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〈七〉花崎嘉兵衛

 桜を運ぶのを手伝うと琴平が申し出ても、彼らは険しい顔をして断るだけだった。


「大事な桜だ。余所者には触れさせん」


 ――とのことである。


 琴平は首を竦め、桜運びを手伝わずにぶらぶらと歩いている若い男に近づいた。さっきは取りなしてくれたのだ。礼のひとつくらいは言っておきたい。


「あの、さっきはありがとうございました」


 琴平が声をかけると、男はにぃっと口の端をつり上げて笑った。

 なんというのか、身なりはどうということもない木綿地の旅装だというのに、目を引く華がある。


「いいってことよ。俺は牛込(うしごめ)の植木屋〈九重屋(ここのえや)〉の職人で吉次(きちじ)ってんだ。お前さんは?」

「琴平です」

「お侍かい?」

「いいえ」

「刀を差してんのにか」

「剣術を習ってきたので、少し使えるだけです」


 吉次はふぅんと声を上げた。


「お連れさん方はいかにも訳ありってぇご様子じゃねぇか。ま、短ぇつき合いになりそうだし、いいけどよ」


 琴平としてはなんとも答えようがなかった。詮索しないでくれるのなら有難い。

 とはいっても、こちらは一行のことを知らねばならなかった。


「それで、皆さんはどちらに向かう途中ですか?」


 訊ねたけれど、吉次はおどけた仕草で首を傾げた。他の者はむっつりと黙り込み、答えるつもりはないようだった。


「俺も詳しくは知らねぇよ。着いたらわかるんじゃねぇの?」


 冗談なのか本気なのかがわかりにくい男だ。行き先を知らないのは吉次だけだろうか。

 この一行の中で吉次だけが浮いている気がする。植木屋は吉次だけなのかもしれない。


「は、はぁ」


 ここは琴平たちが最後に泊まった宿場町からそう遠くないことだけはわかっている。かといって、一行は他の宿場町を目指しているわけではなさそうだ。

 どこかの農村の肝煎(きもい)りが見事な桜を所望していると、そんなところだろう。


 桜は三分咲きで、枝ぶりもしっかりと太く、根を張ればいずれはたった一本でも見事に咲き誇ると思えた。母が桜を好きだったから、琴平も桜には特別な思い入れがある。




 ――しかし、一行は山道を抜けるでもなく、さらに深くへ向かっているような気がしてならなかった。

 あれからまだ日は完全に落ちておらず、それほど時が経ったわけではない。けれども、辺りが急に暗くなったように感じられたのは、生い茂った木の枝がその先を隠していたからだろうか。


 もしそうでないとしたら、一体なんだというのか。

 ずっと、胸のうちで何かが騒いでいる。


 ここはいけない。近づいてはならないと。


 琴平はその内なる声に蓋をし、前を見据えた。他の道はない。

 きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせたかった。


 ゆるい坂道を行き、大八車が重たげに悲鳴を上げるように軋む音を聞きながら歩いた。遠いが、川のせせらぎも僅かに混ざる。

 そんな中、足元の草が途切れ、(なら)された平らな道に辿り着いた。街道かと思いきや、違う。


 それでも、人の行き来のある道だ。

 ここはどこだろう。空を見上げてもわからない。


 そのまま進むと、少し開けた場所で大八車は一度止まった。

 その先に見えたものに琴平は驚嘆を隠せなかったが、驚いたのは琴平だけではなかったはずだ。虎之助は息を呑み、松枝は瞬きを繰り返している。


 山の中に橋が架かり、その先には黒鉄の大門が聳えていたのだ。外と中とを隔てる壁に囲まれたその地は、この門と橋によって外界から隔離されている。

 吉次は、山中のこの奇妙な場所でも軽く笑った。


「へぇ。隠れ里にも大門があるんだな。しかも、吉原だってこんなでかくねぇってのに立派なもんだ」

「隠れ里?」


 琴平が問い返すと、吉次は切れ長の目を期待で輝かせていた。


「ああ、ここは幕府公認の第四の遊廓。もっとも、庶民には知られちゃいねぇがな」


 ――この時代、江戸吉原(よしわら)、京島原(しまばら)、大坂新町(しんまち)、幕府公認の官許を得た遊廓はこの三つである。その、はずである。


 この三か所だけが公に遊女を置き、客を取り(あきな)っても咎められないとされる。それが、ここに第四の遊廓が存在するのだと吉次は言う。


「こ、こんな山奥に?」


 こんなところにどんな男が通うというのだ。隠れるにもほどがあるだろうに。大体、幕府公認ならば隠れる必要などないはずだ。


 ここまで来るくらいなら、深川や江戸四宿の岡場所で十分だ。銭がないなら夜鷹でも買えばいい。

 この遠方まで通うのなら、それだけの値打ちのある遊女がいるとでも言い張るのだろうか。


「んー、先の宝暦(ほうれき)の頃に、取り締まりが厳しくなって大名とか大身旗本、公家があくまでも表向きは遊廓の出入りを控えるようになったから、そういうお偉いさんをもてなすための里だとかなんとか。俺も来たのは初めてだからよく知らねぇけど」


 吉次が言う通りなら、ひっそりとお忍びで岡場所に繰り出せるような身分の人々でもない。そうした人々の求めに応じ、この第四の遊廓が造られたと。

 この話をしていたら、他の男たちに睨まれてしまった。軽々しく口にするなとでも言いたげだ。


「お前たちはここで待て」

「は、はい」


 黒光りする大門が地獄の底から唸るような声を上げながら開いていく。

 後にして思えば、この先へと琴平たちが踏み入らねばこの里はどうなっていたのだろうか。

 琴平が先走って吉次たちに助けを求めることさえしなかったら、何もかもが違ったことになっていたはずなのだ。


 それとも、どんなことがあったとしても琴平たちはこの里へと引き寄せられたのだろうか。

 そのことをこの時の誰かが知るはずもない。

 ただぼんやりと、開いた大門の中へ桜が運び込まれる様を眺めていた。


 そして、それと入れ替わりに大門の前に現れた人影がふたつ。じっと、琴平たちを値踏みしていた。

 その人影のうち、男とわかる大きな影が言った。


「旅の途中で怪我をされたとのことですが?」


 落ち着いた年配の男だった。声は武士ではなく、商人(あきんど)だろうと思える柔らかさで、金回りのよさそうなゆとりが感じられる。

 もしかすると、この男はいずれかの見世(みせ)の楼主なのかもしれない。


「はい。少し休ませて頂けたなら幸甚にございます」


 虎之助が丁寧に答えると、男はうなずいたようだった。


「ええ、いくつかの決まり事を守って頂けるのならお入れ致しましょう」

「かたじけない」


 琴平は虎之助と目配せし合い、それから三人で橋をゆっくりと渡った。この間、生きた心地がしなかった。

 魔境へ落ちていくような心許なさを覚えたのだ。それはこの地があまりにも不可思議であったからだろう。


 琴平は遊廓に足を踏み入れたことはなかったが、噂話ならば十分に聞いてきた。まだ幼い琴平に武勇を誇って粋がっている連中がたくさんいたのである。

 けれど、第四の遊廓などという話が飛び出したことは一度もない。本当にここに官許はあるのだろうか。


 近づくにつれ、影のように暗かった二人の容姿が見えてきた。

 男は五十から六十の間だろうか。艶やかな羽織姿で体つきはがっしりと背も高く、弱々しさはない。髪が白くなければもっと若く見えたかもしれない。


 能面のような顔をして控えている連れの女は、四十路ほどと見える。地味な装いや年頃からいって、遊女ではない。

 多分、年季が明けた遊女がそのまま遊廓に留まったのだ。〈()()〉というやつだろう。


「あたしは花崎(はなざき)嘉兵衛(かへえ)にございます。この遊里を取り仕切っております」


 花崎が浮かべた表情は笑顔ではあるけれど、目が笑っていない。油断ならない相手だと琴平は思った。遊廓の楼主ともなれば当然かもしれないが。


「私は――市原虎之助と申します」


 虎之助が一瞬、市原の名を名乗るのを躊躇っていた。それを花崎がどう思ったのかは読み取れない。


「お武家様ですな? そちらはご新造(しんぞう)様とお供で?」


 新造――つまり、松枝のことを虎之助の妻かと問うている。

 これには松枝が戸惑っていたが、虎之助は静かにうなずいた。


「はい。妻女の松枝と、供の琴平です」


 はっきりと、清々しい声で言いきった。

 松枝は目を潤ませて震えていたが、琴平は嬉しかった。やはり虎之助についてきてよかったと、主と仰ぐ人を誇らしく思った。


 花崎は弛んだ目元を動かして目を細め、笑った。


「それでは、歩きながらお話ししましょう。――ああ、こちらは遣り手の〈花車(かしゃ)〉と申します」


 花車は一揖(いちゆう)したが言葉は発しなかった。表情という表情がない。

 遣り手は遊女を管理する役目だが、遊女上りの女がなる。この女は遊女だった頃、どんな男に抱かれても顔色ひとつ変えなかったのではないかと思われた。

 特別美しくもなく、かといって醜くもない。覚えにくい顔だ。


 琴平は深々と頭を下げたが、小者に過ぎない琴平のことなど花崎も花車も気に留めていなかった。


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