〈三十八〉別離
琴平が佳成との話を終えると、虎之助と松枝が横に並んで待っていた。
松枝を取り戻した虎之助は、以前と同じほどの穏やかさでそこにいる。荒れた虎之助を松枝は知らないままなのだろう。松枝を想う心が虎之助を変貌させたというのなら、松枝よりも虎之助の想いの方が強いのかもしれない。
松枝はきっと、これから幸せになる。
すでにこの里の女たちから妬まれるほど幸せではあったのだ。
「松枝様、ご無事で何よりです。こうしてまたお会いできるなんて、本当に……っ」
声を詰まらせた琴平に、松枝は困ったようにそっと優しく微笑んだ。
「事情を何も話せないままになってしまってごめんなさい。でも、また二人にお会いできると信じていました。琴平さんもご無事でよかった……」
再会を喜び合う二人を、虎之助は静かに見つめていた。
もう、この里へ来る前と今とでは、すべてがまったく同じということはない。変わってしまったのはどちらなのだろう。
「琴平、私と松枝はこのまま旅を続ける。おぬしはどうするつもりだ?」
以前なら、悩みさえしなかった。お供します、と考えるよりも先に答えていた。
しかし、今は歩む道が違うことを知っている。琴平は姿勢を正し、虎之助の目を見据えた。
「お二人とはここでお別れになります」
きっと、虎之助は琴平がこの決断をするだろうと気づいていた。
そして、そうであればいいと思っている。それが表情から伝わった。
「采璃が佳成様たちと行くことになるので、俺もついていきます。約束したので」
その後のことは考えていない。それでも、約束は守りたい。
松枝は口元を押さえ、虎之助を見上げた。虎之助はうなずく。
「彼女にはおぬしが必要だ。そうしてやるといい」
それは突き放した物言いではなく、言祝ぐようでもあった。
だからこそ、涙が零れそうになる。
「俺、助けて頂いてからずっと虎之助様のために生きたいと思っていました。でも、それは俺が自分のするべきことを探せない言い訳でもあったんです。虎之助様に導いてもらえば迷うこともなくて楽だって、頭のどこかで考えていたのかもしれません。だから、虎之助様に恩を感じるなら、俺自身がしっかり自分で、自分のために生きなくちゃ駄目なんだってわかりました。だから、行きます」
「そうだ。それがおぬしのためにもなる。達者で暮らせ」
虎之助は、後ろをついて回るだけの琴平を歯がゆく思っていたのだ。だからこそ、剣の腕を磨かせ、己に自信が持てるように鍛えてくれた。
今、虎之助は琴平の巣立ちを喜んでくれている。
「でも、ここで別れたらもう会えないのでしょうか?」
松枝が寂しそうにつぶやく。
けれど、琴平はそんなふうには思わなかった。
「いえ、きっとまた会えます。これが最後という気はしないんです」
根拠を問われても答えらえないが、確信めいたものがあった。
「次にお会いできる日には、もう少しくらいは立派な姿をお見せしたいと思います」
泣くのを堪えて笑う。虎之助も少しくらいは寂しさを抱えてくれただろうか。
「その日を楽しみにしていよう。ではな」
「はい! どうぞお元気で!」
手を取り合って山道へと消えていく二人。
いつの間にか夜明けが近いようだった。
遠ざかる二人の背を眺めながら不意に佳成がつぶやく。
「――さて、琴平」
「はい?」
「どうやらおぬしは私の甥らしい」
「は?」
琴平がその言葉をすぐに呑み込めずに呆けても、佳成は琴平の方を向かなかった。
「私には千景という名の妹がいて、妹は十七年前に出奔した。あの時、胎におぬしが宿っていたようだ」
天涯孤独な身の上のはずが、こんなところへ来て伯父に出会うなどとは考えてもみなかった。
けれど、佳成の顔をつぶさに見ると、母とまったく似ていないということはなかった。繊細な面立ちは似通っている。母に比べると佳成の表情は厳しいけれど、それは多くのものを抱えるからだろう。
「そんなの、急に言われても……」
口ではそう言ってみるものの、母が当たり前のように九字を唱えながら反閇を行い、人型の札を扱っていたことを思うと、まったく無関係ではない。
琴平は戸惑い、采璃が不安げに見つめてくる。
この人は他に何を知っているのだろう。
「じゃあ、俺の父親が誰だか知ってるんですか?」
父親に関しては、あまり考えたことがなかった。勝手に虎之助のような人を思い描き、何か事故があってすでに亡いのだと物語を作り上げて自分を納得させていた。
母が選んだのだから、松枝の父親のようにどうしようもない男ではないと思いたかったのだ。
しかし、佳成は平然と言った。
「さてな」
「知らないんですか?」
「あやつは子ができたことも知らせなかった。最後に別れてから一度も会っておらぬ」
別に、父親がどこの誰だか知れたところで琴平には関わりのないことである。今さら気にすることでもないかと振りきった。
父親は不明のままでも、肉親がいることだけはわかったのだ。
だからといって、佳成が琴平の面倒をみると言い出すことはないと思った。そんな期待もしていなかった。
「まあ、こうして存在を知った以上、ここで別れるわけにはいかぬな」
「えっ?」
「おぬしは私の養子とする。千景が命がけで守った子だからな」
「で、でも……」
「その娘たちのことなら心配せずとも引き離したりはしない」
琴平は約束を違えないで済むのならいいと思った。
けれど、佳成は悪人でこそないが里を滅ぼした。目的のためには非情になれる。時永は望んで潜入したというが、采璃たちまでそういう扱いをされないだろうか。
そんなことを考えた矢先、ドォンとひと際大きな音がして振り返ると夏雲のような土煙が上がっていた。そのせいでよく見えないけれど、里が完全に崩壊したのだと思った。
あの時永と吉次は。あの二人はどこにいるのだろう。
采璃もはらはらと手を組んで祈っている。
「う……」
背に背負った華汰がようやく気づいて身じろぎした。
それと同時に、もうもうと上がる土煙の中、手を繋いで走ってくる人影がふたつ。
佳成はそれを見届けると、深いため息をついた。
「これでようやく終いだ――」
そのつぶやきと共に、里は奈落へ沈むように落ちていく。
最早この里は、その存在を知る者の記憶の中にしか残っていない。名残として黒鉄の大門が残ったが、これもいずれ錆びついたただの鉄屑になることだろう。
明日で完結します。
 




