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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈十四〉桜餅

 その翌日。

 早朝にはこの里を出ていけとカセイに言われたけれど、琴平はあれを幻だと決めつけた。ひと晩寝て冷静になったら、(うつつ)のはずがないとしか思えなかったのだ。


 出ていけと言われても行く当てなどないのに、これだけ待遇の良い棲み処を易々と離れられなかった。出ていくのは虎之助の怪我がしっかり治ってからだ。


 朝、だからといって何かが起こることはなかった。

 やはり寝ぼけただけだったのだ。馬鹿らしい。




 そうして昼下がりになると、琴平たちのところへ振袖新造の采璃がやってきた。


「〈千里屋〉の新造の采璃と申します。昨日は思川太夫をお助け頂き、ありがとうございました。太夫の名代としてお礼に参りました」


 采璃は三和土(たたき)に立つと、板敷きに正座している琴平と松枝に、躾けられた丁寧な所作で頭を下げる。手には薄紅の風呂敷包があった。

 松枝もしっかりと手を突いて低頭する。女中の頃から身についている綺麗な姿勢だ。


「これはご丁寧に。私は松枝と申します。今、虎之助様をお呼びしますね」


 松枝が立ち上がって背を向けると、采璃は余所行きの顔から昨日の年相応の娘に戻る。琴平の目をじっと見て、そして笑った。

 それは可愛らしい仕草だった。やはり、こんなに綺麗な女の子には会ったことがないと改めて思う。

 采璃の花簪が揺れるごとに琴平の鼓動もそれに合わせて鳴っているような気がした。


「また会えて嬉しいわ」

「え? あ、うん」


 こんな時、ろくな返事もできない。本音ではなく、建前で言ってくれているだけかもしれないのに。まさか真に受けているのかと采璃は内心で笑っただろうか。

 そんなことを思っていたら、采璃は頬を膨らませた。


「琴平はあたしにまた会えて嬉しくないの? 嬉しそうには見えないわ」

「そんなことは……」


 ハハ、と気の抜けた笑いを浮べた。揶揄われているだけなのだとしたら、真剣に困らなくてもいいのに。

 同じ年頃の男の子には初めて会ったと言っていた。采璃は物珍しい琴平を(つつ)いて遊んでいるだけなのだ。


 そうしていると、松枝が虎之助を呼んできた。虎之助は特に浮かれたところもなく、平素と変わりない。

 思えば、虎之助が思川太夫の美貌に陶然としなかったのは、松枝という想い人と心を通わせ合ったばかりだったからかもしれない。もしそうだとしたら、松枝は幸せな女人だ。


「私はこちらで世話になっている身だ。そもそも大したことはしておらぬ故、礼には及ばぬ」


 虎之助は恩を着せるつもりなどない。自然に人助けをする、そうした人柄なのだ。


「いいえ、姐さんからはくれぐれもよろしくと言付かっております」


 思川太夫はあの美貌だから、顔に傷などついたら大変だ。虎之助が思う以上に感謝しているに違いない。

 別れ際も、切れ長の美しい目でずっと虎之助を見ていた。思川太夫ほどの女人の目から見ても虎之助は立派に映ったことだろう。


「これはお礼の品です。どうぞ皆様でお召し上がりください」


 采璃が差し出した風呂敷包みの中は食べ物らしい。

 松枝はその中を見る前に匂いで気づいたようだ。


「あら、桜餅ですか?」


 そう言われてみると、独特の匂いが僅かにした。


「ええ、あたしも大好物なんです。とっても美味しいので、きっと気に入って頂けるかと」

「まだ桜は蕾が多いくらいで葉っぱなんて出てないのに、もう作れるんだ?」


 琴平が思わず言ってしまったら、松枝と采璃は顔を見合わせてころころと笑った。女が二人そろうとこんなにも場が華やぐのかと不思議な心境だ。


「桜の葉は塩漬けにして使いますから、去年から漬け込んであったのでしょう」

「そういうものなんですね」


 桜餅がどのようにして作られるのかを気にしたことがなかった。最後に食べたのがいつだったのかも覚えていない。自分は何も知らないんだな、と琴平は苦笑した。

 そこで松枝は采璃に向かって言った。


「采璃さんも一緒に食べて行きませんか?」


 松枝なりに、日持ちのしない食べ物ならば、受け取れないと返すのも失礼だと思ったのだろう。

 ここで采璃は急に顔を赤くした。


「いえ、あたしは……」

「お好きなんでしょう?」


 下手なことを言ってしまったと恥ずかしくなったらしい。そうしていると、遊女というよりも本当にただの町娘のようで親しみやすい。琴平も少し笑った。


「食べていけばいいんじゃないか?」


 そうしたら、采璃はそうっと琴平を盗み見て、それからこくんとうなずいた。


「じゃあ、少しだけ」


 ――そう言いつつも、采璃は座敷で香しい桜餅を前に目を輝かせ、美味しそうに食んでいた。

 桜餅は、桜色をした餅の皮で餡をくるりと包んで、それをまた桜の葉の塩漬けで挟んである。そんな菓子だ。確かに美味いけれど、桜の葉の匂いには癖があり、好みが分かれるかもしれない。


 虎之助も松枝も桜の葉を剥して中の餅だけを食べていたのに、采璃は葉っぱごと何も残さずにぺろりと食べていた。三人が残した桜の葉を残念そうに見ている。塩漬けの葉も一緒に食べた方が美味しいのにとでも言いたげに。


「ごちそうさまでした。じゃあ、お稽古があるのでもう帰りますね」


 舞に三味線にと、振袖新造の采璃には身につけなくてはならない芸事が多いのだろう。こんなところで油を売っていてはいけないらしい。


 遊びたい盛りから稽古事に追われて来ただろう采璃を、琴平はこの時になって気の毒に思った。そして、その努力の末に待つのは身売りである。理不尽な世の中だ。この無邪気な娘は幸せにはなれないのか。

 そう考えてしんみりしてしまった。


「琴平、そこまで送ってあげてくれ」


 虎之助の声でハッと我に返る。


「は、はい」


 采璃は、要らないとは言わなかった。自然に笑っただけである。


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