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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈二十二〉天岩戸

 〈千里屋〉には、まだ桜の手が伸びてはいなかった。

 朱塗りの妓楼は女郎屋とは思えないほど、神社仏閣のように荘厳に見える。ほんのひと握りしかいない生え抜きの遊女の置屋にしては広い。

 この里の仕組みからすると当然かもしれないが、張見世(はりみせ)のための(まがき)はなかった。


 ただ、なんとなく外から見ても人気(ひとけ)がないように感じられた。きっと皆が逃げてしまったのだ。中にいては、妓楼が崩れた場合ひとたまりもないのだから。

 思川太夫も一緒に逃げていてほしいけれど、きっとまだここにいる気がした。


 采璃が上を見上げて、祈るように胸元で拳を握った。


「琴平、こっちよ」


 促されるまま、琴平は〈千里屋〉の敷居を跨ぐ。疚しいことは何もないけれど、少しだけ緊張した。

 誰もいない、がらんと開け放たれた座敷。真新しい藺草(いぐさ)と香の匂いが立ち込め、一瞬外での出来事を忘れそうになる。


「誰もいないですね」


 華汰も不安げにつぶやき、采璃の袖を握った。


「思川太夫と采璃と華汰と、この〈千里屋〉には他にも遊女がいるのか?」


 なんとなく訊ねてみた。いるのなら逃げ遅れていないといい。


「以前はいたけど、今は三人だけ。あたしがこの里に来てから何人も亡くなっているの」


 それほど過酷な環境に置かれたのか。もしくは足抜けしようとして制裁を加えられたのか。

 詳しいことはわからないけれど、盛りを過ぎて捨てられるのは桜も遊女も同じだと言った采璃の言葉が思い起こされる。

 そうか、とだけ答えると、これ以上この話題に触れるのはやめた。


「思川太夫の部屋は、上?」

「そうよ。御職は最上級の部屋だもの」


 稼ぎ頭の太夫のことだから、豪華な一人部屋に住むのだろう。

 琴平は采璃たちと共に磨き抜かれた階段を上る。この時、履物は脱がなかった。いつ逃げ出さなくてはならないのかもわからないので脱がない方がいいと思ったのだ。板敷が汚れても叱る人はいない。


 慌ただしい足取りに、階段が軋む音を立てる。外から聞こえる騒音に比べたらささやかなものだった。

 階段を上がった先に金箔で彩られた襖が見えた。采璃はその手前に膝を突く。


「姐さん、采璃です。外が大変なことになっていて、花崎様も行方知れずです。ここは危険ですから、とにかく避難しましょう」


 想いを込めて采璃は声をかけたが、中から聞こえた声はか細かった。


「わっちは見世(みせ)に残りぃす。(ぬし)らは早う逃げなんせ」

「姐さん!」


 采璃は襖を開こうとしたが、がたがたと音が鳴るだけで開かない。心張棒(しんばりぼう)がつっかえているようだ。

 思川太夫は、どうあってもここに残ると決めてしまったらしい。けれど、それが死を意味するとわかっていて置いていけない。


「思川太夫、ここを開けてください! 動けないのなら俺が背負いますから!」


 一人で歩けず、足手まといになりたくないから逃げないと言っているのなら、なんとか力になりたい。采璃にはこれ以上悲しい思いをしてほしくなかった。

 大切な人を亡くす苦しみは知っているから、采璃と華汰が嘆く姿を見たくない。

 けれど、思川太夫は納得しなかった。


「わっちは逃げんせん。もう行きなんし」


 琴平も襖に手をかけて揺らしたが、襖はびくともしなかった。襖の閉じ目に刀を差し込もうとしても、それさえ刺さる隙間もなく襖は固く閉じられている。まるで鉄の門のようだ。


 采璃には申し訳ないけれど、琴平にはこの襖を開けることができなかった。思川太夫は天岩戸に隠れた天照大神のように姿を見せない。

 無理やり押し入ったりしては、思川太夫の具合をさらに悪くしかねなかった。自ら出てきてくれないことには埒があかない。


「……采璃、一度ここを出よう」


 琴平がそれを提案すると、采璃は傷ついたように見えた。


「でも、姐さんが――」

「俺たちだけじゃどうにもできない。誰か呼んで来よう」


 その誰かとは誰なのか。この状況で誰を頼れるというのか。自分で言っておいて愚かしいけれど、心当たりなどない。


 それでも、見捨てるとなれば采璃も動かないだろう。ここでじっとしていたのでは、妓楼が崩れるに任せるしかないのだ。幼い華汰まで巻き込んでしまう。


「わ、わかったわ」


 采璃も一縷の望みに縋りたかったのかもしれない。息苦しそうな表情のままうなずいた。

 それから、もう一度襖に向けて言う。


「姐さん、あたし、姐さんがいないなんて嫌……。絶対に皆で助かりたいんです。どうか思い直してください。お願いしますっ」


 思川太夫からの返答はなかった。

 いつまでも名残惜しそうな采璃の手を引く。華汰は静かに泣いていた。


 桜は、盛りの頃だけを搾取され、花が散れば引き抜かれた。

 その怨みが凝っているというのなら、同じように搾取されるばかりの遊女に何故優しくないのだ。琴平はそれを理不尽に思った。


 しかし、世の中とは帳尻の合わないことばかりなのである。


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