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〈五〉山道

 ほとぼりが冷めるまでは適当なところに隠れ住むしかないのだが、その適当なところが難しい。せめて江戸市中からは離れたいと虎之助は言う。


 そうして、三人は闇に紛れて出奔した。

 琴平には大した荷物もなく、母がくれた守り袋くらいしか失くして困るものはなかったので楽なものだ。

 虎之助も荷物は少ない。嫡男でありながら家を出る引け目から、家のものは極力持ち出したくないと考えてしまった気がする。


 とにかく、ひたすら歩いた。一番疲れたのは女子の松枝だろうに、すべて自分のせいだと思って泣き言を呑み込んでいるのも見て取れた。そんな松枝を見る虎之助の目が切ない。


 琴平は市原家に来てから初めて旅をするのだが、心が躍るようなゆとりはなかった。

 とにかく、日が暮れる前に旅籠に落ち着いた。急いで江戸から遠ざかりたいが、日が落ちては危険だ。




「――琴平、そろそろだ」


 明け方、琴平を揺り起こしたのは硬い男の手だった。それは虎之助で、他の誰かのはずはない。


「虎之助様――」


 ようやく日が昇ろうかという頃合い。角が腐った戸板の節目からほんのりと白い光が差し込んでいる。けば立った畳の上で目を擦りながら起きると、虎之助の隣には旅支度をすっかり整えた松枝がいた。

 不安そうに、申し訳なさそうに座っている。


「すぐ、支度しますっ」


 琴平が慌てて言うと、虎之助はそっとうなずく。役に立つはずがこのままでは足を引っ張りかねず、急ぐと余計に手間取ってしまう。振り分け荷の紐が絡まった。


「ごめんなさいね、琴平さん」


 松枝が謝る。けれど、松枝は何も悪くない。悪いなんて思ってほしくもなかった。

 だから琴平は暗がりの中でも笑った。


「松枝様はなんにも悪くありません。そんな悲しい顔はしないでください」

「でも――」

「琴平の言う通りだ。松枝は悪くない」


 虎之助の言葉は、琴平よりも遥かに重みがある。松枝はその言葉を噛み締めるようにうつむいた。




 緊迫した逃亡の日々が過ぎていく。

 ここは中山道。


 次は松井田宿(まついだじゅく)だったが、虎之助はそこに立ち寄らないつもりのようだ。手形がない以上関所は越えられず、この辺りから真っ当な道は選べない。獣道を行くことになるのだろう。


 松枝も女の足ながらに必死で歩いたからこそ、追手に捕まらずにここまで来ることができた。ただ、これから先はもっとつらい旅になる。

 琴平はいざとなったら自分が道に立ち塞がって二人を逃がしたいと思うけれど、たった十六の小僧にどれだけのことができるだろう。


「春先でも風が冷たいですね」


 最後の宿を出て、歩きながら弾む息の合間に琴平はつぶやく。

 虎之助は道中の一里塚に植わった桜を見上げた。


「ああ、もう少しあたたかくなったら桜も開くだろうな」


 桜の蕾がほんのりと色づき、今にも咲き始めそうには見える。それでも、まだ満開には遠い。

 虎之助は途中で何度も松枝の足を気遣い、声をかけた。そのたび、松枝は目を潤ませて平気だと答える。


 この先、何が起こるのかは誰にもわからない。けれど、松枝にとってこの道中は幸せそのものではないだろうか。


 できることならば、この先もずっと幸せでいてほしい。琴平はそれを願わずにはいられなかった。

 そうして、三人は均された街道を外れて山へと分け入った。




 ――山道を歩く。空は晴れない。

 薄暗い中、黒い鳥がバサバサと羽音を立てて飛んでいた。


 風が木々の枝葉を揺らす。風の音が一層大きく鳴った。

 砂が巻き上げられ、目の前に土埃が立つ。


 ――この道は不吉だ。

 何故か不意に胸騒ぎがした。


 そんなわけはない、と琴平はかぶりを振ってその考えを振り落とす。

 この先には希望が待つのだと、それを信じなくてどうするのだ。


 すると、犬の声がした。ウゥゥゥ、と低く唸っている。

 いつの間にそこにいたのか、大きな野犬が土を爪で掻きながら琴平たちを威嚇していた。牙を剥き、涎を垂らしている様は恐ろしかった。あんなに大きな犬がいるのかというくらいには大きい。濃鼠の毛皮を被ったあれは、本当に犬なのか。


 ここは山だから、怪異が出たのだろうかと思いたくなる。山とはそういう場所だと聞く。

 虎之助は松枝を庇いながら下がった。琴平も刀の柄を握りしめる。


 この刀は旅に出る前に虎之助が琴平に授けてくれたものだ。業物ではないというが、それでも琴平には立派な刀だ。

 帯刀が許されていない身の上ではあるが、旅に出るとなれば話は別だ。物騒な旅にはどうしても必要になる。


 扱い方はわかっている。ただし、いつもは竹刀を振っていたのだから、手にずしりと来る重みはまだ馴染めない。

 虎之助は琴平を見て一度軽くうなずく。刀に相応しい技はすでに授けたとばかりに。


 いつでも虎之助は落ち着いているけれど、松枝はただの女子だ。この恐ろしい獣を前に取り乱していた。


「あ、あぁ……」


 青ざめた顔でかぶりを振り、後ろへ下がる。ただし、下がったところで後がなかった。

 道幅は狭く、崖ではないものの道から外れれば木々の中に落ちてしまう。松枝は足を踏み外した。


「松枝っ」


 虎之助はとっさに松枝の手首をつかみ、そして松枝を抱き締めて庇いながら二人で山道から転がり落ちていった。


「虎之助様っ! 松枝様っ!」


 落ち着け、と早鐘を打つ心の臓に言い聞かせた。怪我をしたかもしれない二人を救えるのはやはり琴平だけなのだ。

 ウウウ、と獣が唸りながら足をゆっくりと動かす。


 不思議と、先ほどまで感じていた恐ろしいという気持ちが薄れていた。今はただ、早く二人を助けに行かなくてはとそればかりを考えた。

 だから、いつもの自分とは思えないほど心が研ぎ澄まされる。


 一気に刀を引き抜いた。その刀をひと薙ぎすると、獣は飛びずさる。一度着地したかと思うと、そこから強靭な後ろ足で鞠のように弾んで琴平に襲いかかった。琴平はその牙を躱し、振るった刀の切っ先が、後ろ足の腱をかすめる。


 着地できず、きゃうん、と弱々しい声で鳴いて大きな体を横たえた。しかし、とどめを刺される前に身を起こし、足を引きずって琴平から間を取る。

 足を痛めては不利だと悟ったらしく、さきほどまでの獰猛さが嘘のように尻尾を巻き、背を向けて去っていった。血が、点々と道に残る。


 ――血を見て、思い出した。幼かった日の惨劇を。

 けれど、今はそれを言っていられない。琴平は身震いすると刀を鞘に納め、二人の落ちていった崖をそっと下り始めた。

 二人が途中で引っかかっていてくれていることを祈りながら下りていく。


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