〈三十四〉衣通太夫
〈御衣黄屋〉の中は、やはりそれほど荒れていなかった。采璃と共に息を切らして螺旋状階段を最上階まで駆け上がる。ここは〈千里屋〉よりも広い。
その階段を上がっているうちに、上の方から轟音がして建物が揺れた。そのはずみに壁で肩を打った。それでも、何が起こっているのかを見極めなければという思いに突き動かされている。
最上階の襖はすべて開け放たれ、唐紙を貼った壁には大きな穴が空いていた。
ただ、この座敷は異様だった。色とりどりの紙垂のような細い紙が所狭しと飾られている。その中に埋もれるようにして祭壇のような何かがあった。それから、菅笠が落ちている。これらは何を意味するのだろう。
座敷で対峙する者たちを見て琴平は目を疑った。
燃えたはずの花車が平然と立っていたのだ。先ほどの出来事は何かの見間違いなのか。
カセイの後ろには時永がいて、その二人を迎え入れているのは花車と花崎。そして、もう一人――。
「よくもまあこんな手の込んだことを仕組んだものだ」
淡い色合いのまっすぐな長い髪。結われずに膝の当りまで垂らされている。
白い着物の上に金色の打掛を羽織る姿は神々しくもあったが、この場に似合いの存在だとは思わない。
通った鼻筋、意志の強そうな眉と鋭い眼力を持つこの若者は誰なのだろう。
もちろん、遊女などではない。肩幅や首の太さから、どう見ても男だ。こんな時に居続けの客がいたというのだろうか。
そういえば、吉次とこの里に客がいる可能性についても考えたが、今の今まで忘れていた。
その男はカセイの存在に驚いたふうでもない。不敵に笑っている。
「実に手間がかかった。しかし、それももう終わりだ」
カセイが言い放つも、男はカセイではなく時永を見て鼻白んだ。
「お前が手引きをしたか。気の強い娘だとは思っていたが、なるほどな」
「他の二人はもういない。衣通太夫、あんたが最後だ」
時永が、ヒュッと音を立てて薙刀の先を男に向けた。
この男は客などではなく、衣通太夫その人だという。
しかし、男が太夫であるとはとんだ茶番だ。ここへ来る客は男でも買うのか。
カセイは顔色を失っている花崎には目もくれず、衣通だけを見据えていた。
「いざなぎ流陰陽術を使い、要人を呪詛するための隠れ里――。いざなぎ流では術者を〈太夫〉と呼ぶ。術者である太夫を育て、金銭での報酬の代わりに人を呪い殺してきた。陰陽師に対抗できるのは同業だけだが、この里は〈四神相応の地〉を選び巧妙に隠されていた」
「土御門か。なるほど、大事な桜が枯れるのを防ぎたかったわけだな」
琴平たちが話についてゆけずとも、双方は互いを不倶戴天の仇と定めているようだった。
カセイは――桜の精ではないのか。
陰陽道、陰陽師、そして土御門。これらがカセイの存在を示すに近い言葉であるらしい。
官許があるというのが本当なら、ここは国の闇だ。国ぐるみで邪魔な人間を呪い殺しているということになる。
重職にありながらも頓死したとされるような場合、この里の関与が疑われるのではないだろうか。カセイはそれに気づき、呪詛を止めるべく動いていたのか。
そう考えると、なんてところに迷い込んでしまったのだろうと改めて思う。
「地相はよいが、唯一の瑕疵としては〈金〉の気が勝ちすぎている。故に呪力のある桜を毎年植えつけることによって〈木〉の気を取り入れて抑えることにした。だが、力を絞り取られた木がこの地に根づくことがない。だから、毎年新しい木でなくてはならなかった。そこが我らにとっての狙い目となった」
責め立てるようなカセイの言葉に、衣通太夫はクッと小さく笑う。
「今年の桜に細工がしてあったというわけか。人が容易に越えられぬ結界も、木を運び込む時だけは綻びが入る。それで、潜入させていた時永の水揚げに私と接触した今年が狙い目だったというわけか。里で育てた新造の水揚げは私が行い、その時より本当の太夫へと教育を始めるのでな。時雨も思川もそうだった」
呪詛を生業とするのなら、太夫が女である必要はなかったはずだ。それに、この衣通太夫と床を共にする必要もない。
ここは遊廓だと、その隠れ蓑をもっともらしく見せるためだけにしたことだろうか。
そんな琴平の胸に浮かんだ疑問に、カセイが答える。
「霊木の力が強すぎれば、この地は陽の気に傾く。強い呪力を持つ女人を置き、女の持つ陰の気によって調和を保ったというところか。男であるおぬしは陽の気が強まりすぎた頃合いに、女と交わることで陰の気を取り込んでいた」
陰と陽。
知識のない琴平にはわかりづらいが、カセイが言うのはこのふたつの調和が大事で、どちらか一方に傾きすぎると術を使う際に障りがあるということのようだ。
木は陽。金は陰と分けられるとして、それ以上のことは理解できなかった。
「男は陽、女は陰――陰陽二元説だ。この里では客が望めば遊女には床入りもさせるが、それはただの性欲の捌け口としてではなく、まぐわいによって陰陽の均衡を保つために行う」
衣通太夫はカセイを睨みつけたまま一度、鼻面に皺を寄せた。けれどすぐに泰然と笑ってみせる。
「時永はこれまでの女たちと比べても格段に素質があった。閨で声ひとつ上げず、私を睨みつけたところも気に入っていたのだがな。――まあ、女に教えても私怨に利用してしまうのが困ったところだな。思川が行った呪詛を返したのはお前だろう? 可哀想に」
采璃がハッとして口を押えた。カセイは衣通太夫から目を逸らさない。
「おぬしらはこの里と共に滅ぶがいい」
「お前にそこまでの力があると?」
衣通太夫は長い袖の下から白い札を取り出し、その札を放った。札はひらひらと揺れながら落ちてきたかと思うと、百鬼夜行の鬼たちに姿を変えた。
まさかと目を疑う光景だが、頭から角を生やし、赤い肌をして、今にも目玉が飛び出しそうなほど見開いた目は血走っている。牙の覗く口からは長い舌と涎が零れた。
「鬼神か……」
それでも、カセイは落ち着いていた。稚児のように頼りない姿をしながらも、ただの少年ではない。
カセイの、まっすぐに立てられた二本の指が印を結んだ。
「東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良、南海の神、名は巨乗、北海の神、名は禺強、四海の大神、百鬼を退け、凶災を祓う。急々如律令」
白い清らかな光が鬼たちに降り注ぐ。しかし、鬼たちは呻き、叫びながらもカセイに突進してきた。
それを時永が踏み込み、鬼の水月を薙刀で払った。ただの薙刀ならば鬼には効かなかったかもしれないが、よく見ると柄に霊符が巻かれている。
時永を手強いと見たのか、鬼は琴平たちにも襲いかかってきた。
この時、カセイはひどく疲れて見えた。顔色は変わらないが、姿がさらに透き通って見えたのだ。
通用すると限らないにしても、琴平は刀を抜いた。このままでは殺されるという恐怖心が、かえって自分を強めていたのかもしれない。
袈裟懸けに鬼を斬った。手ごたえは、きっと人を斬ったのと変わらない。断末魔の声も。
思った以上に実態がはっきりとしており、生々しかった。恐ろしくないわけがない。
この場で誰が味方で誰が敵なのか、それさえよくわからない。それでも、自分と采璃だけは別だ。
刀を握り直すと、衣通太夫が憤怒の形相で琴平を見ていた。その目を見た途端に体が硬直してしまう。
「やつの目を見るな! 邪視だ!」
カセイの声がした。
えーと、こちらはフィクションですので、いざなぎ流の方々ごめんなさい。
実際はこんなんじゃありません。
病人の祈祷とか、家内安全の祈祷とかそういうよい使い方が主なようです(呪詛はできるらしいですが)




