〈二十一〉関山屋の時永
いくら子供とはいえ、華汰を背負って走るのは楽ではない。それでも、琴平はつらそうに見えないように気をつけた。足手まといとされる息苦しさを知っている自分だからこそ、華汰にそんな思いはさせたくなかった。
これまで平らに均されていた道は鍬で掘り起こされたような有様で、凸凹に足を取られてしまわないように気をつける。
すると、里で働く人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、琴平たちを突き飛ばしそうな勢いで駆けてきた。彼らの必死の形相はただ事ではない。
そこで何かに気づいた華汰が叫ぶ。
「あっ! あれっ!!」
華汰が短い腕で指した先は妓楼のひとつだったが、目指している〈千里屋〉ではなかった。葺いた瓦が黄色味を帯びているのか、陽光を受けて輝く妓楼は金色に見える。
その美しい建物を枝で貫いて、桜は天高くに花を咲かせた。あんな高さにまで枝が届いたのだと思うと恐ろしいものがある。
「〈御衣黄屋〉が……っ」
采璃が青ざめて口元を押さえた。思わず足が止まってしまう。
「あそこは?」
問いかけると、采璃は苦しげに首を振ってため息交じりに答えた。
「あそこは衣通太夫っていう御職がいるの。新造や禿も何人いるのかよく知らない。あそこの遊女に関しては、あたしたちもよく知らなくて……」
「閉鎖された里なのに、知らないって?」
「うん。〈御衣黄屋〉はそういうものなんだって言われていたの。花崎様は衣通太夫をほとんど崇めるみたいに大事に扱っていたわ。姐さんや〈関山屋〉の時雨太夫よりも特別に。だから、すごいお人なんだと思う」
それほどまでに美しいか芸達者な遊女なのだろう。思川太夫よりもというと、もう琴平には想像がつかないけれど。
「あの妓楼から逃げられたかな……」
琴平は上を見上げながらそうであってほしいと願った。
遊女たちは悲しい身の上の者ばかりだから。桜に祟られるのは楼主の花崎だけで十分だろう。
とにかく、他の妓楼が崩されるのも時間の問題だ。具合が悪くて動けないという思川太夫のところへ急がなければ。
ガラガラと瓦が落ちていく音がする。
琴平たちは〈御衣黄屋〉に背を向け、再び〈千里屋〉を目指す。
相変わらず地揺れは治まらない。この地揺れは桜の根が動いているせいだろうか。それと、あちこちで家屋が倒壊しているから砂埃がひどい。皆、次第に薄汚れてきた。
そこから少し進むと人だかりがあった。出会った人々は自分たちが逃げるのに必死だったはずなのに、何故かこの時だけは一ヶ所に集まっていた。変だと思い、琴平は采璃と目を合わせ、それからうなずき合うとその人だかりに近づいた。
人だかりの中央から男の怒声が聞こえてくる。
「お前がっ!」
「お前がこの里に穢れを持ち込んだんだっ!」
責め立てる強い言葉にぎょっとした。琴平は華汰を背から降ろして采璃に任せると、さらに深く人垣に割り込んで中を覗いた。
責められていたのは、植木職の吉次だった。殴られたのか、口の端が切れている。そして、その吉次の前に立つのは、初めて見る顔だった。
とても勝気な、気の強さが顔に出ている女人だ。年の頃は十七歳くらいだろうか。前帯で、薄青い着物に襷をかけ、足袋を履いていない素足に草履。遊女なのだろうけれど、手には先に布を巻いた長い棒を持っていて勇ましい。あれは形からして薙刀だろう。
美しい妙齢の女人なのに、どこか武人のような気迫すらある。ほつれた黒髪を振り、彼女は目を怒らせた。
「言いがかりも大概にしろ! ただの人間にこんな真似ができるか!」
「で、でも、現にこいつの植えた桜が……っ!」
「そうだ! なんでそんなやつを庇うんだよっ?」
里の男がなおも言い募る。それに対し、吉次はぞっとするような暗い目を向けた。
「俺が植えたのはただの桜だ。なんでこんなことになったんだか、俺の方が訊きてぇよ。俺が死ねばあの化け桜がどうにかなるってぇのなら試してみてもいいが、俺もただで死ぬつもりはねぇからな」
吉次はきっと何も知らない。責められるべきは吉次ではないはずだ。
それでも、吉次の態度が人々を煽る。どういうわけか、吉次は荒事には慣れているように見えた。腰に挟んでいた手斧を抜き、柄を握り締める。
手斧であの化け桜には敵わないとしても、生身の人に振り下ろせば死んでしまう。里の男たちも懐に手を差し込んだ。匕首でも仕込んでいるのかもしれない。皆、丸腰で外へ出るのは恐ろしかったのだ。
しかし、相手を間違えている。これはいけない、と琴平はとっさに飛び出した。
「今は揉めている場合じゃない! 皆、早く避難しないと!」
しかし、子供にしか見えない琴平が出てきたところで誰も引かなかった。
「お前さんは引っ込んでな!」
押しのけられそうになったが、向けられた手をひょいと躱す。
「向こうで〈御衣黄屋〉も桜に襲われていたんだ。こんなところで固まっていたら危ない」
それを言うと、人々はざわついた。
「〈御衣黄屋〉がっ?」
「衣通太夫は……」
ざわざわ、ざわざわ、人々は不安を抱え、吉次から関心を失っていくのがわかった。采璃が言ったように、衣通太夫という存在はこの里では特別らしい。
吉次を庇っていた女人も顔を歪めていた。
「花崎さんも無事なのかわからない。こんな時に揉めてる場合じゃ――」
琴平がそこまで言いかけた時、地面がうねった。ずるずると地の中を木の根が蠢いているのがわかる。
桜の枝が伸びてきて、空に桜の花を咲かせた。はらりと花びらが落ちてくると、人々は先ほどまでの勇ましさはどこへやら、悲鳴を上げて逃げ惑った。
「う、うわあぁっ!!」
「や、やめてくれっ!」
「助けてくれ!」
采璃は突き飛ばされそうになった華汰を抱き締めて庇い、その場でうずくまる。皆が四方八方へ逃げ、その場には琴平たちと吉次、薙刀を持つ女人だけが残った。桜は家屋を崩しにかかるが、人だけを狙い定めて襲っているのとは違うのだろうか。今、枝や根がこちらに向かってくることはなかった。
男たちが去っていく時、白い紙がひらりと飛んできたが、それを吉次の連れの女人が素早く握り潰した。手の平を広げて紙を確かめたが、すぐさま破って紙吹雪に変えてしまう。
「吉次さん、大丈夫ですか?」
琴平が声をかけると、吉次はへっと吐き捨てた。あれだけの人に囲まれても臆していなかったところを見ると、どうも喧嘩慣れしているらしい。
「まったく、なんだってこんなことになるんだかな。あの桜は極上の木だった。俺にわかるのはそれだけだ」
それから琴平をちらりと見て、小さく息をつくと言った。
「お前さんのツレのお侍な。市原様って言ったな」
「は、はい」
「さっきは市原様に助けてもらったんだ」
「えっ」
それを聞き、琴平はほっとするのと同時に胸がざわめいた。
いつもの虎之助とは違う、あの暗い目が不安にさせる。
「〈関山屋〉の近くで、木の枝が道を塞ぎながら暴れまわってるところに通りかかってな。あり得ねぇくらいあっさり、枝をすっぱり切って落としてくれたんだ。でも、礼を言っても見向きもしねぇし、以前とは様子が違ったな」
虎之助は、松枝を奪った桜を怨んでいるから。今は憎しみに突き動かされている。
それでも、虎之助の無事が聞けてよかった。虎之助を探すのは采璃たちを逃がしてからだ。
琴平はぐっと拳を握った。
「そうでしたか。あの、逃げるのなら肆町の方がいいですよ。こっちは危ないので」
それを言うと、吉次の連れの女人が口を挟んだ。
「私は大門の方へ行った方がいいと思う。まあ、どこにいても駄目かもしれないけれど」
そうは言っていても、諦めた様子がない強い目をしていた。それから、こうして近くにいても隙がない。琴平よりも多分強いのではないかと感じた。彼女は芸達者の域を越えている。
その時、采璃が後ろから近づいてきた。
「時永、あんただけ逃げてきたの? 時雨太夫は?」
彼女――時永は采璃の言葉に僅かに顔をしかめた。
「私は外にいたから」
「外って……」
つぶやいてから、時永の隣にいる吉次を見た。そして、何かと察した。
「それってご法度でしょ?」
「まあね」
と、時永はこんな時なのににやりと笑った。胆力のある女人だ。
あまりに堂々としているから、采璃は困惑していた。
「あんた、水揚げされたばかりじゃない」
「それが何?」
淡々と返す。自分の主は自分自身だというように。時永は少しも遊女らしくはなかった。
そして彼女は空を見上げ、それからつぶやく。
「この状況で、里の掟を守ることに意味があると思ってるの?」
そんな時永の腰に吉次が後ろから腕を絡めた。振り払わないところを見ると、時永は吉次と逢引きしていたということだろうか。
采璃はため息をつき、キッと時永を睨む。
「だとしても、姐太夫を見捨てて逃げていいの? あんなによくしてくれていたじゃない」
「新造のあんたはなんにも知らないままなんだから、そういう口は利かないでくれる?」
ばっさりと切り返された。采璃の方が言葉に詰まってしまう。
この時永もまた、つらい思いをしたのだろう。
「私はもう遊女には戻らない。というより、最初から遊女になんてなりたかったわけじゃないから。あんたは水揚げ前でよかったんだし、さっさと逃げな。じゃあね」
それを言い、時永は吉次と連れ立って行ってしまった。肆町の方がいいと言ったのだが、聞く気はないらしい。
采璃は苛立ちを呑み込み、そうして振り返る。
「……ごめん、早く姐さんのところへ行かないと」
「ああ、そうだな」
姐女郎に恩義を感じている采璃にとって、義理人情に縛られない奔放な時永のような考え方は相容れないのだろう。采璃の苛立ちが、琴平にはわからなくもなかった。
時永の薙刀は〈小薙刀〉です。全長106センチくらい。
琴平に薙刀を見分ける知識はないので薙刀としか書いてませんが(*'ω'*)
大きいのだとかなり長いので邪魔です……。




