第5話 好きな声優の彼氏になる心得!
「いい颯太。業界で生きていくなら、絶対に忘れてはならない事がいくつかあるわ。必ず覚えておきなさい」
あの最初の会議の後も、オレは美姫香と定期的に会って話をしている。教えてもらいたい事は山ほどあるからだ。
「まず一番の重要事項を教えるわ」
あのファミレス以来、突っ込んだ話もいくつか聞いた。特にアカデミーに入った後どうすればいいかについては、様々な情報を頭にいれておきたかった。対策を立てたかったのだ。
美姫香は「ふぅ」と短く息を吸い、少し眉毛に力を入れてオレに詰め寄った。
「まずはファンを辞めなさい」
顔が近いなんて思う暇もなく、美姫香の鋭い声がきっぱり突き刺さる。
「ファンを辞めるって、まののんのか?」
「いいえ。澄嶋真織だけではなく、声優全体のファンを辞めろって意味よ」
「別にオレはまののん以外のファンじゃないぞ?」
「声優を見た時、あぁー! ○○さんだぁ。こっちは何々に出てた○○さんだぁ。みたいなファン根性を捨てなさいと言っているの」
美姫香は続ける。
「思ってしまうのいいわ。それは人間として仕方のない事だもの。でも心の中だけにしておきなさい。もしそれを口に出したり、行動に出してしまったのを誰かに見られたら、颯太の夢はそこで終わりよ」
「そ、そこまでなのか?」
断言する美姫香に、オレは気圧されてしまう。
「それくらいの覚悟はしないとダメなのよ。時と場合によっては、チャンスを潰す可能性が十分考えられるわ」
「た、例えば?」
「颯太のそんな姿をたまたま声優事務所のマネージャーが見ていたとしましょう。それで、そんなレベルの人がいるならあの人は今後NGでお願いします、って言われてしまうかもしれないの。もちろん、それだけで現場そのものに出入りできなくなる可能性は低いわ。でも、その事態が起こったらレッテルを貼られるのは間違いないわね」
「胸に刻んでおく……」
たった一つの事柄でオレの目的が一瞬で瓦解するとは、おそろしい禁則事項だ。絶対に守らなければならない。
「それと同じ様な心得をもう一つ。澄嶋真織を狙っているのがバレない様にするのは大前提だけれど、「澄嶋真織は気になっている声優さん」みたいな言い方をしてもいけないわ。むしろ澄嶋真織なんて何も存じておりませんくらいのスタンスでいなさい」
「てなると、澄嶋真織という声優を応援している、とも言わない方がいいか」
「そうね。もちろんそれが良い具合に作用する場合もあるけど、大抵は悪い方に作用してしまうわ。まだこの業界に入りたての颯太が、特定の声優の名前を出したら「こいつそれが目的で入ってきたんでは?」と思われる可能性が高くなる。前も言ったように、とにかくそういう気配は消すべきよ」
「わかった」
さっきの禁則事項からしてこの心得は予想できた。ファンを辞める必要があるのだから、何も知らないと偽った方が都合良いに決まっている。
「ただし、澄嶋真織をイメージさせる出演者を探している事は、どんどんアピールしていきなさい」
美姫香が何を言ってるのかわからなくなった。
「まののんを応援している事は言わないが、まののんをイメージさせる事は言うべき?」
「そうよ」
明らかな矛盾としか思えないが、どういう意味なのか。
「例えば一緒に仕事をしたい声優がいたとしましょう。その声優がゲーム好きで有名なら、周囲に「その声優さんと仕事がしたいなー」ってアピールするよりは、「何処かにゲーム好きな声優さんはいないかなー」ってアピールしておくの」
ああ、なるほど。美姫香が何を言いたいか何となく分かってくる。
「時間が経って、颯太に声優のゲーム番組を担当する話がきた。その時、声優候補があがってくる中に、高確率で狙っていた声優と仕事ができるわ。ずっと「何処かにゲーム好きな声優さんはいないかなー」とアピールしていたのだから。自然に自分から声優を提案できるのよ。狙いを隠したまま仕事ができるわ」
美姫香は「もちろん確実ではないから、一つの案でしかないけれどね」と付け加える。
「その人の名前は出さないけど、結果的にその人が候補にあがって問題ない言い方をしておくのか」
「もし目的の声優が候補にあがってこなかったら「候補の人達を検証したけど、ちょっとイメージが違うな」とでも言って対象を絞っていきなさい。次の候補か、その次の候補くらいには出ると思うわ」
「てなると、どういう言い方をすればまののんが候補に上がるか考えないとな」
「澄嶋真織と言えば、どういうイメージがあるの?」
「かわいいな」
「そんなの当然過ぎて却下ね」
かわいいと答えるのは義務なので反射で言ったが、もちろんわかっている。美姫香が聞きたいのはそういうのじゃない。
「まののんと言えば、やっぱり芝居に対して真摯なところだな。インタビューでも勉強のためによく舞台を観に行くって言ってたし、映画とか最低でも年に百本くらい観る様にしてるとも言ってた。芝居に対して並々ならぬ情熱を持っているってイメージがある」
無論、ラジオもライブもイベントもまののんに抜かりはないのだが。アニメも完璧な演技で仕上げてくるが。むちゃくちゃ忙しいのに、映画や舞台を見る隙間時間を何処から見つけてくるのか謎過ぎるが。控えめに言って超人だが。さすがオレの惚れた声優さんだが。
「なら、それを周囲にアピールしていきなさい。将来的には芝居馬鹿みたいな人と番組をやってみたい、とかかしらね」
「偏見だけど、今って芝居馬鹿な声優さんが少ない気がするからな。最初の候補にまののんの名前があがりそうで、いい狙い所だ。よし、これで行こう」
かなり具体的な作戦じゃないだろうか。長期的に行えるのもいい。これなら指針に持って行けるから、身の振り方に一貫性が出る。
「あと、仕事をやるかどうか聞かれたら、まず名乗りをあげなさい。考えるのは後でいいわ」
「即レスが基本って事か?」
「その通りよ。名乗らないのはデメリットしかないわ」
美姫香は間を空けるように紅茶を飲むと、静かにカップを置いた。
「仕事は何だろうと糧になるモノばかりよ。「こんな話があるんだけどどうかな?」
なんて聞かれたら「やります」ってすぐに答えるの。「ちょっと持ち帰っていいですか?」なんて絶対言ってはダメよ。やる気のない新人と思われるし、他の人にチャンスを取られるわ。メールで誘いを受けた場合もすぐに返信しなさい。返信しないなんて人間のやる事ではないわ」
まるで地雷系ヒロインを相手にしているかのような振る舞いだ。でも、当たり前か。せっかく仕事のメールが来ているのに、既読スルーはあり得ない。
「メールは二十四時間が限界ね。既読しようと未読だろうと、メールをもらって二十四時間を超えたら、その仕事の話はなくなったと思いなさい」
「わかった。話が早いってのはどんな時代でも大事なスキルだからな」
「では次だけれど、いらない事は言わないようにしなさい」
そんなの当たり前だと思うのだが――もしかしてオレはいらない事を言ってしまってる人間なのだろうか? なら、自分を引き締めなければ。
「わかった。注意する」
そう返すと、美姫香は不満そうな顔をした。
「その言い方、どうやらわかっていないようね」
「大丈夫。わかってるよ。余計な発言して相手を怒らせたりしなきゃいいんだろ? たしかに自覚はないが、美姫香に直接注意してもらったんだから意識が働く――」
「違うわ。そういう意味ではないの。あと、颯太は別に余計な発言する人間ではないから安心しなさい」
余計な一言で相手を怒らせる才能はオレにないと美姫香は言った。なんというか、意味もなくオレは安心する。
「オタクというのは、すぐに言わなくてもいい事を付け加えようとするから、それをやめなさいと言っているの」
「……どういう事だ?」
オレに人を怒らせる才能がないのは理解したが、美姫香の言ってる内容はいまいち理解できない。
「なら少し質問しましょうか。颯太、あなたの好きな食べ物は何?」
「好きな食べ物か? ラーメンだな」
「正解。それでいいわ」
美姫香は何だか納得しているが、オレは何で正解なのかさっぱりわからない。
「聞かれた事にだけ答える。それが基本のコミュニケーションよ。そこに聞かれてもいない情報や自分語りを混ぜるのがオタクのコミュニケーションなの」
ああ、なるほどな。今、美姫香の言ってる内容を理解できた。
「相手が気を許せる友達だったり、自身を良く理解している相手なら問題ないわ。何も気にせず話せばいい。でも、相手がそうでないのなら気をつけなさい。余計な情報というのは、相手に不快感や不信感を与えてしまうの」
「わかった注意しておく」
「働く場所が場所よ。別に澄嶋真織でなくとも、うっかりしてしまうかもしれないわ。心に留めて置きなさい」
「今危なかった……」
正直、さっき芹沢さんが帰り際に挨拶してくれて舞い上がりそうになった。「ラジオも面白いですけど、イベントも最高でしたね!」なんて言いそうになった自分がいた。
注意事項を心に刻んでいてよかった。これからも朝は毎日復唱しておこう。
オレはおそらくマネージャーだろう人物と芹沢さんがエレベーターに乗ったのを見届けると、自分もさっさと撤収を済ませるべく荷物をまとめた。
「芹沢一果ってかわいいよなー」
「ケータリングでお菓子たくさん取ってたけど、甘いもの好きっぽいな」
他のスタッフが後ろでそんな話をしているのが聞こえた。
思わず「だよねー。あ、そうそう芹沢さんが今日着てた服って、まののんが主役の新作アニメ発表会で着てた同じブランドの服だよねー」とか言って混ざりたくなるが、そういうファン心は絶対に出してはならない。
――たしかにこの会話をマネージャーがそこの影から聞いていたとしたら、不信感を抱くかもしれない。ケータリングに何かいたずらされるんじゃないかとか、楽屋を盗撮されるんじゃないかとか、本来考えなくてもいい余計な心配事に頭を悩まされてしまう。
もちろん考えすぎと言われればそれまでだが、そもそも話す必要が無いに超したことはない。
オレは家に帰ると、トイレに張ったメモの『いらない事は言わない』の部分を、赤マジックでぐるぐる囲んで強調した。