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ハイティーンの刺客  美空ひばりが愛したボクサー 戸塚 秀夫

作者: 滝 城太郎

十七、八歳の若造のくせにランキングボクサーとしてメインエベントに出場し、その高校生の相棒はインターハイのチャンピオンだなんて、「東京リベンジャーズ」顔負けの武闘派コンビが現実に存在したのだ。

子供の頃から何をやってもうまいことこなしてしまう世渡り上手の二人には、怖いものなどなかったに違いない。そんな二人が、中学卒業後は米屋の住み込みの丁稚小僧をやっていた貧しい植木屋の倅(後のファイティング原田)から一気に抜き去られるのだから、世の中油断大敵である。

 戸塚秀夫こそわが国のアイドルボクサーのハシリだったかもしれない。

 小学生の頃から“ベビーボクシング”興行で進駐軍のキャンプを巡り、中学卒業後は十五歳の若さでプロのリングに立った。本来プロテストの受験資格は十七歳からだが、まだ草拳闘が堂々と行われていた昭和二十年代はおおらかな時代だったため、生活のために年齢を偽ってライセンスを取得するケースも少なくなかった。

 グリーンボーイといっても場数を踏んできているだけに四回戦、六回戦あたりでは群を抜いて強いうえ、見せ場も心得ているため、たちまち引く手あまたの人気者になった。


 昭和十二年十月三十一日横浜生まれの戸塚がボクシングと出会ったのは、終戦から間もない頃、後のカワイジム会長河合鉄夫の一家が近所に引っ越してきてからである。やがて河合家の長男である一歳年下の哲朗と仲良くなると、鉄夫のコーチで二人してボクシングの真似事をするようになったが、結構筋がいいので、戸塚がファイティング・ポパイ、哲朗がミッキー・マウスというリングネームで進駐軍キャンプの見世物としてベビーボクシングを披露してみたところ、これが大当たりで次々とオファーが舞い込むようになった。

 もっとも子供のボクシングごっこだけではすぐに飽きられてしまうので、鉄夫の演出でチャップリンのドタバタ喜劇のような筋書きのある寸劇を演じることにしたのが、進駐軍兵士たちの笑いのツボにはまったようだ。

 子供ながらに舞台度胸もあり、なかなかの役者ぶりを発揮した二人は、行く先々の進駐軍キャンプで厚遇され、まだ日本が貧しかった時代に洋食やコカコーラをふんだんに供される身分になった。あげくの果てには九州一周巡業まで行ったというから、ちょっとした芸能人並みである。

 

 父親のジム経営が軌道に乗ったおかげで、親友の河合哲朗が高校、大学と進学し、鎌倉学園高校時代は二年連続インターハイチャンピオン、早大四年の時には全日本アマチュア選手権を制するほどのトップアマとして活躍する一方、経済的余裕のない戸塚は高校には進学せず、プロボクサーを目指すことになった。

 戸塚のプロデビューは昭和二十八年五月十八日、世界フライ級チャンピオン白井義男とテリー・アレンによる世界タイトル戦の前座第一試合だった。四回戦とはいっても、今をときめく白井義男と同じリングに上がれるというのは大変な名誉である。ガラすきの地方の体育館で前座時代を過ごすボクサーも多かっただけに、満員の後楽園ホールでデビューというのは相当にモチベーションも上がったことだろう。東拳の横山茂に判定勝ちという幸先の良いデビューを飾っている。

 中学を卒業して二ヶ月足らずの戸塚はこの時十五歳である。中卒間も無いティーンエイジャーが、今日の世界チャンピオンとは比べ物にならないほどの人気と知名度を誇る世界的トップアスリートの露払いという大役を任されながら、無難にこなしてしまうとは、恐るべき強心臓の持ち主であるだけでなく、そういう星の下に生まれたとしか思えない。

 

 いわゆる男前とはいかないまでも、ボクサーらしからぬベビーフェイスで女性うけも良かった戸塚は、優男風の外見とは裏腹に、きびきびとしたフットワークとアグレッシブなファイトで、若手のホープとして早くから注目を浴びる存在だった。

 フライ級からスタートし、一年目こそ三勝二敗(一KO)の成績だったが、身体ができてきてからは長身を生かしたスタイリッシュなボクシングで勝ち味を覚え、十七歳の誕生日の直後に日本フライ級十位にランクされるほどの順調な出世ぶりだった。

 左右のショートは切れ味抜群で、白井義男タイプのヒット・アンド・アウェイ戦法が主流の日本ボクシング界において、戸塚のショートレンジでの打ち合いは見応え十分だった。もし、一番脂の乗っていた昭和二十九~三十年頃にテレビジョンが一般家庭にも広く普及していれば、後年のフライ級三羽烏、原田政彦、海老原博幸、青木勝利クラスの人気を獲得していたかもしれない。

 後年、ファイティング原田やジョー・メデルといった超一流どころとグローブを交え、世界ランカーにまでなった河合哲朗と互角に張り合いながら腕を磨いていた戸塚のこと。センスは抜群で玄人筋からの評価も高かった。

 日本ボクシング界と太いパイプを持つフィリピンの著名プロモーター、ロッペ・サリエルに至っては、自身の愛弟子であるフラッシュ・エロルデ(後の世界J・ライト級チャンピオン)と同じバンタム級で戸塚にも世界を狙わせる計画があったというほどの入れ込みようだった。

 当時高校生(鎌倉学園高)だった哲朗の方も、日本ランカー相手のスパーリングで鍛え上げられたおかげで、昭和三十年、三十一年と二年連続でインターハイを制しアマのエリート街道を順調に歩んでいた。


 ところが世界を意識し始めた若きホープは、その試金石ともいうべきチャンピオンスカウト大会の決勝で当たった大滝三郎との一戦で致命的な弱点を露呈してしまう。

 昭和三十一年五月十九日、日本バンタム級二位の戸塚は過去に勝ったことがある五位の大滝を得意の接近戦での打ち合いに持ち込んだまでは良かったが、四ラウンドに大振りのパンチをまともに浴びてしまい、意識が飛んだままレフェリーストップ。

 ストップが早かったため、テンカウントこそ聞かなかったものの、二日間意識が混濁するほどの深刻なダメージを受け、しばらくはとてもボクシングなどできる状態ではなくなっていた。

 防御勘が良く、インファイトは得意にしていただけに、脳への衝撃で入院するほど自身が打たれ弱かったというのは、今後もボクシングを続けてゆくうえでの大きなトラウマになってしまった。

 これでボクシングともおさらばかもしれないと思っていた戸塚によもやの幸運が舞い込んできたのは、退院直後のことだった。

 会長の河合鉄夫と美空ひばりの父親が知り合いだった関係で、横浜のひばり御殿の客人として迎えられることになったのだ。ひばり一家がボクシングファンだったことが幸いし、戸塚の再起を後押ししてくれることになろうとは、大滝戦のTKO負けさまさまだったと言えるかもしれない。

 戸塚に勝った大滝はランキング1位になって日本タイトルに挑戦し、見事日本バンタム級の王座に就いたが、その後の選手生活は地味だったのに比べると、芸能界のトップスター美空ひばりが後援者になってくれたことで、負けた戸塚の方がかえって知名度が上がり、同業者から羨望のまなざしで見られるようになったとは、何とも皮肉な話である。


 戸塚の強運はこれだけではなかった。

 戸塚のグラスジョーは大きなハンディキャップだったが、希に見るセンスの持ち主で、銭の稼げるタレントでもあったため、その素質を惜しんだ在日調達司令部のフランク・レイトンから声がかかり、レイトンの自宅に住み込みで、元アリゾナ州ライト級チャンピオンだったR・ジョンソンコーチ指導のもと、再起の準備が進められたのである。

 白井義男とカーン博士の日米コンビが世界を制してからというもの、ボクシング好きの外国人が日本人ボクサーのコーチやマネージャーを買って出るケースは増えたが、そういう恵まれたボクサーは全体から見ればごく一部に過ぎなかった。

 恵まれた環境というのは実力以外の運である。カーン博士にしても、海堂猛のマネジメントのオファーを断られたため、白井を選んだわけであって、当時の絶対的権力である進駐軍に所属する億万長者のバックアップが、白井のマッチメイキングならびにコンディションの維持に大きな影響をもたらしたことは間違いない。

 もちろん実力が伴わなければ、チャンピオンベルトを手にすることは叶わないが、貧しい時代に十分な栄養補給ができ、ボクシングに専念しさえばいい者と、腹を空かせて日々の辛い仕事に精を出しながら、その合間に練習をせざるをえない者とでは上達度が違う。いくらハングリースポーツとはいえ、練習環境の違いが選手にもたらす影響は想像以上のものだ。特に大きいのはプロモート力で、ドサ回りのような試合ばかりを続けていてもランキングは上がらないし、見入りも少ない。場合によっては実績を積む前にランキング上位の人気ボクサーの噛ませ犬にされて潰されてしまう可能性だっであるのだ。

 進駐軍や美空ひばりのような超大物後援者がいればこそ、戸塚はマッチメイキング上の不遇とは無縁だったが、恵まれすぎた環境が、ハングリー精神の育成を阻み、抜きん出ていたセンスをも錆び付かせた感は否めない。

 とはいえ、芸能関係者にも知己が多く、話題性十分の戸塚は、チャンピオンでもないのに知名度は抜群である。人々が憧れる煌びやかな世界にいる十代の若き拳雄は、まだ戦争の傷跡と貧困を引き摺っていた高度経済成長期前の日本では、若者たちの羨望の的であり、そうありたいと強く願う人たちの希望の星だったという点において、時代に求められた存在だったように思う。

 貧困にまみれた薄暗い世界から陽の当たる場所に這い上がってくるというサクセスストーリーは、感動を呼びはしても、そこまでの労苦は敬遠したいというのが多くの人の本音だろう。幸運の星の下、人生の表街道を闊歩している輝ける偶像にこそ、人は自分の姿を重ねて、それを明日への活力に繋げてゆくものであると考えるならば、これまでのボクサーに有りがちなハングリーなイメージとは程遠い戸塚は、ボクシングという世界に新たなファンを取り込んだ“アイドルボクサー”として、その戦績以上に評価されてしかるべきかも知れない。


 約一年のブランクを経てフェザー級で再起すると、四試合連続KO勝ちで見事に表舞台への返り咲きを果たした。「秀坊、秀坊」と可愛がってくれた美空ひばりが、多忙なスケジュールに合間を縫って毎試合応援に駆けつけてくれたことも励みになった。ひばり好みの黄色のトランクスがトレードマークになった戸塚は、パッと見こそ派手なアイドルボクサーだったが、進駐軍仕込みのインファイト技術はさらに凄みを増していた。

 ガッツ石松の“幻の右”の原型とでもいうべき回転半径が小さく鋭く切れ込んでくる左ショートフックは、ほとんどノーモーションで打ち込まれるため軌道が見極めにくく、突然対戦相手がジャックナイフで頚動脈を断ち切られたかのようにその場に崩れ落ちるシーンを目の当たりにした観客席を凍りつかせた。

 子供の頃からアメリカ文化の洗礼を受けたせいか、粋でモダンな雰囲気を兼ね備えた十九歳の少年の前途は洋々かに思えたが、時を同じくして台頭してきた無類の強打者の出現によって、夢の扉は永久に閉ざされてしまった。


 昭和三十二年九月二十七日、後年“KOキング”の異名をとる同時代きってのハードパンチャー、高山一夫とのホープ対決は両者の売り物であるパンチではなく、偶然のバッティングが明暗を分けるという期待外れの結果に終わった。

 二ラウンド、身体を振りながら頭から突っ込んできた高山と交錯した戸塚は衝撃で意識が飛んでしまい、そこから先はほとんど記憶にないまま試合終了のゴングを聞いた。闘争本能だけで戦っていた戸塚はKOを免れるのがやっとという惨敗で、結果的には高山の石頭にやられた格好になった。

 その後、十二月六日に池田光春に判定負け、同月二十九日には藤山栄一を二ラウンドKOで下して連敗に歯止めをかけたものの、二度もリングの上で意識を失うようではこれ以上メインエベンターを務めるのは困難という判断から、潔くボクシングから身を引く決心をした。

 日本フェザー級三位の高山は五位の戸塚を撃退すると、翌年六月には日本タイトルを射止め、世界への道を歩み始めた。

 親友の河合哲朗はまだ早大一年生で、アマチュア屈指のテクニシャンとして脚光を浴び始めていた矢先のことだけに、二十歳になったばかりの戸塚の引退はあまりにも早すぎる決断だった。

 生涯戦績は二十五勝十一敗(十四KO)四引分一無判定で、KOキング高山を上回るKO率を残している。

戸塚の時代は実力だけではトップになれず、恐るべき強運も必要だった。進駐軍や日本の政界のフィクサーに伝手があった野口進(野口ジム会長)の力をもってしても、愛弟子の東洋フライ級チャンピオン三迫仁志を世界タイトルマッチの舞台に上げることができなかったのだ。そういう時代だからこそ、チャンピオンという肩書がなくても、集客力のある人気ボクサーは、ボクシングだけで飯が食えた。個性派の魅せるボクサーの多かったその頃の方が、名ばかりの没個性的なチャンピオンが乱立する今日よりもボクシングも見ごたえがあって楽しかっただろう。

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