〈二十三〉塩むすび
〈千里屋〉を飛び出す前に琴平の腹が鳴った。
こんな時だというのに、それでも腹は減る。むしろ、走ってばかりいていつも以上に体力が要ったのだ。仕方がないことなのに妙に疚しい気持ちになる。
「えっと、厨に何かないか探してから行きましょう」
「ごめん……」
気恥ずかしいながらに言うと、采璃は苦笑した。久しぶりに見た柔らかな表情だった。
「誰だって食べないと生きていけないよね」
「あたしもおなかが空きました」
さっきまで泣いていた華汰も腹を摩る。小さい子供が腹を空かせていると可哀想だ。
采璃は厨に行き、しばらくしてから櫃を抱えて戻ってきた。
「ご飯しかないけど」
「炊いてあっただけで十分だ」
今から腰を据えて飯を炊くのは難しい。すぐに食べられるものがあっただけ幸運と言えるだろう。
「急いで作ったから前よりひどい出来でしょ。塩をつけて握っただけなんだけど、我慢してね」
櫃の中の飯はすでに握ってあった。なんとなく塊になっているだけの白い飯だ。ところどころに焦げが見える。
皆でひとつずつ頬張ると、まだ少しあたたかい。この不格好な握り飯は、それでも琴平がこれまでに食べたものの中でも格段に美味しく感じられた。
「ありがとう、采璃。美味いよ」
世辞を言ったつもりはないが、采璃も握り飯を頬張りながら嬉しそうに見えた。
まだいろんなことが不透明で、子供たちばかりが集まってもがいても助からないかもしれない。そんな状況の中にいて、それでもほんのりと心温まる時だった。十分とはいえないけれど、少しは腹が満たされたというのも大きい。
華汰は無言で懸命に握り飯を頬張っていた。余程空腹だったのだろう。よく見ると、また泣きながら食べていた。
こうして知り合ったばかりの彼女たちではあるけれど、自分が守らなければと琴平は強く思った。
〈千里屋〉の中はまだましな方だったらしい。他の家屋には桜の枝や根が迫っていたのに、何故ここはまだ無事だったのだろう。
桜にどれほどの知能があるのかはわからないが、標的を選ぶにも優先順位というものが存在するのか。思えば楼主の花崎のいた壱町が真っ先に平らげられたのだった。
カセイは、妓楼にも手心を加えるつもりはなさそうだった。現に、道へ出た途端に向こうに見えた〈関山屋〉も崩れていた。
時永はあのまま戻らずに時雨太夫とやらを見捨てて逃げたのだろうか。
「時雨太夫なら、もしかすると姐さんを説得できるかと思ったけど……」
采璃が悔しそうに顔をしかめる。
「この里に三人しかいない太夫なんだよな?」
「うん。時雨太夫は姐さんよりもふたつ年嵩で、昔は姐さんも親しくしていたって言ってたから。姐さんが太夫になってからは、あんまり顔を合わせていないみたいなんだけど」
聞くまでもなくかなりの美人なのだろう。それだけは確かなことに思えた。
「……時永はこの里へ来たのは比較的に遅くて、十二歳にもなっていたの。でも、ずば抜けた才覚があったから。舞なんて、一度見ただけで完璧に再現しちゃうのよ。時雨太夫も可愛がって新造として仕込んでいたんだけど、時永はあの通りの気性だから」
何をやらせても人並み以上にこなしてしまうが、それ故に才走ったところがあるのだろう。
人に馴染まず、慣れ合わず。それが采璃は受けつけないらしい。
「一度〈関山屋〉の近くに行ってみるか? もしかするとその時雨太夫がいるかもしれないし」
「そうね」
他にあてがあるわけではない。采璃もうなずいた。
しかし、〈関山屋〉のある伍町へ行くには、花崎に会いに行った壱町を通過していくか、桜の木が植わった中央を通るかしかない。ここ弐町から〈関山屋〉の名残は見えるけれど、近づくのは容易なことではなかった。
桜の根が道を阻み、それこそ道に格子状の籬のように枝が張り巡らされている。その様子を見て愕然としてしまった。
幸いなことに琴平たちは皆小柄だ。隙間を縫って通り抜けることもできる。ただ、華汰が怯えて進もうとしない。
琴平が先に向う側へ通り抜け、手を差し出す。
「華汰、大丈夫だからこっちへおいで」
「で、でもっ。桜がっ」
「あたしも一緒だから。ね?」
いつ桜が枝の間隔を狭め、琴平たちを押し潰してしまわないとも限らない。琴平はカセイを知るから、皆よりも恐怖が薄いのだろうか。華汰からしてみれば、桜は理不尽な暴君だ。
「怖くても行くの。姐さんのためでしょ」
采璃に諭され、華汰は采璃と共に泣く泣く隙間を潜った。
桜の枝が伸びて、空を覆っている。里は日陰となり、今が昼なのか時刻もよくわからなくなっていた。それでも花びらが淡く光るから、暗くはなかった。
琴平たちの足場はもう地面ではなく、ほとんどが桜の根の上を歩いているようなものだった。どくん、どくん、と脈打つ桜の根は気味が悪い。
本当なら美しく咲いた桜は人々から愛でられるものだろうに。




