〈三十九〉桜
――薄闇の中に若い娘の白い顔が浮かぶ。
娘は夜桜を見上げていた。
風に花弁が舞い、娘は手にした扇を開き、その花びらを受け止める。
「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし――」
蕾のような唇が歌を紡ぐ。
その声は、ただただ哀切だった。
春の夜風に揺れる桜の枝を見つめる、そんな娘に佳成は近づいた。
「そう感じるのは、おぬしの不徳の致すところだ。身の程を弁えろ」
この時の佳成はまだ年若かったが、すでに人よりも秀でていた。彼女の痛痒を我が身に置き換えて感ずることはなかった。
だから、妹とはいえど他人の心など汲み取れない。
「申し訳ございません、兄上――」
「決して早まったことをするでないぞ」
険しい顔をしてみせた兄に、妹は美しい、けれど苦いものを混ぜ込んだ危うい微笑を見せた。
「早まったことですか。手遅れかもしれません」
「何を――」
「これが今生の見納めになりますれば。さようなら、兄上」
遠ざかる小さな背中は闇に溶け、佳成は最初から妹などいなかったかのような心持ちになった。
御所の桜だけがそんな二人の別れを見守っていた。
あれからそう遠くない年に、妹の千景が愛してやまなかった〈桜〉は散った。
そうして、〈桃〉の季節へと移り変わる。しかし――。
桃園天皇は二十一歳という若さで崩御された。
この時、遺された英仁親王は四つの幼子。
よって、桜町天皇の第二皇女智子内親王が英仁親王が成長するまで皇位に就くこととなった。
年若く、心優しいその女性が今上、後桜町天皇である。
寛永六年(1629年)に七歳で即位した明正天皇から百年以上経ってからの女性天皇となる。
どちらも後嗣が育つまでの中継ぎとして即位していることを思えば、境遇は似ていた。
「佳成殿、いつも世話をかけます」
御簾の向こう側からかかる声は、いつも深い慈愛に満ちている。これほどまでに清らかな心を他に知らない。
「いいえ、何もご心配召されませぬように。これが私の役目にございますれば」
この嫋やかな女人が国の象徴、礎である。
しかし、だからこそ狙われるのだ。もともと、いくら幼いとはいえ男児を差し置いて彼女が即位する時、稀代の珍事だと、公家から大変な反発に遭った。今も女帝が天皇の座に就いていることを苦々しく思っている者が少なくはない。
彼女は穏やかで慈悲深くありながらも聡明だ。民を思い、民のために過ごしている。
英仁親王が育ちすぎてしまう前に、そんな彼女を引きずり降ろそうとする輩がいた。
今、彼女が亡き者とされてしまえば、次期皇位継承者は幼子である。どれほど操りやすいことか。
彼女を守るためであれば、どれほど残忍なこともできると佳成は覚悟して生きている。
この身はすでに捧げたのだ。
だからこそ、彼女へのただひとつの秘密が心苦しくはあった。
――妹の千景は、隠密裏に桜町天皇の身辺を守っていた。
女官の姿で、寝所に呪詛の跡などがないかを調べる役どころである。直接桜町天皇と二人きりで顔を合わせるようなことはなかったはずなのだが、偶然というものは度重なって起こるのだ。
いつからか、千景が桜町天皇の背を見つめる目が切なさを帯びていた。
桜町天皇は延享四年(1747年)に桃園天皇に譲位し、天皇の位を退かれた。
以前よりそれを仄めかしておられたから、千景は別れの時が来ることを感じていて、覚悟を決めたのだろう。
釘を刺したところで効き目もなく、その後で千景は失踪した。
その三年後に桜町上皇は崩御される。
聖徳太子の再来とまで謳われ、聖代を作り上げたとはいえ、今の佳成よりもまだ若い死であった。
あの時――。
すでに千景が身籠っていたのだとすれば。
その子が無事に産まれていたのだとすれば。
その子が男児であったとすれば、大変なことである。
千景は死んだのだという。
後桜町天皇に向けられた呪詛と同じく、桜町天皇の御子を呪詛する式神が千景の子にも向かってきたのだとしたら、千景一人では防ぎきれなかっただろう。術を使い、身代わりとなって受け止めたに違いない。
千景を殺したのは術者が放った式神で、生身の人間ではない。知識のない者に下手人など捕まえようがないのだ。
しかし、千景はそうして死ぬことで己の子である琴平の守護者となり、その身を守っている。けれどそれは、腹を痛めて産んだ息子を庶子としてでも認めさせたいという想いからではないはずだ。
千景の気性から察するに、むしろ無事に生きられるよう、誰にも真相は知られずにいたいのではないだろうか。
もしこれが公になった場合、琴平はすでに十六歳だ。英仁親王が育つまでの中継ぎとされている後桜町天皇が肩の重荷を下せる日は格段に近くなる。
けれど、そこに至るまでに波乱が起こる。火種となる。琴平はまた狙われる。
あれは、どんな血を引いていようとも平凡な暮らしが似合っている。何も教えられずに育った琴平が今更現人神になどなれはしないのだ。
大事なものはほんのひと握り。佳成にもこれ以上は抱え込めない。
それをわかっていて、琴平を政の道具に担ぎ出すべきではないのだ。
大切な彼女のためであっても、琴平を犠牲にすることだけはしてはならない。
佳成は、御所の内裏で左近桜を見上げながらつぶやいた。
「想いの証に命を賭したお前の覚悟はよくわかった。今更遅いとは言ってくれるなよ」
美しい桜の花は、人の目と心を癒してくれる。
けれど、何故だか心の奥底の寂寥を掻き立てるようにも感じられる。
あまりの美しさに心の琴線が震え、涙が零れそうな思いがする。
春の心が穏やかであるとすれば、それは桜を見る者が幸福であるからだろう。
【了】
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
桜町天皇は享年31歳だったそうです(´-ω-`)
和歌は在原業平の有名なヤツです(雑な説明)




