〈十九〉変異
家中を隈なく探したけれど、虎之助はいない。蒲団も畳まれ、昨晩は眠ったのかどうかもわからなかった。
虎之助は単身で動きたいのだ。琴平は足手まといにしかならない。
それでも、虎之助がこの里のどこかにいるのは間違いない。探し出そう――そう思って、はた、と立ち止まる。
雛鳥のように後をつけ回す琴平だから、虎之助は連れていってくれなかったのだ。今、琴平がすべきことは虎之助を追うことなのか、それとも別の何かなのか。
それを見極められない自分が情けない。
「――くそっ」
何に対しての悪態なのかもわからないが、吐き捨ててから琴平は履物を引っかけて外へ出た。
そして、目を疑う。
家から見える景色はほんの数刻で様変わりしていたのだ。
あの桜は、道を行けば段々と見えてきたのだが、今は家からでもよく見える。天を覆うような大木となって、里のどの妓楼よりも高く育っている。
桜が里を支配している。あの桜がこの地の主だとばかりに。
ガンッ、と唐突に地揺れが起きた。
琴平はとっさに木戸につかまって転倒を免れる。遠くで人の悲鳴がした。
今、あの木に近づくのは得策ではないのかもしれない。それでも、琴平は木を目がけて走った。あそこにまだカセイがいるだろうかと。
少し進んだところですぐ、道は歩きやすいものではなくなっていた。木の根が這って土を捲り上げ、すでに平坦ではない。
昨日まではこんな状態ではなかった。この根があの桜のものだとするのなら、一体どこまで伸びたというのだろう。これでは明らかに化け物だ。
そんな木の根を踏んでいいものか判別できず、琴平は可能な限り避けて通った。
木の根によって道幅は狭い。そして、花のついた枝はまるで竹のように伸びて辺りの家屋を貫いていた。
それでも、桜の花は美しく咲いている。家の中から桜が生えているようで、なんとも異様な光景だった。
「――っ!」
この時、叫び声が聞こえた。甲高い女児の声だ。
助けを求める叫びであるのは明らかで、琴平は見過ごしてはいけないと腹をくくった。さすがに、自分より弱い子供を救わないような男にはなりたくなかった。
その声がする方へ急いで足を向けると、帯を桜の枝に引っかけられ、身動きが取れなくなっている女の子がいる。錯乱してわあわあ叫んでいた。
あの幼さなら、禿というものだろう。あの子もまた、松枝のように桜に食われてしまうのか。
そう思ったら、考えるよりも先に体が動いた。木の根を蹴って跳び、刀で枝を斬った。化け桜の枝だから刀の方が折れるかに思えたが、枝は傷を受けて縮んだ。その斬った手ごたえがまるで生き物のようで、琴平の手が震える。
それでも、突如空中に放り出されて地面に叩きつけられそうになった禿の下へ琴平は体を滑らせた。ぶつかり合って痛かったのは禿の方かもしれないが、地面よりは幾分ましだろう。
「大丈夫かっ?」
琴平の膝の上に転がった禿に問いかけると、禿は泣きながらうなずいた。
この里に連れてこられただけあって、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていても可愛らしい子だった。今は六、七歳くらいだろうか。あと十年もしたら思川太夫ほどに輝く美貌の持ち主になっているかもしれない。それでも、今は泣いているただの子供だった。
「あ、あい……っ」
無事なようでほっとしたけれど、この状況では何ひとつ油断はできない。
それにしても、この子が一人で外へ出たとは考えにくい。多分誰かとはぐれたのだ。
「誰かと一緒じゃないのか?」
「さ、采璃姐さんと一緒でしたっ」
ここで采璃の名が出てどきりとする。
「〈千里屋〉の?」
「あい。思川姐さんの具合が悪くて、采璃姐さんと花崎様のところにそれを伝えに出たんです。そうしたら、あたしだけ枝に引っかけられてしまって……っ」
その時の怖さを思い出したのか、禿はまた泣き出した。可哀想だけれど、優しく慰めてあげる暇がなかった。
「ここでじっとしてると危ない。采璃を探そう」
今の話だと、采璃も一人になっているのかもしれない。
琴平が言うと、禿は目を擦ってうなずく。
「あたしは〈千里屋〉の華汰です。おにいさん、琴平さんですね? 采璃姐さんから聞いて知ってます」
「あ、ああ」
采璃が琴平のことをどんなふうに言ったのか気になるけれど、聞かない方がいいような気もした。
「采璃はどっちにいる?」
「花崎様のお住まいに行こうとしていたので、壱町の方です」
確か采璃に聞いたけれど、この里は桜の花びらのような地形をしているのだ。琴平のいた家が肆町だった。壱町がどちらの方角かはわからないが、華汰が導いてくれるだろうか。
「じゃあ、急ごう」
「あいっ」
琴平は華汰と一緒に駆け出した。とはいえ、華汰は子供で、しかも女の子だから身幅の狭い着物では速く走れない。華汰を気遣いつつも、琴平は焦れていた。
この時、琴平が最もその身を案じていたのは、虎之助ではなかった。
虎之助は琴平が心配しなくてはならないほど弱くはない。だからむしろ、采璃のことを考えていた。
先ほどの華汰のような目に、もっと言うならば松枝のような目に遭っていなければいいと。
バキバキ、メキメキとそこかしこで音がする。
そして、足の裏から常に地面の震えが伝わってくる。
これらはすべて、桜の木が里で蠢いているせいなのだ。枝が根が、里を破壊する。今までこの里では何本の桜が引き抜かれたのかは知らないが、捨てられた桜の怨みというのはこんなにも強いものなのか。
そもそも、木の中でも桜は特別なのかもしれないという気がした。強い霊力というのか、何か神聖なものを宿しているような。
桜が好きだった母がよく、桜の木は特別なのだと言っていた。桜は神宿り木だと。
そんな木を相手に人が好き勝手しすぎたが故に、今その代償を払わされんとしているのか。
しかし、こんなにも幼い華汰や采璃たちにまで罪があるわけではない。それでも桜は人間を敵と見なし、区別などしてくれないらしい。
「華汰、こっちの道で合ってるか?」
琴平は華汰の手を引きつつも、何度も振り返って華汰が桜に傷つけられていないかを確かめた。
「あい。……多分」
華汰が多分と言ってしまうのは、辺りが崩れて様変わりしているからだろう。垣根が倒れ、瓦屋根の瓦礫が散乱している。琴平は華汰が瓦礫を踏んで足を痛めないように背負うことにした。
「ここは危ないし、負ぶっていくよ」
「で、でも……」
「いいから乗って」
躊躇うのは、琴平が頼りないからだろうか。それとも、女ばかりの中で育ったから、男が嫌なのだろうか。
背中に乗った途端に華汰がしくしくと泣いている。
「どうした? どこか痛いのか?」
急ぐけれど、無理強いをしてはいけなかったのかもしれない。琴平が戸惑いながら声をかけると、華汰はかぶりを振った。
「おんぶなんてしてもらったことないから」
「えっ?」
「あたし、物心ついた頃にはもうここにいて、家族とか知らないから。こんな時だけど、嬉しくて……」
皆、親に売られたのだと采璃は言った。
采璃もそうだったけれど、この里の少女たちは明るく普通に振舞っていても心に深い傷を抱えている。それを改めて思った。
子供らしいぬくもりが背中から伝わる。
「これくらい、いつでもしてやるよ」
そんなことしか言えなかったけれど、琴平は背中の華汰を気遣いながら先を急いだ。




