〈九〉安息
家の裏手には井戸があった。そこで水を汲ませてもらう。
固く絞った手拭いで松枝は虎之助の血を拭い始めた。琴平は松枝に虎之助を任せ、庭で剣を振って鍛錬する。
今、何か脅威が迫ってきた時には琴平が先になって戦わねばならないと思うからこそ、疲れていても油断はできない。
ところが、一心不乱に剣を振っていたせいで周囲の物音には何も気づけなかった。
「――いさん」
ハッとして振り向くと、縁側に膝を突いた松枝がいた。集中しすぎるというのも良し悪しだと恥ずかしくなった。
「琴平さん、食べるものを用意してくださいましたので夕餉に致しましょう」
琴平は額に浮いていた汗を手の甲で拭った。
「はい、ありがとうございます」
すると、松枝はほんの少し笑みを見せた。それは儚い、花のような笑みだ。
あのまま嫁がされていたら、その花は無残に踏みにじられた。松枝のこうした穏やかな表情を見て、これでよかったのだと思える。
けれど、松枝には常に罪悪感がつきまとっているようだった。
「ごめんなさいね、琴平さん」
「俺が勝手についてきただけです。お二人には幸せでいてほしいから」
身内がいない琴平にとって、大事な人、好きな人というのは極端に少ない。親しんだ人も多くない。
そんな中で虎之助が別格としても、松枝のことは好ましく思っていた。母のように優しい女人だから。
松枝は、目にうっすらと涙を浮かべていた。
「ありがとう」
ごめんなさいよりも、ありがとうの方が嬉しい。
それから、松枝にはずっと笑っていてほしい。松枝は何も悪くないのだから。
この時、ふと琴平の視界の端に白っぽい何かが入り込んだ。
首を向けると、そこから見えたのは桜の花だった。一本の立派な三分咲きの桜だ。
――あれは多分、吉次たちが運び、一緒に里入りした桜の木だろう。いつの間にか植樹されたようだ。
宵闇の中、桜の花びらが光るように浮かんで見える。まだ三分咲きだというのに美しい。
あそこは先ほど通った盛り土の辺りだと思われる。あの注連縄は運び込まれた桜のためのものだったらしい。
この里にとっても桜は特別なのだろうか。
ゆるく坂になっているらしく、桜の方がこの家よりも高いところにあるようだ。
「桜が――」
「ええ、綺麗ですね」
松枝もほうっと息を吐いた。その横顔に母の幻影を見て懐かしさが込み上げる。
持ち込まれた夕餉の品々は遊廓とはいっても客に出すような派手さはなく、ごく質素なものだ。もちろん不満はなく、こうして食べさせてもらえるだけで有難い。
川魚の焼き物と味噌汁、櫃に飯を詰めて持ってきてくれたのは、この里の中の〈素人屋〉なのだという。
素人屋――つまり、遊廓においては米屋や豆腐屋といった、女郎屋とは無縁の商売屋のことを指すらしい。もちろん指示したのは花車なのだろうけれど。
蒲団も素人屋が運んできたらしく、そこまでしてもらえるとは思わなかった。花崎のような楼主にとって、行きずりの旅人を数日泊めるくらいで懐は痛まないとしても、その気遣いが嬉しい。
この里に来る客はほんの少ししかいないのだから、遊女たちも吉原などよりもずっとよい待遇でいられると思われる。寝る間も惜しんで客を取らされるようなことはないのだ。楼主とはいっても花崎は遊女たちに親切なのかもしれない。
借り受けた家には座敷が二間あって、宿場町の旅籠屋よりゆっくり休めた。松枝も部屋を分けられてほっとしているはずだ。
そして、その翌朝にはまた三人のために朝餉が運ばれてきた。
今度は琴平が受け取りに出る。運んでくれた小男は米屋だと言った。
「昨晩もありがとうございました。本当にお世話になります」
櫃を受け取り、琴平が深々と頭を下げると、中年の奉公人は人のよい笑みを浮かべた。
「いえ、ここに迷い込んだ旅人なんて今まで初めてですし、あっしらにできることがあるなら力になりてぇなって皆で話してたんですよ」
「皆さんがお優しくて、地獄に仏とはこのことです」
「じゃあ、また――」
恩着せがましさもなく、米屋の奉公人はへへっ、と照れ臭そうに笑って去っていった。琴平は炊き立ての米の匂いを嗅ぎつつ、中へと戻る。
櫃の上には梅干しや佃煮もあって、松枝がそれで握り飯を作ってくれた。
「虎之助様、お怪我の具合はいかがですか?」
朝食の前に朝の挨拶に行って訊ねると、虎之助は穏やかに微笑んだ。
「ああ、昨日はゆっくり休ませてもらえたので、随分と楽になった」
「それをお聞きして安堵しました」
そんなやり取りを、握り飯を運んできた松枝も嬉しそうに聞いていた。
投稿日間違えました!
その上、年齢の計算も間違えてまして……(´-ω-`)
琴平15歳→16歳
虎之助24→25歳
訂正させて頂きました。
1年だけですけど、ちょっと後で不都合が出るものですみません。
あと、誤字報告いつもありがとうございます(ノД`)・゜・。