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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈四〉決意

 琴平は、すぐに松枝の父親が暮らす長屋へと足を向けた。

 松枝のように大人しく優しい娘の親にしては、父親の田渡は好人物ではなかった。偏屈で怒りっぽく、息が酒臭い時すらあって、琴平はなるべく近づかないようにしていたのだが、今回は放っておいてはいけない。


 親の代から市原家の陪臣であったからよいようなもので、当人に才覚はない。若い頃ならば見目もよかったかもしれないが、今となっては草臥れたものだ。(あるじ)のそばに侍ることもない役どころで、実入りの少なさを嘆いてばかりいる。

 この時もやはり長屋にいた。戸口に立った田渡に、琴平はなるべくそっと訊ねた。


「あの、松枝様の様子がいつもと違うのですが、何かございましたか?」


 すると、田渡はくつくつと笑い出した。この男の笑顔など終ぞ見たことがなかった琴平には、それがひどく不気味に感じられた。無理に笑っているのがただただ伝わる。


「何もない。縁組が決まっただけだ。松枝は〈久菱屋(ひさびしや)藤兵衛(とうべえ)の後添えに納まる」


 久菱屋藤兵衛。

 五十の坂を超えた金貸しだが、ろくな死に方をしないと噂されるほどの人でなしだ。色狂いでも女を大事にすることはなく、飽きた女を遊廓に売り飛ばして金に換えたことすらあるという。


 血の通った親ならば、大事な一人娘を嫁がせようとは思わないはずだ。それが下げ渡されるのだとしたら、そこには大金が絡むのだと琴平にさえ読み取れた。


「ひどいことを――」


 思わず声に出したら頬を張られた。それを躱すと余計に激昂するのがわかったので避けなかった。黙って殴られてやったが、松枝にまでこんな調子なのだろうか。


「うるさいっ! 親なしの小僧がっ!」


 吐き捨てられたが、こんな親ならいない方がいい。

 頬を押さえながらその言葉を吞み込んだ。




 このことを自身の胸のうちに抱えておけなくて、琴平はそれをすぐに虎之助に話してしまった。

 後になって考えてみると早計ではあったのかもしれない。もう少し、自分だけでできることはなかったか考えてみてからでもよかった。虎之助ならばどうするのか、それを考える前に動いてしまったのだ。


「――そんなことが」


 ぽつりと虎之助は零した。言葉はそれ以上続かず、虎之助の顔は蒼白だった。

 虎之助に憧れる松枝だから、どうにかしてあげてほしいと願わずにはいられなかった。

 もう少し真っ当な嫁ぎ先でなければ、きっと松枝は早死にしてしまう。


 そうして、虎之助は動いた。

 松枝から直に事情を聞き出した虎之助は、大きな決断をしたのだ。




「借り入れた金を返せる目途が立たぬまま嵩んでいき、こちらから断ることはできないそうだ。我が父上にお頼みしたところ、相手が悪いと。逆に、女中などに肩入れするなとお叱りを受けただけだった。――剣の腕を磨き、学問に励んだところで大事な局面でなんの役にも立たぬとは無残なものだ」


 庭先で虎之助の絶望を聞き、琴平は共に苦しんだ。

 初めて出会ったあの日から、虎之助は変わらずに清廉なままだ。けれど、だからこそこんな苦しみを味わう。一人の人間をつかまえて女中()()、とは絶対に思わない人だから。


 琴平が涙を肩口で拭っていると、泣くようではまだ子供だというのか、虎之助は琴平の肩を優しく叩いた。その手からも虎之助の寂寥が伝わる。


「私にはなんの力もない。私が持ち得るのはこの身ひとつだから、松枝を攫って逃げることにする」


 家督を継ぐべく生きてきた虎之助が、耳を疑うようなことを口にした。琴平は言葉を失くし、同時に涙も止まった。

 これは本心だろう。


「松枝が世の無情になぶられるのを見たくない。そのために捨てざるを得ないものがあるとするのならば、私は進んで捨てる。――しかし、無言のままおぬしと別れるのではあんまりだから、これを伝えた。私たちがすっかりいなくなるまで黙っていてくれるな?」


 念を押すように言われた。この時、琴平の心も決まった。


「いいえ」


 すっかりいなくなるまで見送ることはしない。


「俺も共に参ります! お二人をお守りします!」


 中間の小僧ごときが大きく出たものだと、後で振り返ってみて自分でも思う。現に虎之助も戸惑っていた。


「おぬしまで巻き込みたくはない」

「虎之助様が出奔なさるのなら、ここに未練はございません」

「琴平――」

「俺、お役に立ちます。お二人だけよりも三人の方が遠くまで行けるはずです」


 松枝を守るのに、琴平がいれば見張りにもなるし、先触れにも使える。足手まといにはならないつもりだった。


「本当によいのか?」

「はい、もちろんです」


 もう泣いている場合ではない。

 二人を守りたいのならば、子供のままではいけないのだから。


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