〈二十八〉再会
先を急ぐが、〈千里屋〉まで辿り着く前に、妓楼の周りの囲いが取り払われていることに気づいた。
昨日は無事だった庭も荒れてしまい、庭石も燈篭もどこかへ吹き飛ばされ、池には瓦礫ばかりが詰まっている。
火事に備えている天水桶もひっくり返り、辺りは水浸しだ。屋根瓦も半分以上落ちてしまっていて、それでもまだ妓楼としての形を辛うじて留めている。
中はまだ無事だと思いたいが、このままだと全崩壊する時も近い。一刻の猶予もならないようだ。
空から桜の枝が伸び、銛のように尖った先が〈千里屋〉の手前に刺さった。地面がガツン、と揺れ、琴平と采璃はとっさに近くの枝につかまったが、いつこの枝も動き出すのかわからないと思うと気味が悪かった。
采璃の口元が、姐さん、と動く。
琴平は上を見上げ、まばらに降ってくる屑から顔を庇った。
思川太夫が恐れをなして下りてきてくれるといいけれど、あの女人は一度口に出したことを曲げる性質ではない気がした。それくらいの思いきりがなければ御職など勤まらないとしても、とにかく逃げてほしかった。
枝がざわざわと伸びて琴平たちの行く手を阻む。ここへ近づくなとでも言いたげに。
花崎がいない今、桜にとって太夫は最大の獲物なのだろうか。それを察し、思川太夫は皆を巻き込まないために閉じ籠ったなどというのは考えすぎなのか。
琴平は刀を抜いた。両手で血が止まるほど柄を握り締め、そして気合を入れて刀を振り下ろす。
ひと息で、迷いを捨てて。細い枝は琴平の力でも切り落とすことができた。
すると、桜の枝は怯んだように縮んだ。おかげで道が開ける。こうして琴平も桜に敵と見なされたかもしれないが、思川太夫を救うためには仕方がない。
「采璃、今のうちに!」
「うん!」
二人して〈千里屋〉に向けて走った。桜の枝が二人を追ってくる。怒っているのか、追い払いたいのか。
あの枝に捕まれば、松枝のようになる。美しい死に様だろうと、死は死なのだ。生きたければ捕まってはいけない。
こんな状況で、今の体力は十分ではない。休息も食事も足りていないのだ。ここぞという馬力が足りず、勢いのある桜の枝に追いつかれそうになった。
その時、ヒュッと近くで音が鳴った。
琴平のような軽い音ではなく、もっと鋭い、空を裂く音だ。
振り向くと、虎之助がいた。
土と血に汚れ、薄暗い目をした虎之助は、無言で桜の枝を次々に落としていく。虎之助の差料は逆丁子の業物で、虎之助は達人だ。だからこそ刃こぼれせずにいられるのだろうか。
軽く息を整え、虎之助は琴平を見た。
着物は着崩れ、枝で引っかけたのかあちこち破れて汚れている。袖には赤黒い染みが広がっていた。
本当に、あの穏やかだった虎之助がこれではまるで浪人崩れだ。
あの袖の血は一体誰のものだろう。
琴平が置き去りにされた後、虎之助に何があったのか――。
こんな姿を見たら、松枝が悲しむ。
再び会えて嬉しいと思う反面、琴平はいつになく緊張している自分を認めた。
「と、虎之助、様」
手が痺れるほどの震えが来る。怯えているのか、自分は。
けれど、そんな琴平に采璃は気づかなかったらしい。再会の喜びに震えているとしか受け取らなかったのだろう。
「市原様、ご無事で何よりです」
そう言って頭を下げた采璃は、目の奥に期待を秘めていた。
「あの、大変な時にこんなことをお頼みして申し訳ありませんが、姐さんを助けて頂けませんか?」
「助ける?」
虎之助は硬い表情のまま、軽く首を揺らした。采璃は力いっぱいうなずく。
「〈千里屋〉の最上階の部屋にいます。具合が悪くて臥せっていて、自分はもういいからあたしたちだけ逃げろって……」
采璃は虎之助の袖が血で汚れていることに気づいていないらしい。そして、以前との変貌ぶりも気にならないようだ。
「以前、姐さんを助けて頂いたことがあったでしょう? あの時、姐さんは市原様にとても感謝していました。市原様の説得なら、もしかすると聞き入れてくれるかもしれません」
思川太夫を助けられる可能性があるのなら、誰にだって縋りたいのだろう。その必死さが悲しい。
琴平は口を挟めずに立ち尽くした。虎之助は静かに答える。
「できることがあるかはわからぬが、同行しよう」
人助けをしようとする虎之助は、はやり以前と変わりない人なのだろうか。
琴平の戸惑いを受け、虎之助は一度目を伏せた。
「向こうで女人が亡くなっていて、遺骸をさらし続けて辱めるのは忍びないので土に埋めてきた。読経もなく、こんな穢れた地を墓とされても成仏できぬやもしれぬがな」
低い、抑揚のない声でつぶやくように言った。
それはもしかすると、〈関山屋〉の時雨太夫ではないだろうか。
「そうでしたか……」
虎之助の袖の血はその時のもののようだ。
どんな感情に突き動かされていても、虎之助の本質はやはり変わらないのか。そのことに涙が出るほどほっとした。
けれどこの時、虎之助はより一層険しい表情を浮かべた。
「私がその女人を弔っている時、ふと見上げると崩れかけの妓楼の上に花車がいた」
「えっ?」
「逃げた先があそこだったのか、そこはわからぬが、あのままでは花車も落ちてしまう。すぐに助けると申し出たが、花車は私に背を向け、妓楼の中に戻っていった」
「お、俺、虎之助様と再会する前に花車を見かけました! 怪我もしていなくて、無事でした」
虎之助も見かけたというのなら、やはり花車は生きているのだ。そして、里の中を徘徊しているらしい。
「もしかして、花崎さんを探しているんじゃ……」
花崎は未だに行方知れずである。その可能性は高い。
しかし、虎之助はうなずかなかった。
「何か、奇妙だった」
「奇妙?」
「あの女人が死んでいるところを上から眺めていたのだ。生存者を探しているふうではなかった」
花車はいつでも能面を被っているように表情を浮べない。この時でも同じように瞬きすらせずに時雨太夫を見下ろしていたのだろう。
一体、彼女は何を考えてそこにいたのか――。
「まさか、時雨太夫を突き飛ばしたなんてことは……」
それは考えすぎだろうか。救おうとして救えなかったとも考えられなくはない。
金をかけてやっと育てた太夫を殺しても、何の得にもならないはずだ。
あと、時永は時雨太夫の遺体に近づけなかったと言っていた。虎之助の身体能力ならば桜の枝を退けて行けたとしても、花車はどのようにして〈関山屋〉へ近づいたのだろう。
そして、琴平が見かけたのも花車なら、どのようにしてそこから移動できたのかもわからない。
花車。
彼女にはあまりにも謎が多い。




