〈三十二〉御衣黄屋
二人、手を繋いでしばらくへたり込んでいた。はっきりとした時刻はわからないけれど、とうに昼は過ぎ、申の刻くらいだろうか。
立ち上がらないとと思うけれど、体が動かない。頭も鈍い。
今日は落ち着いて食事らしい食事もしていない。立て続けにいろんなことが起こって、空腹を覚えている暇がなかったけれど、今になってどっと疲れも出てきた。
琴平はぼうっと遠くを見た。すると、視界には空と桜の花と、崩れかけの〈御衣黄屋〉が見えた。
〈御衣黄屋〉は三つの妓楼のうちで一番最初に狙われた。けれど、ふと思う。
瓦などは落ちてしまっているが、よく見ると損傷はそれほどではない。〈関山屋〉はもっとひどい有様で壁は崩れて内部まで露出していた。ここ〈千里屋〉も枝に貫かれている。それを思えば、〈御衣黄屋〉は妓楼の形を留めていた。
化け桜とカセイが手心を加えるとは思えない。それとも、何か別の理由で攻めあぐね、崩れずに残ることができたのだろうか。
あの〈御衣黄屋〉も崩れた時、桜は満足して動きを止めるのか。
「……衣通太夫はどうなったんだろう」
琴平はつぶやいた。
思川太夫も時雨太夫も亡くなった。もしかすると衣通太夫もすでに儚くなったのかもしれない。
しかし、花車がいるのなら花崎も無事と考えられる。肆町の方に花崎らはいなかった。花崎が衣通太夫と共に〈御衣黄屋〉に身を寄せているという可能性はないだろうか。
「もしかすると生きているのかな? あたしは会ったこともないけど……」
采璃も衣通太夫生存の可能性を考えたようだ。
もしまだ生きているのなら、助けることはできないだろうか。このまま里と共に滅ぶのでは憐れだ。
「采璃。俺、〈御衣黄屋〉の跡を見てくる。采璃は――」
肆町の方へ送って、華汰たちと待っていてもらおうと考えた。けれど、その考えの先を読んだらしく、采璃はかぶりを振った。
「あたしも行く。あたしはこの里の女だから。琴平だけだと取り合ってもらえないかもしれないし」
采璃が言うことももっともだった。吉次ほど目の敵にされないとしても、余所者が災厄をこの里に招き入れたといって追い払われるのが落ちだろう。
琴平はこの里にとって敵ではないつもりだが、それを証明できるものは何もない。
「あたしなら大丈夫。どこにいたって確実に安全なんてことはないから」
「それって大丈夫って言わないよな」
「そうかもね」
そう言って采璃は笑った。無理をしてでも笑えるようになったのなら、ほんの少しは琴平にも値打ちがあったのだろうか。
「じゃあ、大丈夫じゃなくても、死ぬ直前であっても、少しでも長く琴平といようと思うの」
不吉なことを言うけれど、琴平もそれでいいと思った。
見えないところで離れているよりもそばにいた方がいい。采璃が死ぬ時は、采璃を守ろうとして琴平の方が先に死んでいるはずだ。
「わかった。じゃあ行こう」
もう、道らしき道はなく、樹齢何千年と経た大樹の上を虫になって這うような気分だった。丸みのある根の上では動きにくく、采璃は履いていた駒下駄を袂に入れて裸足になった。
不意に、ぐぅ、と腹の音が鳴り、采璃は顔をしかめたけれど。
「桜餅食べたい」
こんな目に遭っても桜餅かと思わず笑ってしまった。
「ここを出たら腹いっぱい食べよう」
「うん!」
それが叶うのかどうかはわからない。それでも、再び外を拝みたいと願った。采璃と一緒に。
そんな道行は楽なものではなく、本来であればそう遠くないはずがかなりの距離に感じられた。しかも、〈御衣黄屋〉のそばでは桜が活動的になっており、地面が揺れ、根がまだ伸びていた。
「な、なんだこれ……っ」
琴平が愕然としたのは、桜の枝が手のような形になり、里の男たちの胴を一人ずつ握りしめていたからだ。その数は二十人を超えている。
松枝の時よりも、もっと強く絞めつけていた。生きているのか死んでいるのかもわからない。
だらりと脚が伸びている。なんともおぞましい光景だった。
その中に、琴平たちに飯を運んできてくれた素人屋の男もいた。良い人だったのに、里の者だというだけでこんな目に遭わされるのか。
ぞっとしたけど、ふと、吉次を襲っていたのもこうした素人屋や妓楼の若い衆だった。カセイはそれを止めるために彼らを生け捕ったのだろうか。
今、彼らを救う手立てはない。手が届く高さでさえないのだ。これはカセイにしか解けない。
心で詫びながら先を急ぐ。采璃も、ごめんなさい、とつぶやいていた。
そして――。
その〈御衣黄屋〉の手前では虎之助が刀を構えていた。カセイは木の上から虎之助を冷ややかに見据えている。
「おぬしに用はない。邪魔をするな」
「私は松枝の仇を討つ!」
虎之助は、腰を低く落とし、跳躍したかと思うと、木の幹を駆け上がった。壁すらも上れるのではないかと思うほどの速さだった。やはり、琴平の稽古をつけてくれていた時には手加減をしてくれていたのだと改めて思う。
よく見ると虎之助の袖にはまた新しい血がついている。乾いていないあの血は、虎之助自身のものだ。傷口が開いたのか、新たに傷を負ったのか。痛みを忘れるほど憎しみに身を焦がしている。
しかし、その刃はカセイには届かない。
カセイはフッと息を吐いただけで桜の枝を手のように変形させ、虎之助の脚に絡めた。虎之助はその枝を斬って躱すも、桜の枝が次々に迫りくる。
いつの間にか、虎之助のいる一角だけが檻のように枝に包まれていた。
「おのれ――」
虎之助は憤怒の形相で枝の檻を斬るが、何重にも張り巡らされた檻はそう容易く壊れない。
「そこで大人しくしておれ」
檻の前に降り立ったカセイは、中の虎之助に淡々と告げた。
「私は死んでも怨みを晴らす」
「おぬしの命を取るつもりはない」
「それはなんの情けだ? では何故、里の者はあれほど容赦なく仕留めた? おぬしの言うことなど信じぬ!」
「里の大人は共謀者ばかりだ。仕方なかろう」
それから、琴平たちにも気づいていたらしく、こちらにも顔を向ける。
「おぬしもだ。これより先に進むでない」
「これより先って、〈御衣黄屋〉にか?」
そうだとも何も答えず、カセイは破れ寺のような有り様の〈御衣黄屋〉に体を向けた。
そこに一人の人影が在る。
夕闇の中に浮き上がる細い体。
それは花車だった。




