〈十六〉贄
その翌朝。
琴平は虎之助に揺り起こされた。
「琴平、起きてくれ」
驚いて飛び起きると、戸を閉じたままの部屋を朝の光が柔らかく包み込んでいる。昨晩はなかなか寝つけなかったから、寝過ごしたようだ。
虎之助は琴平の夜具の横に膝を突き、困惑したように眉根を寄せている。
「松枝を知らぬか? 姿が見えぬのだが」
この朝の時分に見当たらないと言う。厠か、もしくはどこかで隠れて体を拭いているのではないかと思った。
「ええと、その……」
言いにくいことなのではっきり言えずにいると、虎之助はそれだけで察した。
「私が気づいてから、半時は経っている。もし時がかかる用があるならば、松枝は告げてから出かけただろう。何も言わずにいなくなったのが妙だ」
確かに松枝の性格なら、虎之助に心配をさせるとわかっていて黙って行かないだろう。
けれど、それならば何故いないのだ。
「誰かが訪ねてきたりはしませんでしたか?」
口に出してみたが、松枝が誰かに呼び出されたとは考えにくい。これといって物音はしなかった。
虎之助もうなずく。
「ああ、誰も。本当にどこへ行ったのやら」
虎之助は、この里をどう思っているのだろう。
カセイには遭遇していないはずだが、不気味な何かを感じ取っているとも考えられる。松枝の姿が見えないせいか、虎之助にしては落ち着かない様子だった。
琴平も蒲団を畳み、庭の井戸で顔を洗って気を引き締める。家で待つべきか、外へ探しに出るべきか考えていると、庭にいても何やら異変を感じた。
里が騒がしい。人の声を風が運んでくる。
嫌な予感しかしなかった。
それが外れてくれたらいいと心底願う。
襟元をぐっと握り締め、荒れ狂う心の臓を持て余した。それでも確かめねばと、草臥れた草履で庭土を蹴る。
玄関先には虎之助が大小の刀を差して立っていた。面持ちは険しい。
「外を見て参る」
「俺もお供します!」
松枝が向こうから歩いてきてくれると思いたいけれど、桜の木に辿り着くまで松枝には出会えなかった。
ただし、松枝はそこにいたのだ。桜の木と共に――。
桜の木が、さらに大きく育ったように感じられた。天を衝くほどの高さに枝が伸びていると。
その周囲を数十人の野次馬が囲んでいる。女よりも男が圧倒的に多い。素人屋は男が多いのかもしれない。
人垣に紛れ込み、琴平は皆と同じように木を見上げた。
桜の枝は枝らしからず、人の手のように曲がり、女の体を支えている。その太い枝の一本は女の――松枝の胸を貫いていた。
信じがたい光景に、琴平はまだ自分が目覚めていないのかと思いたくなった。けれど、指先が冷えて血の気が引いていく感覚が確かにある。
桜の枝に貫かれている松枝の体から血は滴り落ちていない。あの桜が吸い取ってしまったのだろうか。
あれでは百舌の速贄だ。松枝は、この化け物のような桜の贄になったのか。
高いところに掲げられた松枝の顔はよく見えなかった。けれど、あの紺木綿の着物は確かに松枝のものだ。松枝をよく知る琴平が見ても別人ということはない。
その時、その場にいた皆がハッと振り返るほどの気迫を放っていたのは虎之助だ。
「松枝っ!!」
虎之助の悲痛に枯れた声は聞くに忍びなく、琴平は耳を塞ぎたくなる。
けれど、そんなことをしても起きてしまったことは変わらない。仕えて長い琴平でさえ、虎之助がここまで感情を剥き出しにする様を見たことはなかった。それほどに今、虎之助は震え、打ちひしがれている。
家を捨てるほど大切だった松枝が、こんな惨たらしい目に遭ったのだ。その心痛は計り知れない。
しかし、何故こんなことが起こったのか。誰の仕業なのか。
何もわからない。ただただ、琴平は吐き気がしてその場に膝を突いた。
「おのれ、妖がっ!」
虎之助は獣のように唸り、吼えた。皆が桜から離れて周囲に散ったのは、憐れな虎之助に道を譲ったのではない。
剣客である虎之助が剣の柄に手を添えながら、世のすべてを怨む目をしている。単にそれが恐ろしかったのだろう。
松枝の死は惨い。惨たらしい。
――本当にそうだろうか。
あの咲き誇る花の中に埋まり身を横たえる松枝の姿は、ある意味美しくもあった。人である限り、いつか訪れる死が避けられぬものであるとするのなら、あんな死がよいのではないかと考えずにはいられないい。
琴平の母のような死に目よりは、ずっと。
ヒュッと風を切る音がした。虎之助が抜刀したのだとその音で知った。目では追えない、それほどの速さである。
虎之助は桜の木に斬りかかっていた。斧でも一撃では歯が立たないような太い木の幹だ。それくらいでどうにかなるわけはない。
そんなことは百も承知だっただろう。それでも、やり場のない悲しみが虎之助を衝き動かす。
やはり、桜の木はびくともしなかった。虎之助を嘲笑っている気さえするほど、悠然と咲き誇っている。
はらはらと花びらが散る。
桜の花弁が降りかかると、皆が恐れをなして振り払っていた。
松枝の体は、桜と同化してしまったのだろうか。腕が、脚が木偶人形のようにだらりと垂れたかと思うと、松枝自身の体にも花を咲かせ、花の残滓は風に攫われて消えた。
あの小さな花びらの一枚一枚が松枝なのだとしたら。繋ぎ合わせれば元の人間に戻れるのだろうか。
そんなことができるはずもないのに、松枝が生き返る可能性が皆無でないのなら、そうであればいいと思った。
薄紅の花が散った後、桜の木に松枝の姿は跡形もなかった。琴平は目の前で起こったことを見ていたというのに、少しも信じられない。
この地には桜の怨念が凝っているとカセイは言った。
しかし、松枝にはなんの罪もない。偶然居合わせただけの旅人だ。桜に狙われたのがどうして松枝だったのだろう。
虎之助は声を上げ、なおも桜に斬りかかろうとした。そこで琴平はようやく呆けている場合ではないと我に返った。
「虎之助様! お気を確かに!」
抜身を手にした虎之助の袖に縋りつく。そうしたら、信じられないほど強く突き飛ばされた。
「邪魔をするな!」
振り向きもせずに怒鳴られる。あの穏やかで優しい虎之助が、憑りつかれたように豹変してしまった。虎之助を崇拝してきた琴平にはひどい衝撃であるが、それに傷ついたとはとても言えない。
とにかく、琴平は必至だった。跳ね飛ばされながらも諦めない。
「お願いします、虎之助様! どうか――っ」
ぴたり、と虎之助の動きが止まった。ひゅうひゅうと肩で息をしている。このまま倒れてしまうのではないかと心配になるほどだった。
「虎之助様――」
琴平が見上げると、虎之助はそのまま踵を返し、家の方に戻っていく。誰も近づいてこなかったが、琴平だけは虎之助を追った。
この時、虎之助を遠巻きに見ていた野次馬の中に采璃がいた。采璃は虎之助ではなく琴平を心配そうに見ていた気がした。




