び込んだ。
公爵家に仕える面々は、王宮からお帰りになるお嬢様をお出迎えするために、ずらりと整列していたわけだが。
ご満悦の表情のお嬢様と、ただのエスコート役だったはずのセイラス様が、指と指を絡めながら手を繋いで、こちらに歩いて来るのを見て。
――全員揃って、盛大な拍手でお迎えしたのだった。
「ほら、セイラス。ぼやぼやしてないで、とっとと来なさいな!行きたい店は、まだまだあるんですからね!」
「もう十分ッスよー!俺の身体は一つしかないのに、どんだけ服買うつもりッスか!仕立ててる分だって、あんなにあるのに」
「お黙り!もう執事の格好はやめたんだから、これからたくさん必要でしょ。ハングマン公爵令嬢の婚約者たる者、衣装部屋の一つや二つや三つ、いっぱいにしてみせなさいっ!」
「いやいや。王家からえーっと、なんたら料だか、ほにゃらら金だか、なんとか代だか忘れたッスけど、とにかく大金せしめたからって、こんなパーッと使わなくても」
「あぶく銭を使い切らないで残すだなんて、海賊公爵ハングマンの名が廃るでしょ!」
ここ最近、浮かれて服を贈りまくっているアルマディーアは、無下に断ることもできないセイラスを、連日振り回している自覚があった。
しかし、そんなセイラスが「いやーもう、気持ちだけもらっとくッスよ」と苦笑しながら、その視線を向ける先はいつだって、店に飾られている美しいドレスの数々で。
――だから、どれだけ私のこと想ってくれてるのよ!
そんな風だから、より一層浮かれてしまうのだ、と。アルマディーアの愛しの婚約者は、わかっているのか、いないのか。
「むしろ俺が、ドレスを贈りたいんスけどねえ」
「セイラス、なにか言った?」
「なんでもないッスよー」
「そう?セイラスの瞳の色のドレスがいいわ」
「聞こえてるじゃないッスか!!」




