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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈十七〉詫び

 松枝はもう幽世(かくりよ)へと旅立ってしまったのだ。

 それなのに、亡骸もない。あれは幻であってほしかった。


 琴平が引き攣るほど強くまぶたを閉じると、幸せそうな松枝の微笑みが浮かび上がる。あれはもう二度と見られぬものだった。

 駆け落ちをした二人の行く手には、どう足掻いても別離しかなかったとは皮肉なものだ。そう思うとやり切れず、琴平の目からも涙が零れた。


 仮家の座敷にどかりと座ると、虎之助は両手で頭を抱えた。

 両肩が激しく震えている。泣いているのかと思った。


 容易く泣けたのなら、まだよかったのかもしれない。ただし、それは松枝の死を受け入れるということのように思えたのだろうか。涙は見せなかった。


 あんなわけのわからない死では受け入れられないに違いない。虎之助は悲しみに浸ることもできないのだ。

 顔を覆った指の隙間から見えた虎之助の目は、別人のように鋭かった。


「誰が松枝をあんな目に遭わせた――」


 それは琴平に言ったのとは違う、ただの独り言に過ぎなかったのかもしれない。琴平にはかける言葉がなかった。

 松枝はこの里の人間とはほとんど面識がない。誰かに怨まれていたとも考えにくい。


 そこでふと、琴平は昨日、花車とぶつかりそうになったことを思い出した。

 あの不気味な女は、なんのためにあそこにいたのだ。今回のことと何か関りがあるのだろうか。


 このことを虎之助は知っているのか。喉元まで言葉が出ていたのに、琴平はそれを呑み込んだ。

 今の虎之助にこれを確かめたら、虎之助は花車を斬るのではないかと思ってしまった。それくらい思い詰めている。不確かなことを言っては駄目だ。


 まずは自分が確かめよう。琴平はそう決意した。




 ――その後はしばらく、誰もこの家に来なかった。

 恐ろしくて誰も近づけなかったのだ。もしかすると、旅人がこの里に(わざわい)を呼び込んだと考えているのだろうか。


 こちらとしてはその逆だ。こんなところに来てしまったから、松枝は可哀想なことになった。

 全部この里のせいだ。

 あの幸薄い女人はどうあっても幸せにはなれなかったのだとしたら悲しい。


 今日はもう誰も来ない、松枝もいないのなら、琴平が飯の支度をしなくてはならない。松枝の手伝いをしていたから米を炊くくらいはできる。塩むすびなら作れるはずだ。


 虎之助を気にしつつも、いつまでも二人で呆けているだけでは死んでしまう。悲しいながらにも琴平は昼を過ぎてから動き始めた。

 庭の井戸で水を汲み上げその水を桶に移して運んでいると、人の気配がした。


「誰だっ!」


 過敏になってしまうのも無理はない。今、この里で何が起こったとしても不思議ではないのだから。

 けれど、琴平が睨みつけた先にいたのは――風呂敷包みを持った采璃だった。


 采璃はびくりと動きを止め、身を竦めた。

 そんな様子を見ても可哀想なのかどうかよくわからなかった。昨日のことを思い出すと、腹立たしさも湧いてくる。

 今日の采璃は、昨日のことなどすべてなかったかのようにしょんぼりとして見えた。


「あの、差し入れを……」


 誰もここへは行きたがらなかったから、采璃が渋々食事を運んできたらしい。

 琴平が何も言わないでいると、采璃は小刻みに震えながらつぶやいた。


「あの、桜のこと、あたしたちにもわけがわからなくて。あんなことはあたしが知るかぎりで初めてなの。皆、今度の植木屋さんが穢れた木を植えたって怒ってる」


 植木屋――吉次のせいだというのか。

 それは違う気がした。吉次は何も知らないだろう。ごく普通の若者だ。


 何かを知っているとしたら、それはカセイか花崎ではないのか。

 カセイは桜の怨みがこの地に凝っていると言った。だから、その怨念を受けて今年植えられたあの桜が(たた)り神になったということなのだ。


 琴平が暗い顔をして考え込んだせいか、采璃は自分が叱られているように思えたのかもしれない。


「き、昨日のこと、謝らなきゃと思ってた矢先にこんなことになって、その、まず何から言ったらいいのかわからなくて、上手く言えないの。ごめんなさい」


 昨日のことを謝りたいと言う。今の采璃は最初に感じたのと同じ、年相応の娘だった。昨日の、あの木の下でだけ様子がおかしかったのだ。


 琴平は今、自分の感情でさえ正確につかめなかった。采璃がしおれるほど厳しい面持ちになっているとしたら、采璃のせいというよりも状況のせいだ。松枝のことを思うと、とても笑える気がしない。

 それでも、昨日のことだけははっきりしておこうと思った。


「昨日は、なんであんなことした?」


 それを訊ねるのは当然だろう。

 もしかすると、琴平の言動の何かが癪に障り、その仕返しなのかとも思えたが、そうではないらしい。采璃は息ができないのかと思うほど苦しそうに見えた。


「……あたし、もうすぐ水揚(みずあ)げされるから」


 消え入りそうな声でそれを言った。

 見習いを終え、遊女として一人前になることを意味するが、それが昨日の行いとどう繋がるのだろう。

 そこからはうつむいていて、采璃の顔は見えなかった。


「水揚げの相手が誰なのか知らされていないけど、多分その役のためにお金を積める人で、あたしがぞっとするくらいの、花崎様より年上の人かもしれない。でも、それが嫌だなんて言えないの」


 初めて床を共にする男が父親よりも年上かもしれない。それは嫌なことだろう。

 金で買われた遊女には、それを拒むことができないのだ。


 琴平は男だけれど、おぞましいと思えた。そんなふうに思えるのは今だけで、あと数年したら琴平も他の男たちと同じように平気で遊女を食い物にするようになってしまうのだろうか。

 それは嫌だと自覚できていればならずにいられるだろうか。


 しかし、遊女を買う客がいなければなかなか年季が明けず、苦しみが長引くのも本当だ。

 采璃が平然と振舞いながらも、どれほど不安な心を隠していたか、この時まで気づきもしなかった。


「どうすることもできないとしても、少しくらいは(あらが)いたかった。水揚げがつらくても、あたしの肌に最初に触れた男はあんたじゃないって心の中で逆らってやりたくて。ごめん、琴平の気持ちを無視して、勝手だってわかってるけど、この里に部外者が来ることなんてもうないだろうから……」


 遊女に(まこと)はないとはよく言われる。遊女は平気な顔で嘘をつくものなのだと。その手練手管に騙され、男は身持ちを崩すのだ。

 今の采璃の涙も、その手管に過ぎないのだろうか。


 ――だとしても、騙されてやろうと思った。

 真実がどちらでも構わない。采璃が泣いているのは苦手だ。


「いいよ、もう」

「……怒ってない?」


 ぐす、と鼻を鳴らす。


「揶揄ったんじゃないなら怒らない」


 謝らなくても、気まずければ放っておけばよかったのだ。琴平はどうせそのうちにいなくなる旅人なのだから。それでも謝ろうとしてくれたことを認めなくてはと思った。


 濡れた瞳が琴平に向く。ほんのりと赤い目が頼りなく、庇護欲をそそる。

 けれど、琴平はこれ以上采璃に関わっている場合ではないのだ。可哀想だとは思うけれど、何もしてあげられない。


「ありがとう。でも、そんなふうに優しいから、あたし、甘えたくなったの」


 綺麗な顔立ちを、小さな子供のようにくしゃくしゃにして泣いている。涙が止まるどころか余計にひどくなった。琴平が泣かせたとばかりに。


 元気そうに振舞っていても、心の奥底では苦しいことの方が多いのだ。それをさらけ出せる相手がいないだけで。


 この娘のことがひどく憐れに思えた。その肌に触れた時よりも心に訴えかけるものがある。

 純粋な好意とは違うのだとしても、采璃は琴平のことを敵ではなく味方だと思ってくれたようだから。


 采璃は目を擦って涙を止めると、もう泣かないとばかりに一度上を向いた。


「こんな大変な時に、あたしの話ばっかりしてごめんなさい。これ、あたしが作ったから、あんまり見栄えはよくないけど食べてね」

「采璃が?」

「う、うん」


 風呂敷包みを受け取ると、まだほんのりとあたたかかった。心までそのぬくもりで解れる。

 采璃はここで言いにくそうに小さく問いかけた。


「あの、市原様は?」

「今はそっとしておくしかなくて……」

「すぐにでもこの里を出るの?」

「わからないけど、それもあり得るかもしれない」


 虎之助が、もうこんな場所に長居したくないと思っていても仕方がない。ただしその場合、虎之助は実家に戻りはしないだろう。一度出た以上、のうのうと家督を継ごうとすることはない。流浪の身となっても、琴平は虎之助に仕えていたいのだから、虎之助が行くのなら何も言わずに従うつもりだ。


 采璃は僅かに眉根を寄せ、それを解いてからそっと言った。


「そう。もしそうなら二度と会うことはないでしょうけど、どうかお達者で」

「うん、ありがとう」


 采璃も幸せになってほしいけれど、それは無理なことだろうか。

 この里を一緒に出て行けたらいい。とはいえ、采璃だけが逃げられても他の遊女たちは救われない。


 本当に、こんな里へは来なければよかった。


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