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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈二十〉壱町

 途中、まったく人に出会わないということはなかったが、手を取り合うほどの近さではなかった。川の向こう岸ほどには遠いし、知らない顔ばかりだ。

 采璃を見なかったか訊ねたくても、立ち止まってくれなかった。声をかけたところで見向きもされない。誰もが自分のことに必死で、琴平たちに構うゆとりはないようだ。


「あっ! あそこに采璃姐さんがっ!」


 道の途中で、地面から突き出した枝に着物の裾と袖とを貫かれている。もがいているが外れないのか、采璃は髪に差した簪を抜いて着物を破り始めた。


「采璃!」


 琴平が声をかけると、采璃はハッとして顔を上げた。琴平の顔を見るなり、安堵したように強張っていた顔をくしゃりと歪める。


「琴平……っ」

「あたしもいますっ」


 琴平の背中から華汰がひょこりと顔を出す。

 采璃は華汰の無事な姿にほっとしつつも、また眉根をぎゅっと寄せた。ひとつ目の心配事が消えても、まだまだたくさん抱えているのだから無理もない。


「よかった。華汰を助けてくれてありがとう。……ねえ、琴平、刀であたしの着物の裾に切り込みを入れて。抜けないの」

「う、うん」


 非常事態である。いつ桜に襲われるかわからないので、逃げるためには仕方がない。

 琴平は背中の華汰を下ろすと、刀を抜いて采璃の上等な振袖の裾を少し切った。采璃は自分の簪で袖を破り、白い肩が剥き出しになっている。

 そして、腕が自由になると裾の切れ目を握り、力いっぱい裂いた。ビッ、と音を立て、切れ目は縦に大きく広がる。


「……思いきりが良すぎないか?」

「そんなこと、言っていられないから」


 枝から着物は外れたが、采璃の赤い振袖も襦袢も太ももの辺りまでざっくりと裂けて脚が見えている。目のやり場に困るが、非の打ちどころのない綺麗な脚に見苦しさは一切ない。むしろ、着物が破れても凛とした立ち姿がどこか力強かった。

 あまりじっと見てはいけないような気になったが、采璃は琴平を見てうなずいた。


「華汰とは花崎様のところへ向かう途中で離ればなれになっちゃって。琴平は市原様と一緒じゃないの?」

「うん……。虎之助様は先に行かれたんだ」


 振り切られたというべきかもしれない。素直に認めてそう言えなかっただけで。

 ただし、采璃はそんなことには気づかない。


「橋が落ちたから出られないし、里のどこかにいらっしゃるのよね。こんな天変地異が起こるなんて思いもしなかったけど、お別れをしたつもりがまた琴平に会えて嬉しいわ」


 そう言って、采璃はそっと微笑んだ。瞳が潤んで、吸い寄せられるように魅入ってしまうけれど、状況を忘れてはいけない。


「ん……。あのさ、俺も花崎さんのところへ一緒に行ってもいいかな? ちょっと確かめたいことがあって」


 花崎に会いたいのではない。花車に用がある。

 松枝が桜の贄になる前、花車が家の近くにいたのはなんのためだったのかと。何か知っているのか、それを確かめたい。

 采璃は少し不思議そうだったけれど、駄目だとは言わなかった。


「そう。じゃあ、あたしたちのためについて来てくれたことにするわ」

「ありがとう。思川太夫の具合が悪いんだったな?」

「ええ。ほとんど床から起き上がれないみたい。いざとなったら姐さんを連れて逃げなくちゃいけないのに、当の姐さんが部屋から出ようとしてくれないの。姐さんは頑ななところがあるから、ああなると姐さんは花崎様の言うことしか聞き入れないし、姐さんを説き伏せてもらわないとと思って呼びに行くの」


 前に見かけた時は健やかに見えたけれど、女人の体はそれほど丈夫なものではないのだろう。母も月のものが来ると具合が悪そうにしている日があった。


 話しながらも花崎のところへ向けて進むが、嫌な予感が強まっていく。ガタガタと地揺れは治まらず、壱町へ近づくごとに強まっているような気がするのだ。


「あれが揚屋よ。その奥が花崎様の――」


 采璃が指さした先の平屋から桜の枝が勢いよく飛び出した。太い枝は壁を突き破り、屋根の瓦を払い除け、蛇か蛸の足のようにうねり、揚屋を叩き始めた。これでもかというほど憎々しげに、桜の枝は揚屋を粉砕している。

 辺りをぼやけさせるほどの砂埃が立つ中、琴平も采璃も愕然とするしかなかった。


「ひ、ひどい……」

「揚屋に人はいるのか?」


 肩を震わせる采璃に問いかけるが、采璃にもわからないようだった。


「今はお客もいないはずだし、朝は誰もいないかもしれないけど……」


 いないことを願いたい。あれでは中に人がいたらとても助からない。家屋が崩れていく中でも荒れ狂う桜の枝に美しい花が咲き、花弁を撒き散らす。里が無残であればあるほど、桜は誇らしげに咲くのだろうか。


「あっ!」


 琴平の背中の華汰が叫んだ。

 揚屋の向こう側にも桜の根と枝が届き、花崎の屋敷は呆気なく、ただの木箱を潰すようにして崩された。琴平は目の前の光景を、心の臓を縮めながら見守るしかなかった。とても近づけたものではない。


「……もうここは無理だ」


 思わずつぶやいていた。

 采璃は、悲しんでいるふうではなかった。ただじっと崩れた家屋を眺めている。


 花崎があそこにいるとは限らないから、無事を信じているのだろうか。それとも、花崎が死んでも悲しくないのだろうか。

 自分たちを商品として金で買った楼主だ。好いてはいなかったのかもしれない。そうだとしても仕方のないことだろう。


「この里で安全なところなんてもうないのかも……」


 采璃がつぶやいた。

 諦めてしまったのか、妙に淡々とした口調だった。


 このまま生きていてもいいことなんてどうせないのだと、自分の命に対して執着が薄いように思われた。けれど、美味しそうに桜餅を頬張っていた采璃も同じ人間なのだから、まだ喜びを受け取れる新鮮な心は残しているはずだ。


 琴平は死にたくないし、できることならば采璃たちにも生きてほしい。だから、励ますような気持ちで言った。


「もしかすると、俺たちの仮屋があったあの肆町が一番安全なのかもしれない。襲われるとしても最後だ」


 すると、采璃は長い睫毛に縁取られた目を瞬いて琴平を見た。


「どうして?」


 どうしてそんなことがわかるのだと。

 カセイのことを話しても信じてもらえないか、気味悪がられるだけだろう。


「桜から聞いたって言ったら信じるか?」


 冗談を言うような状況ではない。采璃は笑わなかったが、すべて信じたとも思えなかった。

 それでも、色々なものがせめぎ合った挙句、花崎の安否がわからないのなら、どう動いても同じだと割りきったようだった。


「まあいいわ。琴平が信じたのならあたしも信じてみる」


 琴平のことをそこまで信じてくれるという。知り合って数日しか経っていないのに、重要なのは歳月ではないと思ってくれるのだろうか。


「う、うん。じゃあ、行こう」

「先に華汰を連れていって。あたしは一度〈千里屋〉に戻って姐さんを連れてから行く」

「あ、あたしも思川姐さんのところへ行きますっ」


 華汰もそう主張したけれど、声が可哀想なくらいに震えていた。この間も、桜の枝は暴れまわり、ガンッ、と大きな音を立てて石の灯篭を粉々にした。これには采璃も身を竦める。


「〈千里屋〉がある弐町はこの壱町の隣なんだろ? このまま寄っていこう」


 高く聳える妓楼のひとつだ。道に迷うことなく辿り着けるだろう。

 ただ、到着するよりも先に桜が妓楼を崩してしまわないかという不安はある。もちろん、二人の手前そんなことは言えない。


「ごめんね、琴平」


 采璃が謝ったのは、巻き込んで避難が遅れるせいだろうか。それでも、采璃だけを行かせるのではあまりに危険だ。

 琴平はかぶりを振り、崩れ去った揚屋と花崎の屋敷とを尻目に駆け出した。


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