〈三十七〉呪物
大門は口を開くのではなく、崩壊した塀と共に倒れていた。その手前に采璃がいる。
「琴平! 華汰!」
破れた袖を大きく振って采璃が呼ぶ。しかし、二人だけしかいないことに愕然とした。
「時永たちは……」
その問いかけに、琴平はうつむいてごめんと言うしかなかった。
采璃はもう何も訊かず、向こうを指さす。
「ここを渡ってこいって」
誰がということはない。カセイだろう。
「虎之助様は?」
「この先にいるよ」
落ちた橋は、再び架かりはしない。ただ、どういうわけか橋の代わりになるように、倒れた大門が向こう側に届いている。
琴平は華汰を背負いながら、采璃と共に鉄の大門の上を走った。
向う側が見えてくる。
そこには十人以上の男がいた。烏帽子を被り、狩衣を纏った集団だ。彼らは円を描くように立っており、地面には何らかの文様が記されている。
もしかすると、彼らがここからカセイと共に桜を操っていたのだろうか。
その人々が見守るように囲んでいるのは、虎之助と松枝だ。虎之助は肩を震わせ、松枝を強く抱き締めている。松枝はただむせび泣いていた。
「松枝様……」
生きている。無事だったのだ。
そのことに安堵すると膝からくずおれそうになる。そんな琴平に声がかかった。
「早く結界の中へ入れ」
円の内側を結界と言うらしい。そう言ったのは、見知らぬ男だった。白い正絹の狩衣を纏った、公家のように品のある男だ。
年の頃は三十代半ばを越えていると思われるが、顔立ちは整い、立ち姿が凛々しい。
華汰を背負った琴平が采璃と一緒に気後れしながら結界へ踏み入ると、その男は琴平に近づいてきた。
「時永はどうした?」
男は琴平に問いかける。この時、琴平はやっと気づいた。
「あなたが……カセイ?」
「私は土御門家三十六代目当主、土御門佳成だ」
そう言って目を眇め、笑った。その笑い顔はカセイによく似ていた。
「時永は、吉次さんを逃がせなくて一緒に残りました。佳成様に、育ててくれてありがとうと伝えてほしいとのことです……」
育てたということは、時永は佳成の養女というところだろうか。佳成のために時永はすべてを賭して恩返しをした。そこにはもっと複雑な想いもあったのかもしれないけれど。
「私は疲れているのだがな、あの子の働きには報いてやらねば」
佳成は小さく嘆息すると、袖から札を取り出し、サッと空に撒いた。その途端、札は鳶となって羽ばたいていった。
あの鳶に見覚えがあるような気もしたが、鳥の区別などつかないだけだろうか。
「あれは?」
「式神だ。カセイも私の式だが、あれは私が直に乗り移って動かしていた。さすがに本体のようにはいかぬのでな、術を使うにも骨が折れたが」
「式……」
「あの娘、松枝が桜に貫かれた光景を見せた、あれも依代を使った偽物だ。呪詛は術者に返したが、松枝が無事にうろついていたのでは誰が呪詛返しを行ったのかという疑問が生じてしまうので、しばし隠れさせた。おぬしも見ておったのでわかるだろうが、衣通太夫の式神は花車だ」
式神というものは、傍目には生き物としか映らないほど巧妙に動かせるものらしい。それというのも術者の技量によるのかもしれないが。
「この里で起こったことは、あたしたちにはまるで理解できません。一体、どういうことなのでしょう? この里で育ったあたしや華汰は何か罰せられなくてはいけないのですか?」
采璃がおずおずと佳成に問いかける。佳成は気難しそうな面持ちを見せた後、軽く首を振った。
「まず何から話すべきか――この里は、客から依頼された呪詛を里ぐるみで行っていた。私たち陰陽寮の陰陽師はそれがどこから行われているのかを探っていたのだが、ようやくこの地を探り当てた。しかし、陰陽師は結界を結び外部からの侵入を防ぐことができる。ここの結界に綻びができるのは、新たな女を迎え入れる時と桜の木が運び込まれる時だ。私の養い子である時永――いや、これは本当の名ではないが――彼女が五年前に潜入を願い出てくれた。それによって今回のことが成し得たと言ってもいいだろう」
時永がカセイの手先だったなら、桜が暴走した時でさえ慌てる必要はなかったのだ。落ち着いていたわけだ。
時永が一番驚きを見せたのは、琴平がカセイの名を出した時だった気がする。
「やつらは今上――後桜町天皇陛下に狙いを定めた。どんなことがあろうとも、何を犠牲にしようとも、それだけは食い止めねばならなかった」
これを口にした時の佳成は、邪視を行った時の衣通太夫よりもぞっとするものがあった。
静かに燃える炎のような人だ。しかし、衣通太夫や花崎のような冷徹さとは違うのかもしれない。己と己の大切な者に手を出された時にだけ牙を剥く。
「新造と禿は何も知らぬまま育てられていると時永が言っていた。特に何かあるわけではないが、一度私たちに同行して話を聞かせてもらおう。おぬしはどういうわけか私の動かした桜から身を躱す術を身に着けていたが、それをどのようにして身に着けたのだ?」
それを問われ、一番驚いたのは采璃自身だろう。目を瞬かせ、固まった。
「あたしがですか? いえ、あたしは何も……」
身に覚えがないようだ。
思川太夫が亡くなった時、思川太夫を桜から庇おうと身を乗り出した采璃は体を桜の枝に貫かれた。けれど、傷を負っていなかったのを琴平は知っている。
「何か呪物を身に着けていたのか」
「呪物ってなんですか?」
「護符など、身を守るもののことだ」
「いえ、何も持っていません」
しかし、佳成は納得しなかった。
「そうだな、ここ五年、ここへ運び込まれた桜には私の術が施されていた。その桜から何かを作り、身に着けていないか?」
それを言われ、采璃は考え込む。
「心当たりが……」
この時、琴平はまさかと思うような可能性に思い至った。
「桜餅」
「えっ?」
「桜餅の桜の葉の塩漬け、いつも食べるよな?」
「…………」
采璃は、琴平が何を言いたいのか察すると顔を着物と同じくらい赤くした。その様子がとても可愛い。
「そ、それは……」
佳成は首を傾げている。
「桜の葉?」
「その術のかかった桜の葉を食べたら、身に着けるのと同じじゃないんですか?」
馬鹿なことを言うなとばかりに佳成は笑った。
「考えられなくもないが、相当な量を食べないことにはな」
多分、采璃はこの五年間でその相当な量を食べたのだ。
そんなものが護符の代わりになるなどとは誰も思わない。
「…………」
佳成は一度黙り、この問題を一旦横に置いた。
そして。
「それはそうと、おぬしもだ」
「お、俺ですか?」
「そうだ。むしろおぬしの方がわからぬ。何故、衣通太夫の邪視が効かぬ? 見たところ、剣を振り回すばかりで営目や存思などの呪禁を学んでは来なかっただろうに」
「え、えっと……」
佳成が何を言っているのか、琴平にはさっぱりわからなかった。それなのに、佳成はじっと琴平の目を見た。そこから何かを読み取るようにして。
「あっ! 俺、母がくれたお守りを持っています! だから助かったんだと思います!」
お守りは呪物だとさっき言っていたではないか。
琴平の身を守ってくれたのは、きっと母だ。
しかし、佳成は半眼になって吐き捨てた。
「たわけ。ただの母親が買い求めた守り袋にそこまでの効力があるか」
琴平の宝物だというのにひどい言い草だ。
「買ったのではなくて、作ってくれたんです!」
余計に悪いとでも言いたげに、佳成は額に手を当ててかぶりを振った。
琴平はいつも首から提げている守り袋を佳成に見えるように引き出した。
「ほら、これが――」
この時、佳成は面倒くさそうな顔を隠しもしなかった。けれど、琴平の守り袋を見た途端に顔色を変えて琴平の肩をつかんだ。
「えっ?」
こんなに食いつかれると思わなかったので、これには琴平の方が驚いてしまった。
「晴明桔梗印か。……おぬしの親は?」
「小さい頃に亡くなりました」
「両親共にか?」
「母だけです。父は顔も知りません」
「母の名は?」
何を知りたいのだろう。大体、時永たちが大変な時にこんな話をしていてもいいのだろうか。
琴平は苛立ちを覚えつつも答える。
「ちかげ、です」
普段はちかとだけ名乗っていて、皆は母を〈おちかさん〉と呼んでいた。
それを聞くと、佳成は納得したようだった。何故、納得したのだろう。
母は、そもそもどこから来た人だったのだか、思えば琴平は母の来し方をほとんど知らない。
「……死んだのだったな? どんな最期だった?」
いつまでも癒えない傷を抉るようにこの話題に触れる。
しかし、佳成はただの興味本位でこんなことを訊ねてくるような暇人ではないはずだ。何か意味があるのだとして、それが琴平にはわからないだけだった。
「誰かに殺されたんだと思います。腹から血が出て、それで……」
「下手人は捕まらなかっただろう?」
何故それを察したのだろうかと思ったが、この男にはすべてを見通すようなところがある。
「……はい」
答えてから、佳成を睨むように目を向けたが、佳成はそんな琴平の視線を受け流す。
「よくわかった」
その声に悲哀があったと言ったら、佳成は否定するだろうか。
何故そんなことを思ったのか、琴平にも上手く説明できなかった。
土御門家三十六代目の御当主は別の方です。
フィクションです|д゜)←しつこい




