〈十三〉花精
そっと、音を立てぬよう静かに琴平は家へと戻った。
虎之助は座敷、松枝は台所だろう。台所の戸が僅かに開いていて、そこから仄かな灯りが漏れていた。
まだ台所仕事が終わらないようなら手伝った方がいいと思った。
戸口に近づいていくと、中からぼそぼそと話し声がする。何を話しているのかまでは聞こえない。
けれど、この家から話し声がするのなら、話しているのは二人だけだ。
なんとなく、先ほどの吉次の言葉が気になってしまい、声がかけづらい。二人から邪魔だと直接言われたわけではないけれど。
隙間から中を見遣ると、手燭のぼんやりとした灯りに照らされた二人が見えた。
虎之助の大きな手が松枝の頬に添えられていて、松枝の白い手は虎之助の背中の辺りを握りしめている。
二人の声は最早聞こえず、息遣いだけがした。松枝に被さる虎之助の顔は見えなかったが、かろうじて見えた松枝は目を閉じ、虎之助から与えられるぬくもりに恍惚としていた。
――可哀想だから助けた、ただそれだけのことではないのだ。
虎之助もまた、松枝のことを憎からず想っていた。
それに琴平は気づいていなかった。
虎之助は誠実で、立場の弱い松枝を脅して迫るようなことはしない。二人は合意の上で互いを求め、触れ合っている。
そこにいるのは、ただの男と女だった。
何か、虎之助と松枝が知らない他人になってしまったような侘しさに襲われ、琴平は弾かれたようにそこを離れた。
――あの二人は、琴平がいなくても幸せなのだ。二人でいられたら、それで。
それならば、琴平は一体どうすればいいのだろう。
二人がこの里を安息の地と定めたとしても、琴平だけはここにいる必要がない。今の虎之助には供など邪魔なだけだ。琴平は一人であっても旅立たねば。
しかし、それができる気がしなかった。琴平もこれまで虎之助に守られてきたのだ。
だから今、寄る辺のない気持ちでいっぱいだった。見えない手に首を締められているかのように苦しい。
全力で駆け抜け、二人から逃げた。
気づけば、桜の木のそばにいた。
琴平は膝からくずおれて土に手を突く。注連縄が巡らされた木には近づけないけれど、ここにいるとほんの少し落ち着く気がした。
泣き笑いのような、中途半端な表情は誰にも見せたくなかった。
松枝の幸せを喜んであげたいと思うのに、素直にそれができない嫉妬のような気持ちが湧いてくる。こんなことは初めてだった。
淡い桜の色が、この時ばかりは目に染みるような気がした。
その時、ひと際強い風が吹いた。
ザァッ、と桜の枝が揺れる。桜が咲ききる前に散ってしまうのではないかと不安になった。
すると、風はぴたりと止み、今度は少しのそよ風さえも起こらなくなった。
それは時が止まったような感覚だった。なんの音も聞こえない。自分の耳がなくなったのかと思った。
この里の生者は琴平だけなのかと錯覚してしまいそうなほどに何もない。
ドッ、ドッ、と心の臓がいつも以上に主張し、それを感じたからこそ生きている、ここにいると信じられた。
妙だ。何かが、違う。
肌がひりつく。
これは、なんだ。
琴平が目を見開いたまま桜の木を見上げていると、いつの間にやら木の前には水干姿の少年がいた。注連縄の内側に。
赤い組紐で結わえた絹糸のような束ね髪、年の頃は十四、五歳くらいだろうか。少女かと見紛うような美童で、もしかすると本当は娘なのかとも思えた。
白拍子のような装束なのだ。ここが遊廓でなければ陰間かとも思っただろう。
この少年は、急に降って湧いたようにここに現れた。先ほどまで、木のそばには誰もいなかったはずである。
先ほどの道中を行く思川太夫は、光り輝いて見えた。
だが、この美童は例えなどではなく、本当にうっすらと光を纏っている。それは白い装束を着ているせいばかりではない。
喉がからからに乾いて声が出ない。
唾を飲むこともできずにいた琴平に、美童はささやくように言った。
「桜はまだ咲ききらぬが、そう時もない」
年若い少年の声なのに奥が深く、含みがある。
「お、お前は、誰だ?」
やっとそれだけを言った琴平に、美童は軽く笑ってみせた。それは無邪気さとはかけ離れた、どこか皮肉な笑みだった。
「豆腐屋の倅にでも見えるか?」
「い、いや……」
冗談のつもりだろうが、この状況でとても笑えたものではない。顔が引き攣るばかりだ。
「私が何者かなど、おぬしは気にせずともよい」
得体の知れない美童は、微笑んでいるわりには口答えを許さない威厳がある。
関わるべきではないと思うのに、この世には琴平とこの美童の二人しかいないような気になる。虎之助たちともはるか遠くに離れてしまったような。
桜の木に囲われて、見えない檻の中にいる。琴平はそんな気分だった。
美童は、ほぅ、とひとつ息をついた。
「悪いことは言わぬ。さっさとこの里を出ていけ」
「えっ?」
「この里と共に滅んでもよいのなら、無理にとは言わぬが」
美しい顔でぞっとするようなことを言う。馬鹿を言うなと返したいけれど、その言葉を笑い飛ばせない。
この里は不気味だ。美しいものに溢れていて、心を揺さぶることが多い。それでも、それだからこそなのか、どこかに危険を孕んでいるような気になってしまう。
ここへ来てから追手に悩まされることもなく平穏に過ごしているはずなのに、心にじわりと滲んでくる不安が拭い去れない。
この里は奇妙だ。肌がそれを感じている。
そんな琴平の心を見透かしたように少年は言う。
「この里には怨念が凝っておる」
「おん、ねん?」
それは、苦界に沈み、若くして亡くなった遊女たちの無念だろうか。
遊女は三十路まで生きたら長生きだと言われる。命半ばに散った遊女たちの苦しみはいかばかりのものだっただろう。
世を怨みたくなるのは当然なのかもしれない。
琴平が考え込むと、美童は軽く首を揺すった。
「遊女たちの怨念ばかりではない。人の勝手で植えつけられ、花が散れば抜き捨てられる桜たちの怨念が渦巻いておる。おぬしはそんなこともわからぬのか?」
木が、人を怨んでいる。そんなことがあるものなのか。
唖然としてしまったけれど、目の前の美童は至って真剣であった。
「まあよい。とにかく、明日の早朝には速やかに里を出ていけ」
「……お前の名は?」
何者なのか、それを教えてくれないのなら名も教えてくれないかもしれない。それでもあえて訊ねてみた。
すると、美童は少しの間を置いて答えた。
「私はカセイだ」
「カセイ……?」
花精。
この桜の精だというのだろうか。
怨みの凝った里に植えられた桜は、その怨念を根から汲み取るようにして受け取ってしまうのだろうか。もし、そんなことが起こり得るのなら、今、この桜の中には何が詰まっているのだろう。
そして、その桜の精である少年は美しい見目をしただけの悪鬼と変わりないのかもしれない。
カセイは、気づいたらどこにもいなかった。
溶けるようにしていなくなった。それは人の業ではない。
琴平は背筋を冷たいものに撫でられた気分だった。
あの家に戻りたくないと思っていたはずが、すぐに逃げ帰った。
二人はなんの変りもなく琴平を迎え入れる。
「おかえりなさい、琴平さん」
松枝は微笑んでそう言った。
あの唇を、虎之助はどれほど味わっていたのだろう。あれが初めてではないのかもしれない。
つい松枝の唇に目が行き、琴平は表情を硬くしてしまう。
それに気づいたのか、虎之助が問いかけた。
「遅かったな。……どうした?」
「い、いえ」
何を言えばいいのかもわからない。二人の間柄のことも、カセイのことも。
「幽霊にでも出くわしたような顔をしているぞ」
虎之助にはそう言われたが、それもあながち間違いではない。
「そうみたいです。でも、きっと見間違いですよね」
琴平はぶるりと身を震わせた。
あんなに言葉を交わしておいて見間違いもあったものではない。
それでも、今日のことは自分が寝ぼけただけであってほしい。
そうでなければ、これから一体何が起こるというのだろう――。




