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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈二十九〉妬心

 采璃に促されるまま、三人で〈千里屋〉の上階を目指した。あちこちに穴が空いて建物自体が脆くなっている。階段ひとつ上るにも、崩れた壁から下の様子が見えて肝が冷えた。

 あまり一度に皆の重みがかかってはいけないと、三人は間隔を置いて進んだ。先頭は琴平で、次が采璃だ。


 やはり思川太夫の部屋の襖はぴったりと閉じられたまま、一度でも開いたような痕跡すらない。部屋の前の廊下には、崩れた壁の欠片が散らばっている。


「姐さん」


 采璃が声をかける。中から返事はなかった。采璃は最悪の事態を想像したようで、ヒュッと息を吸って口を押えた。

 思川太夫は生きているのだろうか。生きていたとしても飲まず食わずだ。かなり衰弱している。


 琴平の後ろに虎之助が来た。琴平は襖に手をかけるが、やはりびくともしない。

 虎之助は襖に触れる前に中へ呼びかけた。


「思川太夫、ご無事か?」


 すると、中から小さく衣擦れの音がした。

 思川太夫は生きている。そこにいる。采璃が口を押える手に力が籠った。


「ここを開けてくださらぬか? 皆、御身を案じておる」


 しかし、返答はなかった。開けるつもりはないということだろうか。

 何が思川太夫をそこまで追い詰めるのだろう。

 虎之助は一度采璃を見てつぶやく。


「押し入ってもよいのか?」


 もうそれしかないと采璃も腹をくくったようだ。静かにうなずいた。

 虎之助は目を閉じ、呼吸を整えて鞘に収まっている刀の柄を握る。腰を落とし、僅かな音を立てただけで襖には斜めの切り込みが入った。鍔を小さく鳴らして刀を仕舞うと、虎之助はその襖を叩き落とす。


 上半分が外れた襖の奥――。

 窓の障子が木枠ごと破れ、青空と白っぽい桜の花とが覗いている。吹き込む風が僅かに垂れ下がった障子紙を揺らした。


 蒲団の上で頭から綺羅綺羅しい打掛を被っているのは思川太夫だろう。ただし顔が見えなかった。

 太夫としての矜持なのか、やつれた姿を見せたくなくてとっさに打掛を被ったのかもしれない。


「姐さん!」


 飛び出そうとした采璃を、とっさに琴平が手をつかんで止めた。

 何かがおかしいような気がした。その直感がどこから来たのかわからない。顔が見えないから、あれが本当に思川太夫だと断言できなかったせいでもある。


 けれど、思川太夫は打掛の隙間からこちらを見ていた。


何故(なにゆえ)に放っておいてくれんせん」


 かすれた声が苛む。采璃は悲しそうに涙を浮かべた。


「姐さん……」

「わっちは浅ましい心に似合った姿になりんした」

「え……?」


 この場の誰もが思川太夫の言葉の意味を解さなかった。虎之助も眉根を寄せている。けれど、思川太夫は誰でもない虎之助に向けて言っていた。


()()()は、この里へ来てはならぬ身でありんした。慕う(ぬし)のそばで女の幸せを噛み締めて、そんな女が遊廓で怨みを買わぬ道理はありんせん。ひと目見た時から……憎ぅおざんした」


 まさか、松枝のことを言うのか。

 虎之助のような立派な男に守られ、想いは通じ合い、松枝はこれまでの不幸を拭い去るほど心が満たされていた。それを同じ女として思川太夫は感じ取り、妬んだと。


 どんなに美しく芸事に秀でようとも、思川太夫は遊女だ。意に添わぬ相手とも床を共にしなくてはならない。想う相手ができても身請けされない限りは添えない。自らの不遇とは違う松枝を羨み妬んだとして、けれどそれがなんだというのだろう。


 思川太夫が松枝を殺したわけがない。

 松枝を殺したのは――桜だ。


「姐さん、もう――」


 采璃が痛々しい表情で一歩踏み出すと、思川太夫は窓に近づいた。


「この里は、太夫を育てる里でありいす。そのために連れられる女童は――」


 顔が見えない。それでも、思川太夫が蛇のように笑ったような気がした。

 整った麗しい顔を歪めて――。


「美しく、聡く、それでいて人を怨む心を持つ子ばかり。采璃、(ぬし)も己を売った親が惨たらしく死ねばいいと怨みんしたなぁ。斯様なことにならねば、いずれは仕返すこともできんしたのに」


 これを言われた時、采璃の体が強張った。ゆっくりと耳を塞いでかぶりを振ったのは、それ以上聞きたくないからか。

 言葉にならない息遣いが唇から抜けていく。


 遊女という悲しい身の上でも優しく朗らかに見える采璃でも、心の中までが清らかなわけではないと言うのか。遊女は体裁だけ美しく振舞うが、それは幻だと。


 美しいからといって、女の嫉妬、執念深さ、そうした(くら)いものを抱えていないわけではない。

 どんなに美しい女も、生きた生身の人間なのだから。


 采璃が、琴平の方へ振り向くことを恐れているように見えた。醜い心を暴き立てられるのは、肌をさらすよりもつらいとばかりに。


 これを言う思川太夫の意図が琴平には理解できなかった。采璃を妹分として可愛がっていたのではないのか。


 同じ穴の(むじな)のくせに、一人だけ真っ当な顔をしているなとでも言いたいのか。

 この里の女は誰一人として幸せではない。一人だけ幸せではいけないと。


 思川太夫は、フッと声を立てて笑った。


「わっちらは今更、常人(ひと)と同じ心を持って生きれせん」


 唄うほどに柔らかな声だが、それはまるで辞世の句でも詠んでいるかのように哀切だった。

 赤い打掛が、ぱっと視界を染めた。それが畳の上に落ちた時、思川太夫の姿は部屋になかった。


「っ!」


 采璃は部屋に踏み入り、窓から身を乗り出して下を見た。そして、へたりとその場にくずおれる。

 琴平も駆け寄り、窓から下を見た。そして、思川太夫の最期を知った。


 あらぬ方に首がねじ曲がり、白い手足が木の根の上から投げ出されている。ただ、奇妙なのは――。


 思川太夫は傷だらけだった。手も足も顔も、蚯蚓のように赤い傷が走っている。今、ここから転落したことによってできた傷とは思えなかった。その傷は、ぞっとするほど生々しい。


 本当の姉のように慕っていた思川太夫の死に、采璃は放心していた。けれど、虎之助が窓に近づいた途端、ハッと気を取り直して虎之助の袴に縋りつく。


「み、見ないでください!」

「采璃……」


 琴平は泣きながら懇願する采璃の様子が痛ましくて仕方がなかった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。


 虎之助も無言で足を止めた。采璃は虎之助の袴をぎゅっと握り締め、畳に涙の染みを作りながら切れ切れにつぶやく。


「姐さん、は、市原様に、見られたく、ない、から」


 美しかった人だから、美しかったままの姿を覚えていてほしいのだろうか。

 思川太夫が松枝を妬んだとしても、それは彼女ばかりが悪いのではない。思川太夫もまた気の毒な女人なのだ。


 思川太夫が妬んだからといって、だから松枝が桜に狙われたわけではないはずだ。思川太夫は何故ここまで松枝の死に責任を感じたのかとは思うけれど、女人とはそうしたものなのだろうか。


 琴平は思川太夫の打掛を拾った。そして、采璃に声をかける。


「采璃、これを思川太夫にかけてあげよう」


 泣いた赤い目が琴平に向く。

 この時、はっきりとわかった。琴平は采璃を守りたいと願っている。


 けれどそれは、松枝に対する思いとは違った。琴平にとって松枝は親しく好ましい女人ではあったけれど、それは身内に向ける親しみだ。幸せになってほしいと見守りたい思いだった。

 采璃に感じているこれは、明らかに違う。


「虎之助様、どうかしばしお待ちください」


 虎之助の目を見据えて言った。

 この時、琴平は虎之助に対しても以前とは違う思いを抱いた。


 琴平は幼い頃に自分を窮地から救ってくれた虎之助を神格化するように崇めていた。ここへ来て、そんな虎之助もただの人であることにどこかで勝手に失望していた。ずっとそんな自分の心を認めなかったけれど、そうに違いないのだ。


 だから、以前とは違う虎之助を目の当たりにして怯えてしまう。これも虎之助の持った一面なのだと受け入れられない自分の心が嫌なのだ。

 虎之助の嘆きや悲しみに蓋をして、本当に身勝手な思いを押しつけていた。それを申し訳なく思う。


 虎之助は静かにうなずいた。

 時雨太夫を弔ったと言うから、思川太夫の惨事を見ずとも状態を察したのだろう。


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