〈三〉松枝
家格が高く後継ぎが虎之助ほどの人物となれば、縁を結びたがる家は多かった。引く手数多で許嫁の申し出があったのだが、虎之助はそれらをのらりくらりと躱していた。
他には何も言うことのない自慢の息子ではあるけれど、その点でのみ虎之助は父親に小言を言われていた。選び過ぎだと。
虎之助は、年を重ねるごとにますます立派な侍になっていた。立ち姿だけで惚れ惚れしてしまう女子も多い。
女中たちが虎之助の世話を取り合い、どれほど喜んで勤めているのか、当人も気づいているはずだ。
一方琴平は、背は少し伸びてきたものの、十六という年よりもまだ幼く見えてしまう容姿をしており、虎之助を手本に生きたいとしても土台が違う。
そんな虎之助がなかなか許嫁を据えようとしなかった理由は、この頃の琴平にはわからなかった。ただ、これから起こり得ることを予見していたわけではなかったとしても――そんな相手はいなくてよかったのだと思う。
「よし、打ってこい」
「は、はい!」
この時も、琴平は庭で虎之助に稽古をつけてもらっていた。
二人、竹刀を構えて間合いを保つ。打ってこいと虎之助は言うが、虎之助に隙などないのである。
己が拾った子だからと、虎之助なりに琴平に責任を感じているのかもしれない。剣を教え、強くなりさえすれば別れの時が来ても安心して送り出せると思うのだろう。
引き止められているのは、まだ送り出せる域に達していないからということか。本当のところは虎之助にしかわからない。
ただ、強くなるごとに虎之助との別れは近くなるのだとしたら、切ない。
琴平は、やあ、と声を上げて振りかぶる。裏打ち、逆上段、正面打ち、すべて弾かれた。
雑念はあったかもしれないが、なかったとしても琴平の力量では剣尖がかすることすらないだろう。直心影流免許皆伝である虎之助にかかれば琴平は未だに赤子も同然だ。
打ち合いが続くと竹刀を握っていられなくなり、竹刀を跳ね飛ばされてしまった。
「参りましたっ」
敗北を認め、頭を下げる。息を整えながら琴平は手の甲で汗を拭った。
「俺、弱いですよね……。それなのに、どうして虎之助様は俺に剣術を教えてくださるんですか?」
そして、未だにそばに置いてくださるのですか、と心の中で問いかける。虎之助は、先ほどまでの研ぎ澄まされた気を霧散させ、柔らかな目をして首を傾げた。
「弱くはない。おぬしには才があると何度も申したはずだが」
「はい、それはお聞きしました。でも、そんなものがあるとは思えなくて。現に今だって、ちっとも虎之助様に敵いません」
「それはおぬしよりも十近くも年長の私だから、剣術に費やした期間が長いだけだ」
そう言って笑った。そして、琴平が落とした竹刀を拾ってくれる。
「ありがとうございます、虎之助様」
琴平はただの中間ではなく、虎之助の若党としてその身を守る手伝いができたらいい。それが今の琴平の夢だった。
しかし、ただの中間には夢のまた夢だ。
いつ出ていかなくてはならないとも限らない。それが明日だということも起こり得る身だ。
琴平がおらずとも、虎之助は今に相応しい家から嫁をもらい、立派に家を守っていくのだろう。
その時は、虎之助が一廉の人物として名を残すことを遠くから祈りたい。
それが――。
この時、庭の木の後ろに人影があって琴平はその人物と目が合った。
相手は――松枝だった。
市原家の陪臣、田渡何某の息女で女中勤めをしている。花も恥じらう年頃で、たおやかな風情の女人だ。大人しく、物言いひとつ取ってみても柔らかい。
いつもなら琴平にも優しく微笑んで声をかけてくれる松枝だが、その頬は涙に濡れていた。どうやら隠れて泣いていたようだった。
ただ事ではない松枝の様子に、琴平は思わず虎之助を見遣った。
「松枝?」
虎之助は屋敷に仕える者の名を、下々まですべて覚えている。そうしたところも慕われる所以だ。
虎之助が気遣かわしげな声をかけた途端、松枝の目にまた涙が溢れた。これは――と推測する。
松枝はずっと虎之助に想いを寄せていた。男女の機微に疎い琴平でさえ、あの潤んだ目の意味をはき違えることはない。松枝はひたすら虎之助だけを見つめていたのだ。虎之助のそばにいるとそれがよくわかる。
こんなふうに泣いてしまうのは、きっと松枝の嫁入り先が決まったと、そういうことなのだろう。それが身を引き裂かれるほどにつらいのだ。
かといって、琴平にしてやれることは何もない。悲しいけれど、どんなに憧れても市原家の嫡男と女中とでは夫婦にはなれない。琴平よりも松枝の方が苦しいのか。
松枝は嗚咽を堪えるのに必死で、ただ頭を下げてその場を去った。
それでも、虎之助に引っかかりを与えたのは事実だった。虎之助は難しい顔をして、ただ松枝が駆け去った方角を見つめていた。
春先の強い風の音だけが琴平の耳に残った。