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桜ノ奇  作者: 五十鈴 りく


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〈十二〉道中

 その後、しばらくして花崎が花車を連れて虎之助に会いに来た。

 琴平は同じ座敷にいたわけではないが、声は聞こえた。


「話をお聞きしました。思川太夫をお助けくださったとのことで、なんとお礼を申し上げてよいやら」

「いえ、(たま)さか通りかかっただけのことで」


 虎之助は謙虚に落ち着いた声で返す。花車はいてもいなくても同じなほど何も言わない。だから花崎だけが虎之助と話していた。


「太夫の(かんばせ)に傷がついては大事(おおごと)ですから、こちらとしては心より感謝しております」


 そこで虎之助は訊ねる。


「ここは太夫を育てる里だとお伺いしました。他の遊廓で、太夫は廃れて久しいとされていますが」

「太夫になるには厳しい条件を満たさねばなりませんから、そう容易いことはありません。しかし、今の世だからこそ必要ではあるのです」

「そうお考えなのですね?」

「ええ。ですから、この里には芸者はおりません。太夫よりも三味線、琴、歌舞に優れなければ、芸で身を立てる芸者などとは名乗れませんので」


 吉原などの花魁は高い教養を兼ね備え、ひと通りの芸事は仕込まれているという。それですら太夫には劣るのだ。その水面下の努力は並大抵のことではない。

 琴平はあの思川太夫の美貌を思い出しながらその苦労を知った。


「まあ、太夫たちに苦労がないとは申しませんが、それに見合った技が身につくことを思えば自らのためにもなるのですよ」


 花崎はそんなことを言った。一流の遊女だと認められれば、嫌な客を突っぱねることもできるということなのか。

 本人たちがそう思って励んでいるのか、単に花崎がそう言いたいだけなのかは判断できないが。


「さて。市原様の傷が癒えるまでお体を休めて頂けたらと考えておりましたが、こうなれば話は別です。どうぞお気の済むまでご滞在ください」


 この申し出は、安住の地を探す二人にとってありがたいことだ。

 琴平は内心で喜んでいたが、虎之助はどうだったのだろう。声からは窺い知れなかった。


「かたじけない。今しばらくはご厄介になります」


 ずっとここにいると決めたふうではなかった。虎之助には虎之助なりの考えがある。


「ええ、とにかくゆっくりと休まれて、まずはお怪我を治されますように」


 庭にいた琴平には、花崎の表情などは見えない。虎之助は食えない人物だと判じ、返答を曖昧にしたのだろうか。




 話を聞いていたとも言いにくく、琴平はそのことを虎之助には問えなかった。

 花崎が去ると、琴平は松枝を手伝って井戸水を汲み上げた。

 松枝も今の話は聞こえていたのだろう。不安そうに見える。


 この地は追手に見つかりにくいが、松枝の胸には不安の種が――いや、種が芽吹いて花になって咲き乱れているに違いない。


 あれほど美しい女人が幾人もいるような遊廓にいて、不安にならないはずがない。

 虎之助も男だから、いつか太夫に心奪われてしまうかもしれない。松枝のことを連れて逃げてくれたのは、結局のところ同情でしかないのだ。


 そんなことはないと言いたいけれど、こればかりはわからない。

 虎之助の心を、琴平がわかったような口ぶりで代弁するわけには行かなかった。




 虎之助は琴平にも何も言わなかった。まだどうすべきか考えあぐねているのだろう。


 もどかしいながらに、琴平は台所で夕餉の茶漬けをかっ込み、風呂の支度を始めた。手斧で薪を割って積んでいく。鮮やかな仕事ぶりとまでは言えないが、琴平にもそれくらいのことはできる。


 カンカンと音を立てて薪を割っていると日が暮れた。ほどよく疲れて薪を割り終える。

 そして、薄闇の空にぼんやりと光るものを見た。


 最初、桜が発光しているのかと思った。目を凝らして見ると、そうではなくて桜のそばに吊るされた提灯の灯りが桜の花を照らしているのだとわかる。いつの間にか、夜桜を楽しむための提灯を吊るしたらしい。

 そして、そればかりではなかった。桜の方に向かって灯りが動いている。あれは一体なんだろう。


 琴平は好奇心に負け、その灯りに群がる蛾のように吸い寄せられた。仮家の木戸を抜けて桜のそばへと急ぐ。

 灯りの正体を突き止めたらすぐに戻るつもりだった。




 動く灯りは、若い衆が手にした提灯、動かぬ灯りは通りに立てられた雪洞だ。

 日が落ちた頃に、その道中(どうちゅう)は行われていた。


 陽だまりのようにあたたかな色合いの光源が、太夫の道を示している。前を歩く仕着(しきせ)半纏(ばんてん)を羽織った若い衆が箱提灯を持ち、もう一人が長柄の傘を差しかける。高らかに掲げられた傘には雨でも日差しでもなく、白い雪のような花びらが降る。

 傘の影が僅かに落ちる先に、三枚歯の高下駄を履いてゆっくりと歩む太夫の姿があった。


 〈千里屋〉の御職、思川太夫――。


 金襴の打掛の裾を捌き、表情ひとつ変えずに前を見据え、悠然と歩みを進める。華やかに結った髪も挿した簪も見事ながら、その麗しさには非の打ちどころがなかった。黒子(ほくろ)ひとつなく白い肌に紅だけが鮮やかだ。目尻にもほんの少し紅を添え、それがまた艶やかさを増している。


 まさに弁天ほどの気高さではあるが、あまりに縁遠すぎて琴平には同じ人間とは感じられなかった。

 ふと、太夫の隣を歩く娘に目が行く。


 采璃だ。昼間とはまた違い、キリリと口元を引き締め、前を向いて太夫に歩調を合わせている。その目には、どこか誇らしさも見えた。

 琴平には采璃の方が生身の女として美しさを認められる。太夫の供を務める采璃が立派に見えた。


 桜の花びらが風に乗り、道中を彩る。それは倹しく生きてきた琴平にとって、この世のものとも思えぬような幻想的な眺めだった。

 この時、ぼうっと道中を眺めている琴平のそばに人がいた。声を発して初めてその存在に気づく。


「へぇ。見物人なんてろくにいねぇのに、道中たぁ豪勢だな」


 ハッとして振り向くと、そこにいたのは植木職人の吉次だった。桜を植えた後でもまだ居残っていたらしい。

 あの桜が散ったら引き抜くというから、桜が散るまでは滞在するのだろうか。


「吉次さん」


 琴平が呼びかけると、吉次は口元を歪めて笑った。どこか世を拗ねたところがある男だ。

 きっと、男からは嫌われやすく、女からは持て囃される。


「花魁道中が見れるたぁついてるじゃねぇか。なあ――ええと、なんだっけか?」


 名を覚えてくれなかったらしい。


「琴平です」

「きっつぁん?」


 その呼び名は町人のようで嫌だ。武士ではないとしても、琴平は虎之助の供のつもりだから。


「呼び捨てで構いません。その呼び方はやめてください」


 不貞腐れて言うと、吉次はますます笑った。もしかすると、酒でも飲んでほろ酔いなのかもしれない。


「ああ、そうかい。まあいいや。ほら、せっかくの道中見物と行こうじゃねぇか。琴平は吉原(なか)に行ったことはねぇのかよ?」

「ないです。そんな金はありません」


 正直に言ったら、吉次は琴平の肩に手を回して組んだ。親しみを込めた仕草だが、心は少しも許していない気がした。


「ふぅん。じゃあ道中は見たことねぇんだな。けどよ、あんな天女みてぇな花魁だ。あんな遊女は吉原でもそうそう見られねぇだろうよ。ただ――」


 二人、肩を並べて思川太夫の道中を見守り終えた。遠ざかる一行の立てる音だけが僅かに残る。そこで吉次がつぶやいた。


「花魁のあれ、外八文字(そとはちもんじ)じゃねぇな」

「外八文字とは?」


 何も知らない琴平に、吉次は己の考えをまとめるついでといった様子で答える。


「花魁は重てぇ高下駄を履いて、独特の八文字っていう歩みで道中を行く。その歩みを会得するのに三年もかかるってぇ話だ。出だしに腰を落として足を大きく外側に回し込んで、それから半歩引き足になってな。それが、あの太夫のはむしろ摺り足みてぇに動きが小さくって、あれじゃあ腰巻の隙間から内股が見えることもねぇじゃねぇか」

「う、内股?」


 吉原の花魁は見物人にまでそんなにも色っぽいチラ見せをしてくれるのか。素人娘ではまず考えられないことである。

 戸惑う琴平のことなどお構いなしに、吉次は独り言つ。


「島原じゃあ内八文字だしな。もしかして、あれがこの里独自の八文字ってやつか?」

「そういえば、この里の最高位は花魁ではなくて太夫だそうです。ここは太夫を育てる里なんだとか」


 琴平たちに教えたくらいだから、この里に足を踏み入れた吉次が知っていけないことはないだろう。

 吉次は初耳だったらしく、目を瞬かせた。この男も驚くことがあるのだなと思ってほっとした。


「太夫なぁ。太夫っていや、花魁よりも格上の遊女だ。見目がいいのはもちろん、教養高く、芸事に秀でて、非の打ち所がねぇ遊女の(かがみ)。育てるのにはなんせ金はかかる上、そんなモンになれる素養と根性のある女は砂金みてぇに稀だ。だから、育たなかったってことらしいぜ。本当だったらすげぇところに来たもんだ」

「吉次さんは桜の木を抜くまでここにいるんですか?」

「ああ、そうだ。お前さんたちは?」

「正直なところ、わかりません」

「それを決めるのはお前さんじゃねぇってこったな」


 その通りだ。琴平には何も決められない。

 この時になってようやく、吉次は琴平に僅かな興味を持ったのかもしれない。


「そもそも、お前さんたちはなんであんな山の中をさまよってたんだ?」


 これを知られてはいけない相手ではないだろう。だから琴平は掻い摘んで経緯(いきさつ)を話した。

 その途端、吉次はなんとも言えない顔をした。憐れんでいるように見えたのは琴平の気のせいだろうか。


「駆け落ちについてきたぁ? とんだ野暮天(やぼてん)だな」

「はぁっ?」


 琴平は耳を疑ったが、吉次は容赦なかった。


「家を捨ててまで手に手を取り合って逃げた男と女だ。二人きりにしてやんな」

「それでは身の守りが疎かに――」

「たとえ死んだとしても、二人でいられりゃ満足だろうよ。気ぃ利かしてやんな」


 吉次のようなその日暮らしの男だったら、駆け落ちさえすれば後は死んでも本望かもしれない。

 けれど、虎之助と松枝に関して言うならば、琴平の方がよっぽど二人をよく知っている。吉次にこんなことを言われる筋合いはない。


 虎之助は簡単に死んでもいいなどと考える人ではないのだ。松枝が無事に暮らしていけるようにするまでは絶対に死んでも放り出したりしない。


 ムッとしてしまった琴平を、吉次は笑う。


「好いた女の一人でもできりゃ、(やっこ)さんの気持ちもわかるってもんだがな。お前さんにはまだ早ぇかな」


 琴平が食ってかかるよりも先に吉次は背を向けて去っていった。


 はらはらと。

 はらはらと、桜の花びらが風に乗って宵闇に溶けていく。


 琴平は吉次の言葉を否定するための何かを欲した。

 踵を返し、来た道を戻る。


 胸が騒ぐのは、吉次のせいばかりではない。

 あの思川太夫の艶やかな姿、色里に立ち込める不穏なもの。

 これまで感じたことのない、清らかな水が濁っていくような寂寥だった。


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