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〈六〉町人

「虎之助様っ」


 呼びかけるが、返事はない。


「松枝様っ」


 もっと下まで落ちてしまったのか。

 長く伸びた草と木が邪魔をして二人を探せない。

 琴平はただただ懸命に祈った。二人の無事を。


 あの善良な二人が生き永らえることのできない世の中など間違っている。

 光が遮られた奥底に、微かに動くものが見えた。琴平はそれが何かを確かめる前に向かっていった。


「虎之助様っ」


 それは間違いなく虎之助の背中だった。虎之助は全身で松枝を庇い、坂を転がり落ちたのだ。それでも、生きている。

 松枝も無事で、琴平の声で気がついたようだった。


「松枝様もご無事でっ」

「え、ええ」


 虎之助は松枝を庇っていた腕を解き、それから上体を起こした。目が回ったのか、虎之助にしては虚ろな目をしていたけれど、すぐにいつもの顔に戻った。


「犬は追い払いましたが、お二人が崖から落ちた時には生きた心地がしませんでした」


 虎之助はそんな琴平を安心させようと微笑みかけたが、身じろぎする時に顔をしかめた。どこか痛めたのだ。


「い、痛みますか?」

「いや、大事ない」


 そんなのは嘘だと思った。


「宿まで引き返した方が――」


 琴平がそれを言った途端、松枝がさらに不安そうな目をしたから、これを言ってはいけなかったと悔いた。


「この坂を上ってもとの道に戻るより、違う道を探した方がいいだろう」


 虎之助は冷静にそれを言ったが、それはつまり、坂を上がるのが難しいということだ。


 虎之助は立ち上がった。袖口に血がついている。

 肩のところが裂けていた。転がり落ちた時、木の枝が刺さったのかもしれない。


 血を見て青くなりながらも、松枝は懐から手拭いを取り出して虎之助の傷口にそっと添えた。手が、はたで見ていてもわかるほどに震えている。


「心配要らない。松枝こそ怪我はないか?」

「わ、わたしはどこも――」

「そうか。それを聞いて安心した」


 優しい言葉に、松枝が涙を懸命に堪えているのがまたいじらしい。

 腕を縛って止血し、ようやく動き出す。虎之助の足は無事なようでほっとした。


「日が暮れる前に人里へ辿り着かねばな」


 こんな山奥で道に迷ったのでは、野犬どころか何に遭遇するかもわかったものではなかった。

 琴平はどうしようもない無力感に苛まれつつも、二人のため先になって道を探す。春の柔らかな草を踏み分け、先へ先へと進んでいく。


 ここはどの辺りなのだろう。

 鳥が啼く。


 ここは――。


 空を見上げても、光を遮る枝があるだけだ。

 琴平は神仏と母に祈りながら山に分け入る。傷ついた虎之助と寄り添う松枝を何度か振り返りつつ、一番体力が残っている琴平がどうにかするしかないと考えた。


 しかし、こんな山の中に人里などあるわけがない。現に人っ子一人通らないではないか。

 挫けそうになる心を、琴平はかぶりを振って力づける。

 琴平がついてきた意味がきっとあるはずだと。


 この時、何か音が聞こえた。獣が立てる音とは明らかに違う。

 ギシ、と軋む音、そして、足音。

 人がいる。琴平はその相手が敵か味方かを見極める前に音がした方へと飛び出していった。


「そこの方っ」


 その途端、相手の方が飛び上がらんばかりに驚いていた。


「なっ、なっ」


 琴平は飛び出してみてようやく一行を正面から見た。


 山伏でも(きこり)でもなく、その一行は町人のようだった。

 一行は大八車に一本の立派な桜の木をくくりつけて運んでいた。こんな山道で車が滑らかに動くはずもなく、六人がかりで押して引いてといった具合だ。


 桜をどこかへ運ぶのならば、近くに人里があるということではないのか。

 琴平は一行に縋るようにして懇願する。


「道に迷ってしまったのですが、怪我人がいます。どうか休めるところまで連れていってください。お願いしますっ」


 琴平は武士ではないから、町人に頭を下げるくらいはなんでもなかった。それが虎之助のためだとすれば尚更だ。

 一行は顔を見合わせた。皆、年の頃は若い。力のある若者を選んで運ばせているのだろう。


「――駄目だ。こっちは急いでいるんだ」


 すげなく断られてしまったが、そう簡単には引けない。


「どうかお願いしますっ」


 重ねて頼んだ。

 地面に膝を突いたら、一人の男が琴平を蹴り上げようと足を浮かせた。素早いのが取り柄の琴平はそれを察知し、とっさに躱した。その男がひっくり返ったのは琴平のせいなのだろうか。


 そこで妙に明るい笑い声が響いた。


「いいじゃねぇか、連れていってやれば」


 笑っていたのは、一行の中で一番若いと思われる男だった。琴平よりも二つ三つ上というところだろうか。つるりとした滑らかな顔を小生意気に歪めて笑っている。

 どういうわけだかそれが目を引くのだ。年若いが、粋というのはこういうものかと思えた。


「勝手なことはできん」

「じゃあ、大事な桜が穢れてもいいってのか? その怪我人とやら、ほっといたら死んじまうかもしれねぇぜ?」


 これを言われると、他の面々はぐぅっと唸っていた。その男は楽しげににやりと笑っている。


「助けてくださったら、御恩はきっとお返しします」


 琴平が言い募ると、町人たちは顔を見合わせ、ぼそぼそと話し合いながらうなずいた。

 その隙に、虎之助と松枝が追いついた。こんな山道で人に遭遇し、追手か盗賊に思えたのだろうか。虎之助は松枝を守るように戸惑いと警戒を浮かべている。


「仕方がない。ついて来い。ただし、里に入れるかどうかはお伺を立ててからだ。約束はできん」


 顔の四角い男が偉ぶって言った。

 虎之助は旗本家の嫡男だったのだ。本来ならばこんな口を利かれる謂れはないのだが仕方がない。


「かたじけない」


 虎之助は身分など諦めているのか、潔いものだった。

 ただ、傷が痛むのか額には脂汗が浮いていた。


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