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〈二〉市原虎之助

 虎之助は(たま)さかに出会い、助けただけの琴平を本当に長屋まで送り届けてくれた。

 供の者たちが渋い顔をしていても、それを制して琴平と歩く。(から)の駕籠が申し訳なさそうに離れてついてきた。


 長屋へ戻ると、部屋の前には琴平が飛び出した時と同じく人がいたけれど、虎之助たちを見るなりぎょっとして逃れるようにゆっくりと下がった。まるで、自分たちが下手人であるかのように。


 どくん、と胸が鳴った。もし、あの中の誰かが母を殺したのなら、殺してやる。

 琴平の中に殺意が芽生える。どす黒い感情は、いとも容易く心に染みていく。

 しかし、それを洗い流す清流のような虎之助の声で琴平は我に返った。


「ここが琴平の家か」

「は、はい」


 中が見えたはずなのに、虎之助は臆することなく中へ踏み入り、母の(むくろ)のそばに膝を突いて手を合わせた。

 初めて、母に手を合わせてくれる人がいた。こんなに立派な侍が手を合わせてくれた。


 それだけで母の生き様が報われたように思えて、琴平はさっきまでの暗い気持ちをすっかり捨てて涙を流した。

 そうしていると、虎之助が戸口に立っていた大家に声をかけた。


「このような幼子を残して惨いことだ。物盗りか?」

「誰もこの部屋へ出入りした者を見ておりませんので確かなことはわかりませんが、金目のものなどないに等しかったでしょう。私怨や横恋慕といったところかと」

「――この子には片親だけか」

「はい。身寄りはおりません。奉公に上がるには少し小さいですが、探せば使ってくれるところもあるでしょう」


 なんの情もない言葉だ。底冷えする目が琴平に向いている。

 奉公というのは、働くということだ。琴平に勤まるかどうかなどということは問題ではない。勤まらなければ飢えて死ぬだけなのだから、死ぬ気でやれというのだろう。


 戻る家などない。誰も救いの手など差し伸べない。琴平は不要とされた存在だった。

 もしかすると虎之助は大家の言動からそれを感じたのだろうか。目を閉じてうなずくと、供侍に向けて言った。


「それならば、この子の母親は私が弔おう」

「えっ?」


 大家の皺首が驚嘆に歪んだ。そんな大家と同じ人間とは思えないほど見目のよい虎之助は、知り合った歳月の長さとは裏腹に慈しみに満ちている。


「琴平。行く当てがないのならば、私の家に年季奉公に来るがいい」

「〈ねんき〉って?」

「年月が決まっている奉公だ。お前が独り立ちできるようになるまで、うちの中間(ちゅうげん)として暮らすといい」


 意味はよくわからなかった。けれど、虎之助は琴平を助け、母に手を合わせてくれた。この上、母を弔ってくれるのだと言う。その虎之助が言うことなら、琴平は信じたいと思った。


「ありがとう、お侍さま」


 悲しい中に、ほんのりと喜びを感じる。母はいつでも琴平を案じてくれていたから、この出会いを心底喜んでくれている気がした。

 虎之助は琴平と視線を合わせ、少し微笑んだ。


「さっき名を名乗ったはずだ。名で呼んでくれ」


 偉い人の名前はむやみに呼んではいけないのだと思っていた。大家ですら名前で呼ばれるとむっとする。

 しかし、虎之助はそれでいいと言う。


「とらのすけ、さま」


 ふわり、と頭を撫でてくれる優しい手だったが、手の平は意外なほどに硬かった。剣を握るとこうなるのだと、後に知った。


 こうして虎之助は、琴平が尊敬してやまないただ一人の人となった。

 母が欠けた空白を虎之助が埋めてくれたから、琴平は生きていけたのだろう。




 年季奉公で中間とやらになる。

 ――その前に、琴平は武家というものに階級があることも知らなかった。市原家は旗本だった。つまり、武家の中でも上に位置づけられた家格で、道端で拾った身寄りのない子供を雇うような軽いところではなかったのだ。


 虎之助は嫡男だった。行く行くは市原家を背負って立つ惣領息子に父親は甘かった。子供一人くらいなら、と結局は説き伏せられた。


 そして、ここからがおかしなところだ。

 本来、中間は門番や使いっ走り、雑用をする小者である。最下層の足軽でも名字帯刀が許されるけれど、中間は武士ではないのでそうした特権はない。

 そのはずが、虎之助は暇があると琴平に剣を教えたのだ。


「お前は筋がいいから、すぐに身につくだろう」


 そんなことを言ってくれた。これは、琴平が一人で生きていくために鍛えてくれているのだと思った。

 年季奉公は、決まった期間が過ぎたら出ていかねばならないものだ。琴平は、他の子供たちと肩を並べて奉公に上がれる年頃になればここを去ることになる。恩人の虎之助にはどうやって恩を返そうかと毎日考えながら過ごした。


 けれど、できれば虎之助とは別れたくない。虎之助の家来になりたい。

 それが侍の血など受け継いでいない身の上には叶わない願いなのだと、少しずつ理解し始めた。だとしても、願うこと自体はやめられなかった。


 ただ、年季が明けるごとに、虎之助はにっこりと笑って言うのだ。


「おぬしは私の良き相談相手だからな。まだここにいてくれるな?」


 相談なんて何もない。虎之助は琴平に話さずともなんでも解決してしまえる。これは虎之助の優しさだ。


「俺だってもっと虎之助様のお役に立ちたいです」


 虎之助の清らかな心を手本に、琴平は育った。嫡男の虎之助から贔屓にされている琴平をやっかむ手合いもいるけれど、そんなものは笑ってやり過ごせた。


 そんな日々を送り、気づけば十年。

 琴平は十六、虎之助は二十五になっていた。


市原虎之助。

これは「市原(いちはら)(とら)()」という桜からもらってます。

これも白い八重桜なんですけど、虎の尻尾に見えるとされるような花の付き方をする桜です。

うん、言われなかったら桜に見えない(*´ω`*)

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